*...*...* Ring *...*...*
 3月14日。この日は一足早く来た春が、冬の勢いに負けて一気に冷え込んだ日だった。
 香穂子と星奏のみんなとの、オーケストラコンサートの日。

 俺は、花弁の厚い朱い薔薇1本にメッセージを添えて、香穂子の楽屋に届けた。
 1ヶ月前の香穂子の想いに、俺もきちんと応えたいと思ったのもあったし。
 俺は手にした紙袋を見て微笑んだ。
 ── あいつならどんな反応を見せるか。なんて、いろいろ想像する時間も楽しいものだった。

 俺にとっては大した問題じゃないと考えていた受験も。
 いざ終わってみると、こんなにも気持ちが軽くなるものなのか、とも思えてくる。
 ……これで、やっとあいつに かかりきりになってやれる。

「ゆ、柚木先輩!? あれ、どこかな……?」
「騒々しいよ、お前。今日の主役がそんな走り回ってどうするの?」
「良かった。会えました! ロビーっていっても広いから、どうしようかと思って……」

 俺のメッセージを見て、楽屋から慌てて走ってきたのだろう。
 香穂子は肩で大きく息をすると、嬉しそうに俺の顔を見上げてきた。

 その距離の近さに、愛しさもさらに増すような気がする。
 少しずつ、近づいて。手なずけて。
 この数ヶ月の間、香穂子は不安げに俺の顔を見つめつつ、従順に手の中に収まってきた。
 抱きしめて。口づけて。そこから先へ更に踏む込む行為を、俺はもう今夜、止めることができないに違いない。

「ちょっとこちらにおいで」

 俺は、ロビーの端の人目に付かないところに香穂子を引き寄せると、手にしていた紙袋を手渡した。

「本番前の大事なときにどうかと思ったけど、お前にちょっと渡したいものがあってね」
「なんでしょう……? あ、さっきね、須弥ちゃんと乃亜ちゃんは食べ物を差し入れしてくれたんです。
 だけど緊張してるからかお腹に入らなくて」

 香穂子は、首をかしげながら紙袋を手にすると、包みを開けて良いのか迷っている。

「しょうがないな。俺が開けてやるよ。今日は何の日だか覚えてる?」
「あ……。はい。い、一応……」

 香穂子はまさか本番前に俺から返事がくると思わなかったのだろう。
 みるみるうちに頬を赤らめて、俺の手の中を覗いている。

「これは、1月前にお前がくれたものに対する、俺の答え」
「指輪……?」
「お前には少し早かろう、とは思うけど、そろそろこういうものを身につけてもいい頃、だろう?」
「な、なんて言っていいのか……。指輪、なんて……」

 香穂子は上手く言葉が出ないのか、はにかんだ表情をして、指輪と俺の顔を交互に見つめている。
 嬉しそうな。そして困ったような。
 こいつは俺が虐めると、いつもこんな物案じ顔をする。
 下がった眉。困惑したように揺らす視線。
 泣きそうな面輪が、微笑みに変わる瞬間の笑顔を、ずっと俺の中に留めておきたいくらいだね。

「ま、そういう反応が見たくて用意したようなものだから、俺としては満足だね」
「うう、ま、また、からかってるんですか??」
「……正解」

 以前、図書館でうとうとと香穂子が眠ってしまったとき、そっと触れて確かめておいた、香穂子の右手の薬指。
 いつか、左手の薬指に……。
 そう願う気持ちはあるけれど、こいつにはこれから先、音楽を初めとして まだやるべきことがある。そして俺も。

 だからその楽しみは数年後に取っておくとして。
 俺は、香穂子の右手の薬指にしっくりとくる指輪を選んだ。
 そして、俺自身も、香穂子に渡した指輪と同じものを買い求めた。

 右手の薬指には、芸術の神が宿っていると言われている。
 ヴァイオリンのボウイングに必要な、香穂子の右手に、その意味はいかにも相応しいものに思える。

 それに……。
 俺は、香穂子の指を握ると、そっと自分の掌に包み込んだ。
 ── 俺も、これから先、香穂子と共に、音楽に触れていく。
 ささやかながら、この指輪は決意の印とも言える存在だった。

 でも、まあ、さっきのような香穂子の反応は楽しかったからね。
 俺が、香穂子に渡す指輪と同じものを持っている、ということは、今、敢えて告げなくてもいいのかもしれない。

「ねえ、香穂子。お前は指輪に意味があることを知ってる? つける指によって意味が違ってくるんだが……」
「はい……。えっと、左手の薬指は、結婚の証、でしょう? あ、あと? 他の指にも意味があるんですか?」
「その指輪、お前のどの指にはまるか試してみろよ」
「ん……。はい」

