*...*...* Kiss *...*...*
 その日の午後はあれ以降、何事もなくありきたりの時間が流れた。
 受験勉強の間に、フルートを鳴らす。
 フルートが俺を満足させれば、その後からの勉強にも集中できる。
 周囲の人間は俺の態度を、受験勉強をしなくてもいい余裕の仕草と解釈しているらしいが。
 それは当たっているようで、当たっていない。

 本来、高校入試をクリアした時点で、3年後の大学受験は視野に入るわけで。
 3年前から準備をしている俺と、今年に入ってから慌てて焦り出す人間とでは明らかな差があるのは当然だ。

 2月14日にやるアンサンブルのメンバーに加地が加わっているのだろう。
 香穂子は、正門前、加地と2人で練習をしているのを、俺は教室の窓から眺めていた。
 時折響いてくるヴァイオリンの音色は明らかに元気がなくて。
 弾き終えて、まばらに響いてくる拍手に、加地はおろおろと香穂子を取りなしているのが遠目でも分かった。
 香穂子は首を左右に振ると、加地に頭を下げて、別の場所へと走っていく。

 以前聞いた話では、弦の四重奏をやるという話だったから、今度は、月森か、志水と音を合わせに行くのかもしれない。
 香穂子と過ごした時間と、離れる時間。
 つきあい始め、とでもいえる時期は、去年のクリスマス。だからまだ、ともに過ごした時間は1ヶ月くらいだ。
 だから、忘れることなんて、全然大した時間は必要ないと思っていたのに。

 ── どうして俺はこんなに香穂子に執着するのだろう。

 遠くからヴァイオリンの音が鳴り始めた。

 ……これは香穂子の音じゃない。
 香穂子よりも技巧に優れていて、香穂子よりも遙かに上手だが、ただそれだけの音。人を振り向かせない音。

 音色を通して、ずっと香穂子に触れていたから、か?
 それとも星奏の中にいるからか。俺の周りには香穂子のいるような気がする。

 窓の外、つるべ落としの夕焼けはあっという間に暗闇を見せている。
 今日は一段と冷え込みだしたのか、ヒーターの止まった教室は、急に寒さを感じさせた。

 あれ以来、香穂子と一緒に帰っていない。
 薄暗い正門で、香穂子は、俺の姿を認める。
 俺は、2人練習に誘わない香穂子に怒りの矛先を向けて、愛想良く笑うと車に乗り込む。
 今朝会ったときは何とも感じなかったが。
 ── この寒さの中で頑張っている香穂子は、風邪を引くかも知れない。

 俺は香穂子以外のことに思考が働かない自分に苦笑する。

「帰る、か」

 カバンとフルートケースを手に、自分にそう言い聞かせると、俺は教室を後にした。
*...*...*
 西の空に、青白く光る星が見える。
 この様子だと、今晩は冷え込むかもしれない。

 ── やれやれ。香穂子を身近に感じないだけで、こんなに味気ない時間を味わうことになるとはね。
 俺は薄暗闇の中、見慣れた車を見ながら ため息をついた。

「あれ? 今、帰りなの? おっつかれー。今日も遅くまで頑張ったんでしょ?」

 顔を上げた方向から、火原の明るい声がする。
 親しげで、どこか好意を滲ませた声に、聞き覚えがある。
 ── 話し相手は、香穂子?

