*...*...* Valentine *...*...*
2月14日の、アンサンブルコンサート当日の朝。俺はいつもの登校の時のように、香穂子を家まで迎えにいく。
香穂子はいつものようにきっちりと準備を済ませて、今日も人待ち顔で立っているだろう。
香穂子が、俺を待つ。
待ち合わせ。約束なんだから当然だ、と言えば当然だけど。
香穂子の様子を想像するだけで、俺は胸が熱くなるのを感じる。
「梓馬さま。申し訳ありません。今日は思った以上に道が混んでいたみたいですね」
「悪いね、田中。できるだけ急いでくれるかな?」
運転手の田中は、カフスに隠れている腕時計を覗き込むと、そのついでに額の汗を手の甲で拭った。
もう少し先。この角の向こうに香穂子の家がある。
俺は香穂子の自宅の前に着いて、車が止まると同時にドアを開けた。
「香穂子」
「あ、柚木先輩。おはようございます!」
香穂子の頬は、今日これからのことに思いを馳せているのか、赤味を増していて暖かい。
俺は、手袋から出ている細い手首を握った。……思ったよりも冷え切っている。
「待たせて、悪かったな。今日は道が混んでいたんだ。……ずいぶん手が冷たいね」
「なんだか眠れなくて。今日はすごく早起きしたんです」
「家の中で待っていれば良かったのに。これだからお前は」
俺は香穂子の肩を抱くようにして車の中に招き入れた。
秋にやったアンサンブルコンサートが、今の香穂子の糧になっているのだろう。
香穂子は手際よく荷物をまとめたかのか、手にしている荷物は衣装ケースと、小さなカバン、それに、ヴァイオリンケースだけだった。
「どう? 気分は」
「はい……。もう、やるべきことは全部やった。大丈夫、っていう気持ちと……。
なにもかもやり残しがあるんじゃないか、って不安な気持ちと……。交互にくる感じです」
「そう」
「だけど、どこか安心してるんです。── 柚木先輩がいてくれるし。アンサンブルだから。
ずっと、一緒に演奏してきた、仲間と演奏するんだから、って」
香穂子はきゅっとヴァイオリンケースを握りしめると、嬉しそうに俺を見上げた。
「私……。前に、柚木先輩に、『大好き』って言葉を使って、注意されたことありましたよね?
あまり気安く使わないように、って。
だけどね、今までずっと私に音楽を教えてくれたみんなには、大好きって言葉を使いたいって思う。
月森くんや、土浦くん。加地くん。後輩の志水くん、冬海ちゃん。それに火原先輩……。
王崎先輩も、金澤先生も。あと、すごく皮肉屋さんの、吉羅さんにも。お姉さんの都築さんにも」
「香穂子」
「みんながいてくれなかったら、今の私はいないから。ううん、他にも、いっぱいいるんですよ?
