*...*...* Will *...*...*
あの日以来。そう、火原が俺と香穂子との間を仲立ちして以来。俺と香穂子は以前にも増して一緒の時間を共有するようになった。
学年も学科も違う。だけど、会おうという気持ちさえあれば、いつだって会える。
俺たちは細切れの時間を縫うようにして時間を共有した。
朝の登校。昼休み。放課後。
お互いの気持ちをさらけ出した今は、あいつの言動や行動を何の駆け引きもなく信じられる俺がいる。
それは香穂子も同じなのだろう。
笑いかけてくる顔も、屈託のない態度も、去年の春に出会ったときのままだった。
何よりも雄弁なのは香穂子のヴァイオリンの音だろう。
放課後の二人練習も、そしてみんなで合わせるアンサンブル練習も。
仲違いしていた頃とは全く違う、豊かな、懐の深い音になっていた。
「いよいよ、ですね……。なんだか緊張します……っ」
「そう? いつも通りのお前で良いと思うけど」
明日は2月14日。約1ヶ月間、練習をし続けていた、課題曲の発表の日。
その前日の放課後、香穂子は、小さなメモを覗き込んで、1つ1つ、文章をペン先で追っていた。
「えっと……。これで課題は全部クリアかな?」
「課題?」
「そうです。課題です。私、毎週月曜日に理事長室行くの、すごく緊張してたんですよ?」
「なに? それ」
香穂子が見せてくれたのは、3月14日のオーケストラに向けての課題一覧だった。
見ると 小さい字で、楽器名を始め、オーケストラ員の名前や学年、得意曲や、修得度まで細かく書かれている。
「って、お前、アンサンブル練習の間にこんなこともやってたの?」
「はい! あとは、明日のアンサンブルコンサートで、SS以上の評価をもらえれば、大丈夫かな、って感じです。
今だから言えるけど、オケのメンバーを集めるの、結構大変だったんですよ?」
笑いながら香穂子は言う。
「どうして俺に言わなかったの?」
「ん……。言おう言おう、って思ってたんですけど、しばらくお話できない時期もあったし……」
香穂子は言いづらそうに口ごもると、視線を外した。
── 本当に。今振り返ってもやりきれない想いが浮かんでくる。
あのまま。俺が意地を張り続けたまま、香穂子を手放していたら、今の俺たちは存在しない。
きっとピアノを辞めたときのように、自分の感情に無理矢理ふたをして。
10年が過ぎた未来でも、心のかさぶたになっているに違いない。
火原の、少しだけ大人っぽくなった笑顔が浮かんでくる。
── なにもかもお見通し、とでも言いたげな顔。
(当分は火原には頭が上がらないな)
でも親友に弱味を見せている、という状態は、自分の想像よりも、気分のいいものだった。
── より、火原と親しくなれた。そんな気がする。
「そろそろお話しよう、って思ってたら、ほら、柚木先輩、受験で週末お忙しかったですよね?」
「やれやれ。俺は蚊帳の外、ってワケね」
「そ、そんなことないです! ……えーっと、課題一覧表、見てください。大体こんな感じです」
多少気分を損ねたフリをして香穂子を流し見ると、香穂子は慌てて、俺に課題一覧表を手渡してくる。
綺麗な字、とは言えないけれど、これから磨きをかければ綺麗になる素質を十分含んでいるようなふっくらとした素直な字が、紙の中に躍っている。
「へえ。2年の内田、ねえ……。こいつは、なかなか良い演奏をするよな。
それに俺に似て、協調性もあるし。技術面においても月森といい勝負なんじゃないか?」
「えっと、俺に似て……、ってところが、んん? って思わなくもないんですけど……。
はい。親友の須弥ちゃん経由で、仲良くしてもらってるんです!」
「ああ。あの新見さんもお前のオーケストラメンバーに入ってるの? 意外だね」
「え、っと……。実はかなり緊張します……。練習の間中ね、
『きっと柚木サマならこんな風に演奏なさるわっ』
って言い続けてるんだもの……。曲の雰囲気は似てるんだけど、私は柚木先輩の音の方が好きです」
「そう? ああ。2年の松浦、こいつフルートだろ。2年生の中ではなかなかレベルが高いって評判だ。
……ま、俺ほどではないけどね」
「あ、はは……。えっと、この人はね、練習依頼を出すとね、必ず頑張ってきてくれるんです。大好きです!」
「って、お前。『大好き』なんて言葉を気軽に使わないの」