「あ、そうだ、おれ、送っていってあげようか?」

 相手の返事は聞こえない。でもきっと否定の言葉を返したのだろう。
 さらに返事を吹き飛ばすかのような元気な声が響いてくる。

「だって、ほら。もう、こんなに暗いし! あ、おれのことなら気にしないで。
 この頃、受験勉強はバッチリ頑張ってるから。ね? 香穂ちゃん」

 ── やっぱり、火原の相手は香穂子、か。
 通り道にいる2人を無視してそのまま通り過ぎるのにも抵抗を覚えて、俺は笑顔を取り繕った。

「……やあ、ふたりとも。今、帰りなの?」

 ほら、な。
 俺は自分に言い聞かせる。

 俺は、こんなにも冷静に2人の様子を見ることができる。
 だから、もう、俺と香穂子は何の関係もなくて。だから、忘れることもできるはずで。

「……柚木先輩……」

 香穂子は、火原とふたりでいたところを見られたのを恥じるかのようにさっと顔を赤らめた。

「ふたりとも気をつけて帰って? それじゃ僕は車だから」
「あっ。柚木……」

 さらりと身をかわして車に向かおうとしたとき、火原のおどけたような声が聞こえた。

「── もう、柚木ってば、ムリすることないのにね。ね、香穂ちゃんもそう思うでしょ?」
「は、はい……?」
「……火原」

 聞き捨てならない言葉に、俺はやんわりと非難の調子を込めて火原を呼んだ。

「何か、言ったかい?」
「うん、言ったよ。だって、すごくムリしてるのわかるからね」
「あ、あの……っ。待ってください」

 俺たちの空気にただならないものを感じたのか、香穂子がおろおろと火原の顔を見つめている。
 火原は香穂子に笑いかけると、俺の方に向き直った。

「柚木のことだから、おれに言われなくてもわかってるでしょ?
 あんまり香穂ちゃんに意地ばっかり張ってないで、素直にならなきゃダメだよ?」
「火原?」
「なんならおれ、間に入ってもいいし。今から3人でファミレスでも行く? ふたりともそれくらいの時間は取れるでしょ?」

 火原は俺と香穂子の顔を等分に見て、提案してくる。
 香穂子は、縋るように火原の顔を見つめて、そして、俺の顔を見ることなく、下を向いた。
 強張っている口元は、今にも泣き出しそうに見える。

「お〜い! ひっはら、発見!! ラーメン屋、寄ってく話があるんだけど、お前も行かない?」

 突然、ダミ声が響いてくると思ったら、火原の親友がひょこひょこと近づいてきたのがわかった。
 火原は、俺と香穂子の表情を見て、クスリと笑うと、親友に一緒に行くことを告げている。

「ってふたりきりで話した方が上手く行きそう、って感じかな? 柚木、香穂ちゃんのこと、送ってあげてよ」
「火原?」
「だって、ほら、もう遅いし、寒いし、女の子一人じゃ危ないでしょ? じゃあ、おれ呼ばれてるから行くね! バイバイ!」

 ……やっぱり火原は俺の親友を伊達に3年もやってるわけじゃない。

 遅いから。寒いから。危ないから。
 そういう付加価値をつけたなら、素直じゃない俺も、とりあえず香穂子を送ることはするだろう、と踏んだのだろう。

 香穂子は固まったようにその場に立ちすくんでいる。
 俺に対して一言も口を利いていない香穂子に向かって、俺は告げた。

「なるほど、ね。それじゃ、日野さん。送っていくよ」
*...*...*
 夜、久しぶりに、香穂子を車に乗せる。
 香穂子の横顔には、街のネオンが1本の線になって流れている。
 時折、車内にまで伸びてくる光の粒子が、香穂子の頬の陰影を深くする。

 香穂子の唇がぴくりと何かを言いたげに動いたが、それは言葉になる前に消えてしまうのだろう。
 香穂子は黙って、ベージュ色のコートの上にある自分の手を見つめている。
 手に添っている手袋は、冬休み明け俺が1番最初に贈った品だった。

『この手袋、すごく大事にしてるんです。帰ったら、すぐクリームを塗って。
 えへへ。自分の指よりも大事にしてる、って感じです。どうもありがとう……』

 贈って間もない頃、とびきりの笑顔でそう言っていた。
 その習慣は今も変わりがないのか、膝の上の手袋は、今も新品のような滑らかな光沢を持っている。

 運転手の田中は、朝の送迎でなんとなく感じていたいびつな雰囲気を、今夜はっきりと認識したのだろう。
 いつもよりも強張った肩をして、ハンドルを操縦している。
 ── 多分、明日は、道順を尋ねることなく、車はまっすぐと学院へ向かうに違いない。

 最後。……そう、香穂子と過ごす時間は今夜が最後なのだから。

「……田中、すまないけど、この車、港の方へ回してくれないか?」

 田中はバックミラー越しに俺に頷くと、大きくハンドルを切った。



 街灯が一段と寒さを増した海風に煽られて、ところどころ鋭さを増している。
 香穂子は、緊張した面持ちで、俺の一歩後を歩いている。

「ひとつだけ、君に言っておいた方がいいかと思ってね」

 平日だというのに、この港ではカップルがひらひらと行き交っては消えていく。
 冬の恋人たちというのは、どうしてだか、幸せそうに見える。
 きっとふたりで寒さを押しのけようとしているからかもしれない。