須弥ちゃんや乃亜ちゃん。谷くん……。演奏するたびにたくさん拍手をくれた、星奏のみんなも」
きっぱりと言い切る香穂子の目は、まっすぐと、フロントガラスの向こうにある一本の道路を見定めている。
今いる状況で最善の努力をする女の子。
周りの人に、ありがとう、と言える女の子。
そうか……。今更ながらに、思い知る。こいつの音色の豊かさを。
それは、こいつの優しい気性が音にとけ込んでいるからだろう。
車は滑らかに市民ホールの前に横付けになる。俺は香穂子の手を取って、軽く握った。
「さあ、試験会場への到着だ。準備はいい?」
「柚木、先輩……」
さっきまであんなにきっぱりとしたいい表情を見せていたのに、大きなホールを背景に見たら突然不安が増したらしい。
香穂子は、屈託のある表情で俺を見つめた。
抱きしめるなり、口づけるなりしようにも、朝の明るさの中では、それもままならない。
俺は、手櫛で香穂子の前髪を整えると、軽く香穂子の頬を撫でた。
「心配しなくても、おかしなところはないよ。さ、お前らしく行っておいで。俺も後から行くから」
*...*...*
香穂子が奏でた最後の一音が、ホールの暗闇に吸い込まれていく。割れるような拍手の後、俺たちは袖に戻ると一斉に安堵の声を上げた。
興奮が冷めやらない。
確か数ヶ月前に、俺は同じ興奮を味わっていたはず。
火原。そして、月森、加地、土浦。志水に冬海さん。
このメンバーで奏でた音色は、選曲も手伝って、クリスマスコンサートに相応しいものになった。
あの日からまだ数ヶ月しか経っていないのに、身体の震えが止まらない。
── これほどまでに、奏でることが心地良く感じるなんて。
袖下では金澤先生と王崎さんが、興奮した面持ちで言い合っている。
「これだから若いって怖いんだよ。日に日に、じゃないな。1秒ごとに成長してるってか」
「そうですね。おれも久しぶりに興奮しました。また、みんな力をつけてきましたね」
俺も感じていたように、今回演奏したアンサンブル3曲は、演奏者自身も十分プライドを満足させる演奏だったらしい。
火原と土浦は、興奮した面持ちでお互いの肩を抱き合っていた。
その裏付けとして、聞こえてくるのが、アンコールを望む聴衆の拍手だった。
自然に俺たちの声も、高く、大きくなる。
日頃は、あまり大きな声で話さないことをたしなみとして躾けられた俺だったが、仲間ともいえるみんなの声はとても気持ち良かった。
そんな中、2つの黒い影が近づいてくる、と思ったら、それは、都築さんと吉羅理事長だった。
2人とも穏やかな笑みを浮かべている。
「みんな、いるわね」
香穂子は2人の様子を見て、ピンと緊張した面持ちになった。
都築さんは、俺たちにさっと視線を流すと、単刀直入に告げる。
「まずはお疲れ様。さて、お待ちかねの結果が出たわよ。吉羅理事長、お願いします」
吉羅理事長は、俺たちを見回したあと、まっすぐに香穂子を見つめた。
「理事達は君のコンミス就任を認めたよ。日野君。諸君、良くやってくれたね」
「本当に……?」
「香穂。やったな!」
「香穂さん。……君はやっぱり素晴らしい才能の持ち主だよ」
途端に周囲が、先ほどの喧噪以上の賞賛に包まれる。
香穂子は、両手で口を押さえたまま、二の句が告げられないらしい。顔を赤らめて、冬海さんの手を握っている。
── 今、俺が、どんな気持ちでお前を見ているか、なんてわからないだろうな。
愛しくて。可愛くて。そして、少し成長したようで。……また追いかけたくなる。
『私、音楽の道に進みたいと思っています』
そう思っているお前の、音楽の扉が、また一つ開いた。
扉を押し開けたときの力。その中に、ささやかだけど俺という存在が入っていたこと。
それをどんなに誇らしく思ってるか、なんてな。
おめでとう、とか。やったな、という仲間のエールが飛び交う中、俺は、ややかしこまった讃辞を香穂子に告げた。
「おめでとう、日野さん。……努力が報われる瞬間はいつでも気持ちいいものだね」
*...*...*
楽屋へ向かう帰り道。ご機嫌な火原を先頭にして1番後ろを歩いていると、つ、と、上着をひっぱられる力を感じた。
「なに? どうしたの? 香穂子」
日頃、香穂子は、学院内や、特にアンサンブルメンバーの前では、先輩後輩という立場を崩したことがなかった。
