*...*...* Pray 2 *...*...*
うっすらと、身体に汗の膜が張ってきたのがわかる。春の陽気は早々に桜の花びらを散らしたけど、まだ汗をかく、っていうほど暑い季節じゃないのに。
「うわーー。間に合わないよ!」
私は、右手首の腕時計に目をやった。
わ、予定より、1時間遅れてる!
どうしよう……。
時間に厳しいあの人は、今、どんな人待ち顔であちこち見渡しているんだろう。
そして。── 会ったあとには、どんなお小言が待ってるんだろ……。
考えただけで、泣きそうになる。
怖いから、じゃない。
多分、そのお小言の中には、私への心配が含まれている、ってことを知っているからだ。
カバンから携帯を探すより、走った方が早くあの人に近づける気がして、私は走り続ける。
それにしても……。
息の苦しさに、立ち止まって脚を止める。
目を閉じると、たった30分前の光景がくるくると踊り出した。
赤いサイレンの音。放心したように立ちつくすおばあちゃん。
電話越しの息子さんの声。近所の人のざわめき。
私の家の隣りには、星谷さんっていうおじいちゃんとおばあちゃんのご夫婦がいる。
私やお姉ちゃんが小さかった頃、ふたりの息子さんはもう大学生だということもあって、すごく可愛がってもらってきた。
それこそ、小学校に入る前は、毎日のように家に行って、おやつを食べていたりした。
お菓子を作るのが大好き、っていうおばあちゃんは、娘が欲しかったのよ、と笑いながら、
私にたくさんのお菓子の作り方を教えてくれたっけ。
おじいちゃんは、試食係専門で。
クッキーなら、型抜き、ケーキなら、生地を型に入れる。
言わば、一番簡単で面白いところしかやらなかった、私のお菓子をいつも美味しそうに食べてくれたっけ。
お母さんに叱られたり、お姉ちゃんのケンカに負けたり。そんなとき、私はいつも星谷さんの家に逃げ込んでいた。
いつも、私のことを無条件に受け入れてくれるふたりが大好きだった。
そのおじいちゃんが……。
「香穂ちゃん! 香穂ちゃん!!」
柚木先輩は大学生に。私は高3に、と、今日は、お互い新しい生活になってから初めてのデートの日。
あと10分くらいしたら家を出よう、そう思っていた時。
隣りからのけたたましい叫び声に、私は階段を走り抜けると、星谷のおじいちゃんの家に飛び込んだ。
そこで目にしたのは、腰が抜けたように、身動きも取れないおばあちゃん。
それと、糸が切れた人形みたいに倒れ込んでいるおじいちゃんだった。
「おばあちゃん! おじいちゃんは? えっと、そうだ。お医者さんに行きましょう? 救急車、ですよね」
「あ、香穂ちゃん。そうね。そうだわね。電話しなくちゃ」
おばあちゃんは子機を手に取って、救急車を呼ぼうとしている。
「おじいちゃん……っ」
私はとりあえず、和室にあった座布団を取り出すと、おじいちゃんの頭をそっと乗せた。
額に脂汗が滲んでいる。一体どうなっちゃうんだろう……。心臓? それとも、頭?
毛布をかけた方がいいかも、と、もう一度押し入れを開けようとしたとき、おばあちゃんが泣き笑いの顔で近づいてきた。
「香穂ちゃん……」
「あ、おばあちゃん。救急車、呼びました?」
「あのねえ……。香穂ちゃん。── おばあちゃん、おばあちゃんね、指が震えて押せないんだよ。
救急車って、110番? それとも119番だったかねえ……。香穂ちゃん、代わりに押してやってくれない?」
*...*...*
私は遠くに大好きな人を見つけると、さっきよりもスピードを上げて走り続けた。ヴァイオリンって、上半身の筋肉は、キレイに付けることができるけど、その分脚力は落ちているのかもしれない。
自分の想像よりも、ちっとも早く景色は流れていかなくて、少しだけクヤしい思いをする。
「ごめんなさい。遅くなりました!」
「遅いよ。いったいどれだけ待たせる気だ。事情があったにせよ、連絡の1つくらい入れるべきだろう」
「はい……」
私はおそるおそる腕時計を確かめる。
わ、約束の時間よりも1時間も遅れてる!