 そんな中、俺と香穂子はどんな風に、この場所に存在しているのだろう。
 香穂子は、そっと俺の隣りに寄り添うと、黙って俺の目を見上げた。

「── 君とは残念なことになってしまったけど。僕は、君と過ごした時間が無意味だったとは思ってないんだよ」
「はい……」

 風に乗って掠れた声が飛んでくる。
 すぐ手が届きそうな距離に香穂子の身体がある。
 何度も触れて、唇の温度まで、知っている身体があるというのに。

 ── 今、もう、こいつに、俺の好意は必要ないから。

 引き寄せかけた腕を、肩の上、香穂子が気づかない位置で止める。
 ……拒否されたのは、俺の方だから。

 俺は遠くの汽笛をぼんやりと聞きながら、話し続けた。

「お前を引き留めることは、もうできないけれど……。
 なぜだろうな。その事実を受け止めてもなお、俺はお前のことを嫌いになれない」
「柚木先輩……」

 俺を見つめていた香穂子の顔が大きく歪んだ。
 いつもは照れて、俺が身体に触れるのも人目に付くところではめったにしなかった。
 そんな香穂子が、溢れる涙を抑えようともせず、俺の胸に飛び込んでくる。

「香穂子?」
「私も、一緒です。柚木先輩の方が間違ってる、って思っても。新見さんや北島さんのこと、思い出しても。
 どんなに考えたって、嫌いになんかなれなかった……」

 抱き寄せた温もりを、現実のモノと認識できないのか、俺の腕に力が入らない。
 胸の中、ぽっかりと顔を上げた香穂子の目に悲しい色ではない涙が浮かんでいるのを知って。

 ── 俺は、俺の気持ちを途中で折り曲げることなく、もう一度香穂子に向かって広げ続けてもいいのだろうか?

 信じられない想いの中、空を切った腕を、香穂子に広げる。抱きしめる。
 コートの中にある香穂子の体は、柔らかく温かかった。
 久しぶりに触れた生身の人間のぬくもりに、抱きしめる腕に力が入っていく。

「香穂子……」
「嫌いになろう、って思うたびに、優しかった先輩ばっかり思い出して……。
 ピアノのレッスンのときのこととか、一緒にアンサンブル組んだときのこととか。
 柚木先輩は、やっぱりズルいです」

 ようやく、俺に抱きかかえられている今の状態に気付いたのか、香穂子は肘を伸ばすと、俺の胸の中からそっと離れようとする。
 俺は構わず香穂子の背中に手を回した。

「お前に拒否されるくらいなら、諦めようと思った」
「ん……」
「だけど。……やっぱり手放せないよ、お前は」

 胸の中にたぎる想いが浮かんでくる。
 想いを言葉にする、ということ。
 それは、たぎるような想いの塊が少し冷めて、表面が固まってきてから初めでてきることなのだ、とようやく気付く。

 俺は香穂子を手放せない。
 愛玩ともいえるかもしれない。いや、執着、と定義づけできるのかもしれない。

「柚木先輩、あの……。ちょっと、痛い、です……」
「……長い間、お前をかまってやれなくて、寂しかったよ、俺は」

 香穂子の言葉も聞き流し、俺は香穂子の髪に鼻を埋めてため息をつく。
 俺の耳をそばだてる音を奏でる女の子に過ぎなかった香穂子は、今日、俺の中で、二度と手放したくない女の子になった。

 香穂子の顔を持ち上げた。
 ── きっとどれだけ口付けても、俺の寂しさ全部は埋まらないに違いない。
 けれど。

 抱きしめ合ってキスをすることで、俺と香穂子の寂しさが少しでも減って。
 ── 残っている寂しさが、明日会えることの喜びにつながれば、いい。

 香穂子は、ゆっくりと目を閉じる。
 俺はふっくらと膨らんだ唇を指先で撫でたあと、自分のそれを押し当てた。
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