*...*...* Orion *...*...*
「おはよう。香穂子。忘れ物はない?」「おはようございます。忘れ物、ですか? 多分、大丈夫です」
朝、笑って柚木先輩と挨拶をする。
ごく普通のなんでもないこと、って人は捉えるかもしれないけど、私は嬉しくて仕方なかった。
仲違いをして、どうしていいかわからなかった頃、どこに投げかけても決してぶつかることの無かった視線。
それが、今は、柚木先輩のどこに目をあてても、絡み合う。
柔らかく重なり合って、あっという間に溶けていく。
1年で1番寒い季節だというのに、車の中での雰囲気は、春以上に暖かい。
(次に何か起きたら、今度こそ、お前の側に立って、しっかり守ってやるよ。
たとえ、その結果、一波乱おきたとしても…。それはそれでかまわない)
冷たい海風が吹き荒れる中、耳元で聞いた言葉を思い出す。
自分から触れ回るなんて、恥ずかしくてできないけど。
そう。もう、……隠さなくてもいいんだ。
親衛隊さんの新見さんたちに会っても、普通に挨拶、すればいいんだ。
須弥ちゃんや乃亜ちゃんに聞かれたら、普通にお話、できるんだ。
親友の2人からしてみれば、『まったく香穂子って単純!』って冷やかされる、かも、だけど。
自分でも知らないうちに頬が緩み出すのは、どうしても止められない。
「……ったく。なに考えるか、まるわかりの顔だな、お前って」
「い、いいんです!」
「もう少し、締まりのある表情していた方がコンミスらしいぜ?」
からかう人をふくれっ面でにらむ。
そのとき ふと私は運転席にいる田中さんの、目尻に寄るシワを見つけた。
(あ……)
柚木先輩の問いかけに、『はい』か、『いいえ』
受け答えの声しか聞いたことない。それほど寡黙な人だけど。
今日の田中さんの横顔はどこか嬉しそうな微笑を浮かべている。
私と柚木先輩があまり話をしなかったころ。
多分、田中さんは沈黙の車内で、息をするのも億劫だったんじゃないかな、って想像する。
それってつまり、1日の始まりの朝に、イヤな気持ちを味合わせちゃった、ってことだよね。
柚木先輩に相談したら、『余計な気遣いは無用だよ』って言われることはわかりきってるけど。
でもなにか、今度、田中さんが喜びそうなモノ、贈ってみようかな。
柚木先輩は、私の視線の先にある田中さんに目をやると、苦笑を浮かべながら私の方を向いた。
「── 『好事魔多し』と言うから。お前、どこかに手抜かりがあるんじゃないか?」
「そ、そうですか?」
「俺のことやアンサンブルのこと以外。……お前、授業の方はちゃんとついていってるの?」
授業と言われて、私は黒板の端の、毎日の時間割が書いてあるところを思い出す。
今日は、珍しく 主要5科目全部ある日だったような……。えっと、あれ?
わ、考えただけで、頭が痛くなるような教科があったはず。確か数U。
数Uって……。えっと……。あれ? おととい、なにか言われたような……?
『みなさん。期末の前ですけど、簡単なテストをします。
難易度は教科書レベルだから、ちゃんと復習してくるようにね』
銀縁のメガネが格好いい武藤先生がそう言ってたような……。って、それって、今日?
この頃、教科書の下に楽譜を置いて、譜読みばっかりしてたから、学校の授業なんて全然分かってないのに。
難易度 教科書レベルって言ったって、範囲さえ分かってない私にとっては最強レベルかもしれない……。
「どうしたの。急にそわそわして」
「思い出しました! 今日、数Uの小テストがあるんです」
「ふうん。何時間目? 良ければ勉強を見てあげるよ?」
「嬉しいです! あの、ヤマだけ張ってくれれば、あとは気合でなんとかします! よろしくお願いします」
地獄で仏、ってこういうことかも! 私はほっと息をついて笑いかけた。
って、待って。数Uって、音楽科でもやるのかな……? 柚木先輩、わかるのかな?