 香穂子は、不思議そうに頷いた。

 素直なだけの、普通科の子。目立たない子。
 それだけの印象に過ぎなかった、一人の女の子。

 それが今はどうだろう。

 ヴァイオリンの技量だけじゃない。どんな人間に対しても、その人の良いところを最大限に引き出すやつ。
 アンサンブルを取りまとめ、オケのメンバーをも、1つにし。
 今、こうして、最高の舞台に立とうとする女の子。

 ── やれやれ。
 この華奢な、頼りないまでのこいつに、どうしてこんな強さがあるんだろう。
 そしてその強さは、俺に見せる従順さと相まって、ますますお前を手放し難くする。

 俺は周囲にさりげなく目を配ると、香穂子の髪に口づけて言った。


「今日は頑張っておいで。この俺が見てるんだからね」
*...*...*
 いよいよコンサートが始まる。
 オケのメンバーは、全員が星奏の生徒ということもあって、客席の多くは星奏の生徒で占められていた。

「うっわ。おれたちって最前列チャージなの? すっごいじゃん」
「そうだね。1ヶ月前のアンサンブルに対するねぎらいの意味もあるかもね」

 火原は、座り心地のいい椅子が目新しいのか何度も椅子の感触を確かめている。
 隣りには、土浦と加地が座っている。

「あまり前の方だと、音が割れちゃうときもあるんだよね。それがちょっと気がかり、かな?」
「って加地。ここはちょうど舞台の中心だから、管も弦も問題なく聞けそうな気がするけどな」
「ああ、まあね。僕がちょっと神経質すぎるのかもしれない」

 月森と志水は同じ弦、ということで、弦寄りの座席を陣取ると、プログラムの曲目について話し合っている。

「練習期間が1ヶ月というのは適当なのだろうか? やや短いように感じるのだが」
「そうですね……。全くの新規、ということを考えると不安もありますけど……。
 西くん……。クラスメイトなんですけど、彼の話を聞いているといいところまで仕上がったとのことです」

 春のコンクールは、こうして香穂子のソロを聞くことができた。
 しかし、秋から冬への4回のコンサート、それに、1ヶ月前のアンサンブルは、俺も演奏者だったこともあって、全部、舞台袖で見ていたから。
 こうして、改まった席で香穂子の演奏を聴くのは久しぶりのことかもしれない。

「あ、そろそろ始まるみたいだよ?」

 火原が低い声を上げて、椅子へ深く腰掛ける。
 舞台と客席とを隔てる緞帳は時折、人の形を大きく形作っては、波立っている。

 俺も軽く席をすると、改まって正面を見据えた。── いよいよ始まる。
 火原はちらりと横目で俺の顔を見つめると、とびきりの笑顔で笑いかけてきた。

「……へへっ。なんかさ、おれ、今、嬉しいよ。すっごく」
「どうしたの? 火原」

 火原は、俺の耳に口を寄せると小声で囁いた。

「だってさ、柚木の眉間に、シワ、寄ってないから」
「火原」
「これからはさ、もう、あまり無理しちゃダメだよ?」

 ── まったく。これだから俺は火原にはかなわない。

 俺が全く持ち合わせいない特性……。
 素直さ、だとか、人を見る確かさ、だとか。それらは香穂子にすごく似通っている。
 それに加えて、突き抜けるような、底抜けに明るい音色も、火原の美徳そのものだ。

 俺はこそばゆいような、恥ずかしいような気持ちで火原を見つめた。


「── ありがとう。火原」
*...*...*
 コンサートが終わった後、俺が待ち合わせ場所に着くと、香穂子はすでに着替えて ぼんやりと星空を眺めていた。

 いつかは、消えて無くなってしまう星たち。
 以前、星にも寿命があるという話をしたときの、香穂子の不安げな表情を思い出す。

 今日、お互いの不安な気持ちを持ち寄って、抱きしめ合ったなら。
 ── これから生まれてくる不安は、少しずつでも薄らいでいくのだろうか?