元々、自分の時間、っていうのをとても大事にしてる人だ、ってこと、知ってた。
待ってる時間、って誰だって長く感じるもの。
柚木先輩からしてみたらこの1時間は、数時間に感じられただろう。
「ごめんなさい……」
申し訳なさと居たたまれなさが身体中を回って、顔も上げられないでいると、ひんやりとした手が私の頬を覆った。
「俺だって心配ぐらいするんだよ。お前が怪我したとかじゃなければいい。大丈夫か?」
「……ありがとう、ございます」
心の中が、コトリ、と柔らかな音を立てる。
……ほら、ね。
怒りながらも、こんな風に、私を許して、甘やかしてくれる人、だから。
また、今日。この人の好きなところが1つ増えて。
── 私は、もっともっとこの人のそばにいたくなるんだ。
「で。どうしたの? 実際」
「はい。あの、さっきね……」
私は順に説明する。
お隣のおじいちゃんとおばあちゃんのこと。おじいちゃんが倒れたこと。
救急車が来て、おばあちゃんと一緒に乗り込んで病院へ行ったこと。
おじいちゃんも、すぐ意識を取り戻して、一晩入院するだけで戻れそうだ、ということ。
「近くに住んでる息子さんと連絡がついたので、もう大丈夫です。── 良かった……」
「まあ。大体の経緯は分かったけどね。まさかお前、謝れば許されるなんて、そんな甘い考えは抱いてないよね」
「はい? あ、甘い、ですか?」
「当然。どんな事情があったにせよ、遅れたのは事実だからな」
さっきよりは柔らかい表情になった、とはいうものの、さらりとした流し目はいつもより鋭い。
う、確かに、遅れたのは私が悪い、よね。
それ以上に、電話よりも、走った方が早く柚木先輩に近づけるかも、なんて、考え方も間違ってた。
だけど、だけど。
もう一度今日の午前中をやり直せ、って言われても、私はおじいちゃんをあのまま放ってはおけなかったと思うもん。
うう……。
しょんぼりと下を向いた私に、柚木先輩は何かを感じたのだろう。
手櫛で私の髪を整えながら、笑いかけてきた。
「悪い、って思ってるなら、そのお詫びに何か奢ってもらおうかな」
「はい!」
私は、その提案に飛びつくように、柚木先輩を見上げると何度も頷いた。
本当に、遅れたのは悪い、って思うもの。
私にできることだったら、なんだってしちゃうよ。
「ちょうど昼食時だね。何か食べたいものはある?」
「そうですね……」
街並みを眺める。
ここからなら、須弥ちゃんイチオシのパスタのお店があるはず。
お昼もちょっと時間が過ぎちゃったから、空いてるかもしれない。
『セットにするとちっちゃなケーキも付いてくるの。それがまた絶品なんだよ』
春休みの間に2回は行った。
行くたびに、春のメニューだとか、ケーキだとかが増えていて、何度でも行きたくなった。そこがいいかな。
だけど……。
柚木先輩ってパスタ、って食べたことがあるのかな?
学院のカフェテリアで見かけたことがある柚木先輩は、いつもあっさりしたものを口にしていたような気がする。
柚木先輩は、ふとなにか思いついたかのように顔を上げた。
「ああ、そうだ。もう少し歩けば、名の通った会席料理の店がある。せっかくだからそこにしようか」
「カイセキ、ですか?」
とっさに、カイセキ料理、っていうのは、『会席』料理、なのか、『懐石』料理なのか、どっちなんだろう、って考える。
ってそもそも、違いがわからない。
でも、どっちにしても、和食……、かな。
そしてどっちにしても、値段が、た、高い、のかなあ…。
財布の中身を想像する。
今月のお小遣いはもらった、とは言っても。── 足りる、の、かな?
でもでも。今日時間に遅れたのは私だもんね。
断ったら、悪い、よね。っていうか、断る権利、なし、なんじゃないかな。
「── なんて気分じゃないな。どこにしようか?」
「え!?」
「ふふ、どうしたの? あからさまにほっとしてるようだけど」
「ほっとしました! 本当に」
「ははっ」
私の真顔に、柚木先輩は声を上げて笑っている。
わ、良かった。どうやら、柚木先輩の機嫌は、少しずつ良くなってるみたい、かな?
「……なあ、お前、日頃からよく行くお店ってある?
今日はそこへ連れて行ってくれないか? それで、許してあげる」
「いいんですか?」
「ふふ、意外なリクエストで驚いた?」
私は首を傾げながらうなずいた。えっと、そんなんじゃ、お詫び、にならないような気がする。
今日の予定を思い出す。
一緒にご飯を食べて。一緒の時間を過ごして。
一緒にいられなかった時間を、話すことで、少しずつ、埋めていけたらいいな、って話だった。
これじゃ、普通の、私。普通の、いつもの、デートになっちゃう。
「今日 俺は、ありのままのお前を見せてもらうことにするよ」
「待ってください。それじゃ、お詫びにならないですよ?」
「それで、いいんだよ」
「はい?」
「香穂子」
柚木先輩は一旦言葉を切ると、目を細めて私の顔を見守っている。
えっと……。
走ってきたから、髪の毛はぐちゃぐちゃで。頬もきっとすごく朱くて。
── ありのまま、って……。
目の前の人は、私とはまるで正反対の、信じられないくらい端正な表情を浮かべてる。
「お前はね、普段通りにしていればいい。
いつものように歩いて、いつものように好きな店に入って。思い通りに笑えばいい」
「はい……」
「俺が知らないお前がいるなんて癪だから。ほら、おいで?」
「はい!」
慌てて大好きな人の背中を追いかける。
2、3歩、離れていたのが追いつく。
そう思った瞬間、差し出し、差し出された手と手が重なる。
手袋を外したことで、直に伝わる体温は、確実に新しい季節が回ってきたことを教えてくれた。
「でもなんだか、申し訳ないですね……」
そういう私に、柚木先輩は、甘えた声で告げてくる。
「ああ、そんなことで許されては恐縮だって言うんなら、もう1つ追加。
食事の後でいいから、ヴァイオリンを弾いてくれないか? 俺のためだけの演奏。
……この程度のぜいたくは許されると思うんだけど、どう?」
「はい。喜んで!」
星谷のおじいちゃんとおばあちゃんを思い出す。
私と柚木先輩が、星谷のおじいちゃんとおばあちゃんのような存在になるのは50年後くらいかな。
50年後の未来。
それって、とてつもなく先のような、それでいて、振り返ればあっという間の出来事なのかな。
柚木先輩と私はどんな生き方をしてるのかなあ、って考える。
近くにいるのかな?
星谷のおじいちゃんおばあちゃんみたいに、2人で、いたわりあって生きているのかな?
私たちはお互いの手の中にある楽器を見て微笑んだ。
持って行こうね、と話をしなくても、自然に、当たり前のように、いつも持ち合っている楽器。
好きだよ。大好き。この人が好き。
泣きたいような、祈りのような、思いが浮かんでは溢れてくる。
── 世界に音楽が満ちている限り、私は、この人のそばにいたいと。