「で? 範囲はどこ?」
「えーっと、範囲、ですか?」
そこで私はまた我に返る。── えっと、範囲、ってどこ?
殆ど開かれたことのない教科書の表紙を思い出す。想像の中で開いてみたって、中身はまるで白紙だ。
えっと……。範囲、範囲……。私って、情けなさすぎる!
「香穂子?」
「あの、範囲……。どこ、なんでしょう??」
「って、俺に聞いてどうするつもり?」
心底呆れたような表情を浮かべている柚木先輩に、これ以上笑われるのも恥ずかしい。
バカバカ、私。こんなおバカなところを見せ続けたら、好かれる前に、嫌われちゃうよーー。
「あの、クラスメイトに聞いてきます! 柚木先輩は、図書館で待っててください」
私は車が止まるのと同時に教室へと走り出した。
*...*...*
私の勉強のお粗末さ加減が心配になったのだろう。その週末は、柚木先輩と2人で練習をした後、一緒に図書館で勉強しようという話になった。
「俺も受験勉強をしているから。お前もちょっとは勉強していたら?」
「はい……」
柚木先輩はあらかじめ準備しておいたという 英語の原書らしきモノを取り出して、静かに文脈を目で追い始めた。
柚木先輩と、本。
私も含めて、それ以外の物体はまるで最初から存在しないとでも感じさせる集中力に、私はぼんやりと彼の様子を見つめる。
誰だって、1日は24時間しかない。
だから、賢い人っていうのは、実は時間の使い方が上手なんじゃないかなあ、って考えるようになった。
特に、時間が惜しい、って感じる平日は、そう思う。
私が1時間で仕上げる曲を30分で。ううん、10分で仕上げたら。
その人は、残りの50分でさらに5曲を仕上げることができるんだもの。
教科書のたぐいをなに1つ持ってこなかった私は、図書館で柚木先輩が見繕ってくれた数学の問題集に目を落とした。
国語、とか物語、なら、文章に浸って、どんどん目が冴えてくるモノなのに。
……どうしよう。だんだん文字が霞んでくる。
── 眠い、かも……。
数字を見るとワクワクして、目が覚める、って言ってる土浦くんて、すごいと思う。
こんな味気ないモノに、どうして気持ちを高ぶらせることができるんだろ……。
外の喧噪も聞こえない。100年も前から、この場所の空気は沈殿し続けてるんじゃないか、って思うほど、いかめしい。
こんな空間にずっと浸り続けたら、私自身、生きたままシーラカンスになりそうな気がする。
柚木先輩は、目だけが静かな生き物のように動くけど、身体はきりりと姿勢を正したまま動かない。
今日午前中は、柚木先輩としっかり練習をした。
だから、今は、音楽のことじゃなくて学校の授業のことを考えるとき、で。
だけど、どんどん降りてくるまぶたを、私、どうしたら、いいのかな……?
「香穂子? ほら、起きて?」
「は、はい……?」
「おはよう。香穂子」
「は、はい!?」
あれ、私、もしかして、寝ちゃってたの……?
