*...*...* Ring 2 *...*...*
「えっと……。どうしよう、これ……」私はぼんやりとしたまま楽屋に戻ると、光沢のあるベルベットの中を覗き込んだ。
まばゆいほどの光を放つ小さなモノが、じっと私の様子をうかがっている。
「あ、その前に、まず、手、洗ってこよう」
ヴァイオリンを身近に感じるようになってから、必ずする最初の動作。
それはまず自分の指を綺麗にすること。
それと同じ手順で、私は手首から指先にかけていつも持ち歩いているハンドソープで念入りに洗うと、再びベルベットの中を覗き込んだ。
『その指輪、お前のどの指に はまるか試してみろよ』
柚木先輩の言葉を思い出しながら、私はそっと輝く指輪をつまんだ。
どこだろう、どの指なの? どちらの手にしても親指には入らない。小指には大きすぎる。
弦を押さえるようになってから、すっかり節くれ立った私の右手は、以前よりも一回り大きくなったような気がする。
左手……?でも、まさか……。
私は、左の薬指にそっと指輪を通した。
「あれ? 違う、かな……」
小さな貴石が入っている部分がやっぱり重いのか、指輪はくるりと、下を向く。
指を下に向けて振れば、あっけなく関節を通り抜けていく。
私は、もう一度指輪を抜き取ると、今度は、右手の薬指にはめた。
今度は、吸い付くようにぴったりと納まる。
「この、指……?」
『ねえ、お前は知ってる? 指輪をはめる指にもそれぞれに意味があるってこと』
いつだっただろう、そう言われたのは……。
この3ヶ月の間、受験の間を除いて、ほぼ毎日のように顔を合わせて、話をしていた。
いつからかな……。私はぼんやりと指輪が光っている指を見つめながら、考え続けた。
── ああ、あれは、湾岸スクエアで。力強い腕で抱きしめられた日、かもしれない。
心底悔しそうに、私に寂しかった、と言って。
それ以来、柚木先輩は小さな子どものように自分の心の動きを私に告げるようになった。
寂しい時は、寂しい、と。
その感情の豊かさは、今まで辛抱していた分だけ、大きく、強くなっているようで。
『小さい頃たくさん遊んでないと、大人になってからその反動で遊ぶようになるんだよ。── そう、お前でね』
練習の合間、そう言ってからかう柚木先輩は本当に楽しそうだった。
去年まで、私は彼のそんな表情を見たことがなかった。
ううん。学院中の誰だって知らないんじゃないかな。そう思えるほど、嬉しそうに笑っていたっけ……。
寒空の中、弓を引き続けていた私の指を取って、柚木先輩はぽつりと言った。
『……左手の薬指は結婚の証、なんていうのは有名だけど。
右手の薬指には、芸術の神様が宿っていると言われてるんだ』
『そうなんですか?』
『ああ。ことお前の場合、それは真理かもしれないな』
だから、なの? だから、右手の薬指に合う指輪をプレゼントしてくれたのかな……?
私は、潤んだ目をごまかすように天井の照明を見上げた。
それにしてもすごい。どうしてこんな私にぴったりのサイズがわかったんだろう。
ヴァイオリンも弦も持たずに、軽くボウイングの身振りをしてみる。
指輪はすごく素敵だけど、演奏するときには、ヴァイオリンと、指輪。お互いがお互いを傷つけてしまうかも知れない。
「どうしよう……」
ふわりと首を振ったとき、髪の毛が一番良い方法を教えてくれた。
私は鏡ににじり寄ると、髪に刺さっているピンを1本ずつ抜いていった。
*...*...*
「日野さん。調子はどう?」コンサートが始まる合図とともに、暗い廊下を渡って、舞台袖に行く。
アンサンブルとは違う、大人数。
コントラバスやホルンなど、人以上に大きい楽器は、持ち運ぶのもすごい大変だった。
こういうのは、コンサートの暗黙のルールってところよ? なんて、都築さんが教えてくれたけど。
弦のみんなは、舞台袖の端っこでカードゲームをしている。
なんでも、そうやって気を紛らわせていると良い演奏ができるらしい。
私なんて、ちゃんと楽譜が読めるかな、って思えるほど、緊張して、手が熱くなっているのを感じる。
「はい……。頑張ります!」
「ここまできたら自分のモチベーションを高めるしか他に方法はないの。
やるべきことは全部やった、って。私には音楽の才能がある、って」
私は大きく頷いた。
髪の毛のリボンを使って作った、即席のネックレスには、柚木先輩からもらった指輪が輝いている。
── そう。きっと、やれる。私は、できる。
最前列にいる、アンサンブルを組んでくれた、励ましてくれたみんなに、恥ずかしくないだけの演奏をする。
1人だけじゃできなかった。
春のコンクールから、そばにいてくれた仲間がいたから。
秋からの4回のコンサートを経て。新しい仲間が増えて。
冬のこのオーケストラを迎えるのに、私、どれだけの人に助けられてきたかな?