こうして、みんながいるところで話しかけてくるというのも稀なことなのに。
俺は不思議に思って小声で尋ねると、香穂子は緊張した様子で俺を見つめた。
「柚木先輩。あの、今からちょっとだけ、コンサートホールの外に来てくれませんか?」
「なに?」
「えっと、今日、渡したいものがあって……」
その言葉に、俺は今日がとある日であることを思い当たる。
今日の俺の関心事と言えば、何よりもアンサンブルの成功と、香穂子のコンミス承認、この2つで。
今日がヴァレンタインのことなどは、全く眼中になかった。
しかし、誰がどのルートでこういうことをするのかはわからないけれど。
控え室の俺の席には、チョコレートが山のように積まれていた。
ヴァレンタイン、か……。
『柚木先輩が、学院中の有名人だ、ってことは、普通科の俺も知ってます。
けど、もうちょっとこのチョコレート、どうにかしてくださいよ。
俺の席にまでなだれてるじゃないですか!』
コンサート直前、俺の隣りの席だった土浦はイヤミをふっかけてきたな。
『おや、そう? それはすまなかったね。よかったら、なにか一つ食べるかい?』
『いりませんよっ』
そう、か。ヴァレンタイン、ね……。
持って帰るのにどうしようか、と悩むチョコレートもあれば。
一方で、こんなにも嬉しさがこみ上げてくるチョコレートもあるってことか。
「いいよ。それじゃあ出ようか」
俺は香穂子に言われるまま、暗い廊下を通って、コンサートホールの外に出た。
むき出しになった肩が寒そうで、俺は上着を脱ごうかと思ったが、香穂子は緊張しているのか、じっとと前だけを見つめている。
「柚木先輩。あの……。受け取ってもらえますか?」
おずおずと香穂子は、小さな包みを差し出した。
ふたつ、ある? なのにどうしてか、香穂子は1つだけ差し出すと、俺の顔を見守っている。
手渡された包みは、濃い色の和紙に包まれていて、見た目よりも重みがあった。
「まったく。この冬、お前はさぞ忙しかっただろうにね。いつの間にこんなもの用意してたの?」
「ん……。都築さんに、いろいろ聞いて……。チョコレートと一緒に、何かをプレゼントを、って考えました」
「へえ。あの人が、ね」
俺は、包みをほどくと、中身を取り出した。
出てきたのは、骨董の硯。かなり状態もいい。
俺の好みの松煙の墨がすっきりと流れそうな、穏やかな丘の形も申し分なかった。
「どうでしょう……?」
香穂子は不安げに俺を見上げてくる。
俺の顔1つで、好きな女の表情をどうにでもできるっていう状態は悪くない。
俺は香穂子の頭を胸に抱き寄せた。
「ありがとう。香穂子。……俺が結構喜んでいること、お前、分かってる?」
「うわあ、良かった! あ、ありがとうございます!」
「って、お前、まだ他にも渡し忘れているものがない?」
「え?」
「お前が手に持ってるチョコレート。こっちもいただくよ。ありがたく、ね?」
隙をついて、香穂子が持っているもう1つの包みを手に取る。
香穂子は、最後まで渡すのを悩んでいたのか、申し訳なさそうに俺の顔を見上げてくる。
「あ、あの! 昨日頑張って作ったんですけど、自信がなくて……」
「俺にとってはどんなチョコレートよりも美味しいだろうから」
「嬉しい……。ありがとうございます」
香穂子は、俺が硯をみとめたときの表情に安心したのだろう。
ようやく笑顔を見せると、あたりの寒さに気付いたのか、思い切り肩をすくませた。
「しかし控え室にこれを持って行ったら、また周りがうるさそうだな」
俺はさっきの土浦の反応を思い出してため息をついた。
手にした包みは隠しようがない。
きっと土浦は、また大げさに眉を顰めて。
しかもあいつも香穂子を憎からず思っていた節があったから。
俺が香穂子からもらったと言ったら、いろいろ根掘り葉掘り尋ねてくるに違いない。
「あ、ごめんなさい。そうですよね……」
周囲の人間に、俺たちが付き合っていることを、告げること。
香穂子は、以前の俺とのケンカの原因を思い出したのだろう。
途端にしょんぼりとしょげきって、俺の手の中の包みを見つめている。
── そんな顔、することないのに。
しょげきった顔さえも愛しくて、俺は真っ白な額に口づけた。
「別にいいけど。ちゃんと言うから。可愛い恋人からもらった、ってね」
「柚木先輩?」
「言っただろ? お前のこと、ちゃんと守ってやる、って」