きょろきょろと周囲に目をやる。
さっき覚えてた景色と何も変わってない。変わったのは、柚木先輩の姿勢だけ。心配そうに少し前屈みになってる。
「ごめんなさい。私、本当に眠ってたみたい……」
「ああ。よく寝てたな。少し無防備すぎないか? こんなところで寝顔を見せられてもな」
この前の小テストといい、そして今の居眠りといい……。本当に私、何やってるんだろ。
あ、ずいぶん前、まだ、こうしてお付き合いをする前、言われたことがあったっけ。
『俺、バカは嫌いだよ?』
って。最近の私の行動って、バカばっかりやってる気がする! ううん。『気がする』んじゃなくて、『やってる』、んだ。
「あはは……。あ、えーっと、柚木先輩、勉強は??」
「俺の勉強? とっくにすんでいるよ。……眠るお前をどのくらい見ていたかな……」
「そんなに見てたんですか?」
「ふふ、なんて顔してるの? ほんの数分だよ。外に出れば少しは眠気が覚めるかもしれない。さ、おいで。」
「は、はい!」
慌ててコートを羽織ると、私は柚木先輩の背中を追った。
まだ5時頃だというのに、辺りは暗く、街のネオンが一層輝きを増している。
「きれいな星空だな」
柚木先輩は、白い息を吐きながら空を見上げる。
暗闇の中、先輩の髪は艶を増していて、私は、改めてこの人の美しさを知る。
こんな美しい人って、女の子の中にもあまりいない。
(先輩……)
この前までの暗い表情が、ウソのように和らいでいるのを見て、ふいに胸が痛くなる。
恋をして。想った人に想われて。
今、同じ時間、同じ空間にいることが、奇跡のように思えてくる。
「冬の第三角形がよく見える。お前、知ってる? シリウス、ベテルギウス、プロキオン……。
オリオン座を見つけるとすぐわかる」
「詳しいですね」
「ああ。祖父が詳しかったからね。よく俺を膝に抱いて教えてくれたよ」
高台にあるこの図書館には、港の風が吹き抜けてくる。
風の冷たさに身震いをすると、柚木先輩は、黙って私の背後に立って背中越しに抱きかかえた。
「なあ、お前。星にも寿命があるって知ってる?」
柚木先輩の白い息を通して見る星たちは、ゆらゆらと寂しそうに揺れている。
まるで、今夜一晩で、自分の身を焼き尽くそうとでも思ってるみたいだ。
「人と同じように星もいつかは消えゆくんだ。あの輝きも永遠じゃない。
── 俺たちも同じことだよ。うつろいゆく星々に比べても、さらに束の間の一瞬の存在でしかない」
淡々とした言い方に、私はこの1年間のことを思い出す。
高2の春。リリと出会ってから、いろんなことがあった。
私の生活はヴァイオリン一辺倒になった。
私が、音楽を、みんなを、柚木先輩をかけがえのない大切なものとして、必死に守っていることも。
星たちの営みからしたら、儚すぎる瞬間なのかもしれない。
……だと、したら?
今、こうして柚木先輩と2人でいることも。なにもかも。
星たちからしたら、取るにも足らない儚いことなのかな……。
柚木先輩は回した手を強くする。
「悲しむことはないんだよ。変わる可能性があるのはいいことだ」
「はい。そう思います。……私、柚木先輩が音楽を続けてくれる、って聞いて、本当に嬉しかったから」
重なり合った手にちからを込める。
すっかり私の指の形に馴染んだ手袋は、彼の指の形をそのまま伝えてくれた。
「俺は、はかない高校生活を、はかない音楽という芸術に傾けてきたわけだけど……
今は、俺はお前に会えてよかった。── そう思ってるよ」
「はい……」
「……眠っているお前を見守っている間、不思議と幸福だった。子どもみたいに無邪気な寝顔に心が安らいだよ」
甘えたような言い方に、私の中が暖かいもので満たされてくのを感じる。
「変わっていくものたちの中で、変わらないことを望むものがある。……ねえ。香穂子?」
「はい?」
鼻先を私の髪の中に埋めたのかな。頭の後ろから、くぐもった声が聞こえた。
「どうかお前は、俺にとってずっと変わらない存在であることを望むよ」
夜、柚木先輩からメールが届いた。
そこには遅くなってすまない、という謝罪と共に。
来年の今日、同じ時間にもう1度、星空を眺めてみようか、という言葉が添えられていた。
1ヶ月前。
3ヶ月先の春の音楽祭の約束が嬉しかった。待ち遠しいって心から思った。
その音楽祭に、私はコンミスとして参加する。
そして、今。
新たに、1年先の星を見る約束をする。
私の1年後は、どんな風に、扉が開かれるのだろう?
きっと、柚木先輩は、今までと変わらない。
冷静に着実に、彼らしく、音楽と学業、2つとも両立させていくんだろう。
みんなの見えないところで。努力を努力とも思わないで。
……私は? そうだ、私も。
ベッドの横。部屋の窓から注ぎ込む星明かりを見ながら祈る。
── 私も、あの人にふさわしい私になれますように。