そうでした、と香穂子は嬉しそうに頷く。
一瞬遅れて、羞じらいから浮かんでくる頬の赤さに、俺の想いまでも熱く火照ってくる。
香穂子の肩先。そこから続く、細い腕。白い指。この手が必死に弦を押さえ、音楽を生む。
見た目だけではわからない。
より深く知り合った、と思う今でもわからない。
── こいつの一体どこに、これほどの困難に立ち向かう息吹があるというんだろう。
「ま、こいつらの気持ちも、案外分からないわけではないけどね」
「へ? なんの話ですか……?」
惹かれて。
俺の勝手な都合で離れて。
再び惹かれ出した今の俺には、オケのメンバーが考えている部分をはっきりと察することができる。
「お前はね、構ってやりたい、という気にさせるんだよ」
華奢な普通の女の子。顔だって、ぱっと人目を惹くタイプじゃない。
ただ、香穂子の作る雰囲気は、どこまでも柔らかく優しくて。
きっと香穂子のヴァイオリンの音色と同じだ。
一度、香穂子の資質に触れた人間は、もう一度聴きたいと思う。触れたいと思う。
「なぜだか、放っておくことができないんだ、お前は」
「どうしてでしょう?」
「……言い換えてあげようか? この星奏を背負って立つ、ヴァイオリニストの日野香穂子さんは、いかにも頼りない、って話さ」
「うう、それって、全然褒めてない、ですよね……」
「そう思うなら、正解、ってところかな?」
香穂子は憎まれ口を叩く俺を、優しそうな目の色で見つめた後、ヴァイオリンを肩に載せた。
明日のアンサンブルコンサートのための、最終調整をしようという考えなのだろう。
俺も微笑んで立ち上がると、香穂子のヴァイオリンの音に合わせて、フルートの旋律を乗せる。
……限りある日々と。止まらない時間と。音楽と。
全てを香穂子と共有する。
香穂子は、いつしか俺の存在も忘れてヴァイオリンに没頭し始めた。
そんなお前に、今の俺は何をしてやれるのだろう。
香穂子は、俺の好きなカルメンを軽いタッチで弾き終えると、何でもないことのように切り出した。
「最近はね、コンサートが成功しますように、って気持ちを込めて演奏するだけじゃなくてね。
もう1つ、考えながら弾いていることがあるんです」
「なに?」
俺は視線を上げると香穂子の目を見つめた。
こいつに今、コンサート成功以上になにか期待することがあるんだろうか?
「ん……。柚木先輩の受験が、無事に終わりますように、って。── 合格しますように、って」
「へえ。お前もずいぶんと余裕じゃないか? コンサート以外のことを願う余裕が出てきたって?」
嬉しいクセに、そう憎まれ口をたたく俺もどうかと思う。
香穂子は俺の憎まれ口に臆することなく笑い声を上げた。
「そうです。コンサートの成功と、柚木先輩の合格と。私、どちらも譲れません!」
「ま、いいけど」
森の広場。
日が翳ってきたのか、さっきまで賑わいを見せていた人の声はほとんどどしない。
俺たちを見ているのは金澤先生が可愛がっているネコだけ。
俺は、ヴァイオリンを持つことで、両手が不自由になっている香穂子を抱き寄せる。
重心を崩した香穂子はあっけなく俺の手中に入ってくる。
「わっ! な、なにするんですか……っ」
「お守り代わり」
「え?」
「……お前が小さくなって、俺の懐に入っていれば、受験なんて簡単に合格するかもね」
いつもだったらすっぽりと俺の胸の位置に馴染む香穂子が、不思議そうに、俺の内ポケットをなぞっている。
ああ。そう言えば、今日も後輩と名乗る女の子から、受験のお守りをもらったんだったな。
あまりに多くて、殆どは自宅に置いてあるものの、いつもカバンを持ち歩いているワケでもないから。
いきなりもらったお守りは内ポケットに入れるしかない。
香穂子は、その中身を察したのだろう。困ったように笑うと、俺の顔を見上げる。
「えへへ。もしそんなことになったら、私、ここにいる神様たちに押しつぶされちゃいますよ」
*...*...*
帰り道。俺は昨日のうちに運転手の田中に迎えにくる必要がないことを告げると、正門前で香穂子が来るのを待っていた。
森の広場で2人きりの練習をしたあと、香穂子は加地と練習しなくちゃいけないから、と、慌てて練習室へと向かったからだ。
── あいつの強さは、どこから生まれて、どこに向かおうとしているのか。
