*...*...* Phone *...*...*
唇が熱い。何かを話そうと思っても、舌が痺れたように動かない。
「おいで。香穂子」
私は背中に柚木先輩の腕を感じながら車に乗り込んだ。
『気持ち、伝えておいでよ』
耳元で乃亜ちゃんの声がする。
私は信じられないような気持ちで、たった今起きたことを思い返していた。
── まだ、唇に、先輩の感触が残ってる。
去年のクリスマスの夜から、何度もキスはしたことがあったのに。
さっきのキスの強さは、さっきのそれとは比較にならないほど熱かった。
「やれやれ。当分の間、火原には頭が上がらないな」
柚木先輩はどこか悔しそうな、けれど、楽しそうな笑みを浮かべて独り言を言っている。
「それを言ったら、私も、です」
「なに?」
「乃亜ちゃんが……。私のクラスメイトなんですけど、言わなきゃ伝わらないよ、って教えてくれたから」
自分1人だったら、決して渡すことのなかった、茶巾寿司。
柚木先輩だって、火原先輩がいなかったら、決して受け取ることはなかっただろう。
だから……。うん。明日、しっかりと乃亜ちゃんにありがとう、って言おう。
お昼も、乃亜ちゃんと谷くんの都合が良かったらおごっちゃうんだ。そうだ、2人分。
ありがとう、って気持ちって、何度言っても、何度聞いても嬉しいもん。
「それにしても。どうしてお前、そんなに話すのがゆっくりなワケ?」
「え?」
突然の鋭い指摘に、私は目を見開いた。
さっきのことを思い出す。ううん、思い出そうとしなくても、勝手によみがえってくる。
キス、って唇どうし、ときにはそれが唇と頬、になったり、唇と首筋、とで軽く触れ合うだけのものと思っていた。
だけど、自分のモノだと思って疑ってなかった口内を、あんな風にかき乱される行為だ、なんて知らなかった。
そう。柚木先輩に吸い取られた舌が、こんなにも物憂く、動かなくなるなんて……。
「いえ。あの、別に……。何でもない、です」
つっかえながら返事しながらも、この気怠さが、少しだけ嬉しかったりする。
暗がりの中、時折 対向車が柚木先輩の顔を照らしていく。
同じような強さで触れ合ったはずの柚木先輩の唇は、さっきと全然変わってない。
薄く、すっきりとしている。ひんやりとした美しさがそこにはあった。
「へえ。……まだお前は俺に隠しごとをするの?」
柚木先輩は、下を向いた私のあごを持ち上げると、指の腹でいたわるように唇を撫でていく。
「……無理させたかもな。だけど俺は謝る気はないよ」
「はい……」
「1週間分だと思えば、あれでもまだ少ないくらいだ。……ああ、そうだ。お前の携帯、ちょっと貸して?」
「はい? あ、どうぞ?」
私は慌てて鞄の中をごそごそと探る。夜の車の中って暗くて手元が分かりにくい。
状況を察したのか田中さんが車内の灯りをつけてくれる。
「田中さん、ありがとうございます……。
えっと、あれ? 柚木先輩、携帯、今日忘れたんですか?」
手渡しながら、尋ねた。
いつもきっちりとした服装と相まって、柚木先輩は今まで忘れ物ってしたことがないって聞いたことがある。
携帯、って忘れるとその日1日、情報から遠ざかっちゃうような気がするから、私は、お財布よりも大切に持ち歩いてるけど。
柚木先輩は手慣れた様子で、携帯を操作すると、耳元に当てた。
ん……。誰にかけてるんだろ。あ、もしかして火原先輩かな?
呼び出し音が途切れて、携帯の背面のライトがピンクに変わった。
あ、誰か、出てくれたみたい。
「……もしもし。僕、星奏学院 3 年の柚木といいます。君は、東雲 乃亜さん、かな?」
「はい? の、乃亜ちゃん??」
柚木先輩の口から飛び出した名前に はっとする。
あ、あれ? あ、だから、私の携帯を貸して、って言ったの……?
柚木先輩は器用に片方の手で私の髪をかき上げながら、電話口に語りかけている。
「ああ。そう。一応本物だよ。……そう。星奏音楽科の柚木」
携帯から、乃亜ちゃんの絶叫する声が聞こえた。
『う、ウソ! 本物ですか!? あ、近くに香穂子、いるんでしょう? あ、もしかして罰ゲームとかですか!?
相手の親友に電話する、とか! 私もやったこと、あるんです!』
……や、やったこと、あるの?
うう、恥ずかしい……。乃亜ちゃんの ノリノリ加減が伝わってくる!
「突然ごめんね。……実はね、今回のことで、香穂子が君に世話になったって聞いたから。
一言、お礼が言いたくて」
『いえいえいえーー。私こそ、柚木先輩と電話でお話できた、っていうだけで、明日、谷くんに自慢できちゃう!