いろんな人の顔が浮かんできては、消えない。
須弥ちゃん、乃亜ちゃん。谷くんに、内田くん。
月森くん、会うたびに、
『努力は自分を裏切らない。今、君にできることをするんだ』
って励ましてくれたよね。月森くんらしい、そっけない口調で。
これはヴァイオリンだけじゃなく、これから先、どんな時にだって思い出す、私の宝物だ。
一部の音楽科の人の言葉を、さりげないふりをして、庇い続けてくれた土浦くん。加地くんも。
見えないところで、ずっと支えていてくれたんだんだよね。
そしてきっと、まだ私が気付いてないところで、私を守ってくれていたんだと思う。── 本当にありがとう。
志水くんも冬海ちゃんももうすぐ2年生になる。
このコンサートが終わったら、この1年で、まぶしいほど成長した2人に、心からのありがとうを言いたい。
志水くんにはできないけど、冬海ちゃんは、女同士だもの、抱きついちゃってもいいよね。天羽ちゃんと一緒に。
そして、3年生の火原先輩。
目標が決まってからの火原先輩は、別人のように、大人っぽく、頼もしく思えた。
先輩から元気をもらった。正門の端で、カフェテリアで。
火原先輩の後ろ姿を見ただけで、元気をもらえてた、って告げたら、なんて言ってくれるかな。
── みんな、みんな、ありがとうね。
私は指輪を握りしめる。
私の手から熱をもらった指輪は、まるで私を元気づけるかのように、しっとりとした暖かさを返してくれる。
── 柚木先輩。
この1年、いろんなことがありましたよね。
思い出すのは、クリスマスコンサートの夜と、今年に入ってからのことかな。
音楽の道に進みたい、と宣言した私に、何度もピアノを教えてくれて。
けっして飲み込みの良い生徒ではなかった。だけど、ずっと待って。見ててくれましたね。
どうして、そこまで優しくしてくれるのか、わからなかった。
最初は、私の間抜けな反応が面白いのかな。そう思った。
理由は、指輪をもらった今でもわからない。
けれど、今は、音楽で、ありがとうの気持ちを返すときだと思う。
最前列に並んで、音を待っていてくれる人たちへ。
── 今の、私にできる精一杯を。
「日野さん、そろそろ時間よ?」
「はい」
「日野さん、俺たちもついてるから、一緒に頑張ろうな」
「ゲネプロ通りにやれば大丈夫よ?」
「見せつけてやろうぜ。理事さんたちにさ」
立ち上がった私に、第一弦のみんなの声が背中越しに刺さる。
『君はソロというより、アンサンブル向きなのだろう。── 大丈夫だ、きっと』
月森くんの声もこだまする。
そうだよね。私は一人じゃない。
ここで一緒に演奏してくれるみんなも。最前列に座っている、コンクールメンバーのみんなも。
私たちの演奏をきっと喜んでくれる仲間だから。
「日野さん?」
「……行きます」
どうしてだか泣き顔を見られたくなくて、私は前を見据えたまま舞台へと上がった。
*...*...*
アンコール、カーテンコール、カーテンコールと鳴りやまない拍手の中、最後の演奏が済んだとき。私たちは、ほっと顔を見合わせて笑った。
振り終わった都築さんは、柔らかい笑顔で私たちを見回すと、深々と一礼をした。
そんな様子を今まで一度も見たことがなかったオケのみんなは、シンと水を打ったように静まりかえる。
「……都築さん」
「── みんなのおかげよ。あなたたちがいてくれたから、私は今日、私の実力以上のオケができたと思ってる。
どうもありがとう。最大限の感謝を、このコンミスの日野さんに」
都築さんは指揮台から降りると、上着を脱いで、舞台を後にする。
「都築さん……」
なにか、したくて。でも、立ち上がろうにも、膝の上にあるヴァイオリンが不安定で立ち上がれない。
拍手を、と思って手の平を重ねたとき、自分の左手は弓を持っていることに気付いた。
どうしたら……。
そのとき、第一ヴァイオリンの鷹野くんが、ゆっくりと足を踏み鳴らした。
それにつられるようにして、みんなの足音が大きな拍手を生み出した。
えっと……。あ、そっか。この話、ちょっと前に土浦くんに聞いたことがある。
オケの場合、楽器を置くスペースは自分の腕しかない。
だから、感謝を気持ち、お疲れさまの気持ちを表すには、足を踏みならすんだ、って。
透き通った素材のドレスの裾がまとわりつく。なかなか、やり慣れてないからやり辛い、けど。
私はつま先をとんとんと動かして、都築さんの背中に拍手を送った。
私は、重いカーテンの向こうの客席に思いを馳せる。
もう、柚木先輩は、ロビーに行っちゃったかな。一緒に帰ろうと話はしていたから、どこかで待っててくれるはず。
もしかしたら楽屋の廊下で、壁に背を預けながら、何か難しい本でも読んでるのかな。
だけど。
今の私はどうしても、柚木先輩が、照明を落とした客席で、1人、私と一緒に、今の拍手を聴いてくれてるような気がして仕方なかった。
こんな……。私がオーケストラ、なんて。コンミス、なんて。
今まで、特に夢中になるものなんてなかった。
なんとなく、近くの高校だからって入学して、クラスメイトと放課後仲良くやれればそれでよかった。その私が。
初めて、守りたい、と思うものができた。譲れない、と願うものが生まれた。
喜びを分かち合える仲間ができた。
私は私を守るように胸元に輝いている指輪を握りしめる。
── 柚木先輩が、いてくれたから。
だから、私はここまで頑張れたんだと思う。
楽器を持ち上げる音、楽譜台を片付ける音。それに、音響関係の人の声が混じる。
心地よい疲れと、高揚感と開放感が、舞台中を覆ってる。
私はヴァイオリンを手にゆっくりと立ち上がると、自分の楽屋へと向かった。