最初はわからなかった。どこにでもいる普通の女の子だと思っていた。
あいつにとって俺は一番近くにいる存在だと、信じられる今になっても、まだ、わからない。
左手でボーイングをしかねないほどの初心者だったあいつが、4回のセレクションを無事こなした、春。
演奏技術だけではない、人をまとめ、導く力まで持っていることを証明した、秋。
そして、冬。
あいつは、また一回り成長して、オーケストラのコンミスを務めようとさえしている。
「すみません。遅くなりました!」
日頃、あれほど楽器を持っているときは走らないように言っているのに、香穂子は前髪を風に煽られながら、俺の方に走ってきた。
「あ、あれ? 柚木先輩の車、は……?」
時間に遅れたことで、田中まで待たせてるのを恐縮してか、香穂子はすっかり暗くなった正門前を見回している。
「おいで。今日は少し歩きたい気分なんだ。もちろん付き合ってくれるよね?」
「あ、はい。私は大丈夫です」
香穂子は話し始める。
今日の加地との練習のことや、月森、志水とやったアンサンブル練習のこと。
昼休みに会った、天羽さんのこと。それに俺があまり知り得る機会のなかった、都築さんのこと。
いつも聞き側に回っている香穂子の話し方は、けっして流暢でも饒舌でもなかったが、俺にはすごく心地良かった。
「じゃあ、ここで。……お休みなさい。柚木先輩」
話が一段落すると、香穂子の自宅の前に着いていた。
門扉に手を掛けながらも、香穂子は名残惜しそうな目をして俺の目を覗き込んだ。
俺の地位とか、名声とか、学院での立場とか。
そんなものなど、なに1つ映していないような、深い海のような澄んだ色がそこにはあった。
「お前にはずいぶん楽しませてもらったよ」
「え? そうですか?」
「ずっと考えていたよ。リリに見初められてヴァイオリンを始めてからのお前のことを」
「ん……」
「4つのセレクション、4つのアンサンブルをこなして、お前は今、オーケストラに立ち向かおうとしてるだろう?
その強さはどこからくるのか、と思ってね」
「強さ、ですか……。自分ではよくわからないんですけど」
俺は香穂子の指を手袋越しになぞった。
「ま、最初は鈍いからなんにも考えてないだけだろうと、アタリをつけていたんだけどね。
……どうやらそうでもなさそうだ」
俺の言葉に、香穂子は一瞬口を尖らせて俺をにらんだ。
しかし、俺の真剣な様子に、言葉の続きを見つけたのか、黙って頷いている。
「正直、理由はまだわからない。これだけお前の近くにいて、お前に触れている俺であってもね」
素早く周囲を見回して、香穂子に口づける。
さすがに、自宅前で、という思いがあったのか、香穂子は身体を強張らせると、必死に俺の身体を押しのけようとする。
── ふうん。ヴァイオリンケースで、手が使えない、って、案外便利な時もあるってことか。
繋がりあっている1点が、柔らかく溶けていく。
俺が求めるだけ、求めて欲しい。もう逃がさない。
俺の想いに応えるかのように、香穂子の背中から力が抜けていった。
2人の体温が混ざり合って、どちらのものか分からなくなったとき、ようやく俺は唇を離した。
「び、びっくり、した……」
「だから……。お前のことがもっと知りたくなったよ」
「はい?」
「ねえ。お前のその謎めいている部分って、1度抱いてみればわかるのかな?」
「は、はい??」
「コンサートが終わった夜は、空けておくようにね」
元々香穂子は目が大きいとは思う。顔色じゃなく、目の色を見れば、何を感じているのかわかるほどだ。
その香穂子が、さらに目を見開いて、俺の顔を凝視している。
何の駆け引きもない、子どものような反応に、思わず吹き出した。
妹の雅にだってもう少し、艶っぽい態度ができそうなものだ。
「も、もう……。そんなに笑わないでください……。恥ずかしいです。泣きたいくらい!」
「いや、本当のところ、飽きさせないお前が好きだよ。どうか願わくば、いつまでも今のままのお前でいて欲しいね」
ひとしきり笑った後、俺は香穂子の前髪をかき上げると、一句一句言い聞かせるように告げた。
そこに、願いのような、祈りのような愛しさを込めて。
「ねえ、香穂子。お前にはコンミスの適性がある。お前はコンミスになるんだ。
……俺にここまでいわせた以上、必ずコンミス姿を見せるようにね」