こっちこそありがとうございました!』
「あ、あの! 柚木先輩、携帯、返してください!」
大親友の乃亜ちゃんと、柚木先輩が話してくれるのは嬉しいけど……。
そういえば、今まで柚木先輩と乃亜ちゃんが話をするシーン、なんて想像できなかった。想像したことも、なかった。
それが……。
どうしよう。── すごく嬉しいかも、しれない。
「ああ。香穂子が替わりたいっていうから替わるね。ちょっと待ってて。ほら、香穂子?」
「はい!」
私は手渡された携帯をもぎ取るようにして耳を澄ませた。
携帯の向こうからは、にぎやかなテレビの音と、家族の声が響いてくる。
「乃亜ちゃん?」
『香穂子〜。なに? あんた。全然心配することないじゃない?
これはやっぱり、あの茶巾寿司が効果あり、だった?』
「ううん……。違うの」
『は?』
「……乃亜ちゃんが、『気持ち、伝えておいで』って言ってくれたから」
『香穂子……』
「明日、またお話しするね。あの、どうもありがとう」
『了解、っと。また明日ね。話、楽しみにしてる!』
乃亜ちゃんは状況を察したかのように、手際よく電話を切った。
「もう、いいのか?」
「はい……」
柚木先輩は不思議そうに私を見つめると、髪を撫でていた手をそっと私の手に乗せる。
周りの人たちの何気ない一言に、背中を押される、ってことがある。
柚木先輩に、火原先輩が必要だったように。私にも乃亜ちゃんが必要だった。
人って気づかないうちに、影響を受けて、与えて。
自分でも思ってもみなかった一歩を踏み出したりする。
握られた手を握り返す。見上げると、柚木先輩は何も言わずに微笑んでいる。
── この手を離したくない。もう。つまらない意地を張って、離れたくない。
*...*...*
帰宅してからしばらくしたあと、また電話が鳴った。ディスプレイには先輩の名前がにぎやかに点滅している。
『香穂子? 俺だけど』
「あ、はい。わかります……」
『さっきは俺に付き合ってくれてありがとう』
自室に戻ったのかな? 柚木先輩は、いつもの寛いだ優しい声をしている。
私はもうパジャマに着替えて、ベットの上で譜読みをしているところだった。
懸命に意識を集中させていても、どこか楽譜の中の音符は踊り出すような仕草を見せる。
私は気付かないうちにフルートパートを追ったり、旋律を口ずさんだりしていた。
心に引っかかっていたモノが取れちゃうだけで、こんなにも楽譜を見るのが楽しい私、ってかなりお調子者なのかもしれない。
『遅くまで連れ回したから、今日は疲れただろう? 早めに休むといいよ』
「ううん。……なんだか夢みたいで」
「香穂子?」
どんよりと鉛色のような1週間を過ごした。
それが、乃亜ちゃんの一言で。火原先輩の一言で。柚木先輩のちからで。
たった数時間で、取り払われた。
宙を浮いているような、ふわふわした感じは、まさしく夢そのものだと思う。
「ん……。あのね、今夜、これから眠るでしょう? そして、明日の朝、目が覚めて。
そうしたら、さっきのことが全部、夢になっちゃうような気がして、なかなか眠れないんです」
ここ1週間、睡眠不足が続いてる。こんなんじゃ、寒い季節だし、本当に風邪を引いちゃいそうな気がする。
だから、今日くらいは、たっぷり眠らなくてはいけないのに。
「あれ? 柚木先輩。……どうか、しましたか?」
長すぎる沈黙に、私は慌てて好きな人の名前を呼んだ。
携帯は深い嘆息の後、小さな声を連れてくる。
『── 可愛いことを言うね』
「そ、そうですか?」
『駆け引きなしにそう言ってくるから、俺としては余計困るんだけど』
「はい?」
えーっと。……困る、困る……。
でも、乃亜ちゃんは、気持ちを伝えることが大事、って言ってたし……。
わけもなく、壁に掛かっている時計を見つめる。もうすぐ、長針は新しい1日を始めようとしている。
柚木先輩は、ふと思いついたかのように、低い声で尋ねてきた。
『どう? もう、唇は落ち着いた?』
「は、はい。なんとか」
まだ、なんとなく舌は もつれてる。
そう告げるのも恥ずかしくて、私は短く返事をすると、受話器を耳に押しつけた。
柚木先輩の息づかいが聞こえる。
1本の線。距離も時間も超えて、私たちを繋ぐ道。
今の私にできることはなにかな、って考える。
彼が喜んでくれること。笑ってくれること。── 彼のためにできること。それは……。
「あ、あの。私……」
(アンサンブル、頑張ろうと思うんです。今まで遅れてた分もいっぱい)
そう告げようとした矢先、意地悪な声が耳元に届いた。
『今夜このまま家に帰すのは忍びなかったけどね。── 楽しみはあとに取っておくことにしたよ』