「あ、柚木先輩!」

 香穂子は軽く左手を挙げ、俺に手を振る。
 眺めていた星空から、小さな欠片が降ってきたのかと思った輝きが、香穂子の左手の薬指にある。
 俺は香穂子の左手をそっと持ち上げた。

「おや? その指輪、左手につけているの? お前の右手の薬指に合わせたつもりだったんだけど」
「はい。右手の薬指にはぴったりでした。でも、私……。ごめんなさい」
「なに?」

 香穂子は何か考え込むようにずっとヴァイオリンケースを見つめていたが、やがて気持ちがまとまったのか、俺の目を覗き込んだ。

「……私ね、柚木先輩からもらった指輪は、この指にしか、つけたくないの」
「……香穂子」
「今日のコンサートが終わったときね、私、ずっと、辛抱してたんです。
 自分の大好きな言葉を言うのを。柚木先輩に一番最初に言いたかったから」
「は?」
「── 大好きです。柚木先輩。……今日は聴いてくださって本当にありがとうございました」

 なんの下心も、駆け引きもなく、そう言ってくる。
 こういうのが一番タチが悪いかもしれない。
 けれど、香穂子の純真なまでの思いに、嬉しさが押さえきれない俺がいる。
 俺は少しの間、空を見るような素振りを見せながら状況を立て直すと、ゆっくりと香穂子に視線を合わせた。

「ふうん。……じゃあ、自分の言ったことに対して責任は取ってもらおう、かな?」
「はい?」
「ああ。ちょっと待ってて」

 俺は、携帯で運転手の田中を呼び出すと二言三言、用件を伝えて切った。

「柚木先輩? あの、なにを……?」
「指輪」
「はい?」
「ねえ、香穂子。お前が、俺のあげた指輪を、左手の薬指につけてる、ってことは……。
 つまり、俺の愛情を受け入れる、ってことだよね?」
「え? ……あ、あの、待って? どういう意味なのか……」

 香穂子はきょとんとして、俺の動く口元を見つめている。

「やれやれ。鈍い恋人を持つと苦労する、ってことか。
 じゃあ、わかりやすいように言い換えてやるよ。よく聞いて? ── 車は返した。今日は帰らない」
「…………」
「今夜、お前は、俺につきあってくれるよね?」

 頬が火照る。時折吹く風は髪を靡かせて、頬に触れる。そのたびに、肌に生まれた熱を自覚する。
 一度、手放したと諦めかけたもの。
 それを今、再びこうして手の中に、捕まえることができたから、余計にそう思うのか。
 居心地のいい香穂子の隣りを、誰にも譲る気はない。

 ── もう、二度と離せない。

 俺は香穂子の手を引きながら歩き出した。
 遠くの公園から、沈丁花の香りがする。
 家にあるのと香りが少し違うから、これは、紅色の沈丁花かもしれない。
 そうか……。
 俺は赤色の髪を見ながら思いを馳せる。こいつと出会ってから、2回目の春が始まる。

「あ、あの! 今日は、オケもあって、疲れてるような、気分が高ぶってるような不思議な感じで……。
 あの、私、ヘマ、というか、失敗、しちゃうかも、なので、今日は、ちょっと……」

 羞じらいも手伝ってか、香穂子は不安そうに独り言を言い続けている。

「知っているだろう? 俺は教えるのが上手だ、ってこと」
「は、はい?」
「ほら、いい子だから、お前の携帯を貸してごらん?」
「え?」
「言い訳。お前の家にしておいてやるよ」

 俺は香穂子の携帯を取り上げると、リダイアルで香穂子の自宅に連絡を入れる。
 用件の済んだ携帯を手渡すと、香穂子は頬を膨らませて俺をにらみつけた。

「な、なんか、ズルいです。あれよあれよって感じで。私が困っている間に話が進んでいっちゃったみたい」
「考える余裕を与えたら、逃げ出しそうだからな、お前」
「そ、それは……」


「俺はね、もう、お前を手放すことはやめにしたんだよ」


 俺の表情に何か感じるところがあったらしい。香穂子は、それきり黙り込むと、俺の手を握った。
 そしてふと指先の冷たさに気づいたのか、俺に断ってから手袋をはめると、再び俺の手を掴んだ。

 手袋の上からも感じる、指輪の存在に、胸が熱くなる。

 コンサートの時の香穂子の様子を思い出す。
 ヴァイオリンを傷つけることもあるため、演奏中のヴァイオリン奏者は指輪はつけないのが通常だ。
 そのためもあってか、香穂子は、俺が渡した指輪を髪の毛をまとめていたチュールのような透明なリボンに通して、首にかけていた。
 華奢なチュールのリボンは、確かに香穂子によく似合っていたけれど。

 ── もう2度と、切れたり、ほどけたりしないものの方がいいに決まっている。

 金か、それともプラチナか。香穂子の、青ざめたような白い肌には、どんな色のネックレスも映えるだろう。
 俺は、香穂子の首にそっと指を這わしながら、つぶやいた。


「── またお前に、新しい贈り物を考えなきゃいけなくなるね」
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