*...*...* Float *...*...*
 卒業まであと1週間、という日。

 俺は答辞の原稿を提出するために、学院へ脚を運んだ。
 久々に見る正門の緑は、心なしか以前よりふくらみを増していて、1つの季節が確実に過ぎ去ろうとしているのを感じる。

 行き交う、後輩たちの顔つきが、まるで3年生が抜けた穴を埋めるかのように表情に凛々しさを備えて出している。
 俺はそれを微笑ましく目の端の捉えながら、会釈に挨拶を返す。
 彼らはもう、今度入学する新入生から見れば、最早 立派な3年生に見えるだろう。

 俺の脚は、まっすぐに練習室へと向かう。

 この3年間、俺は何度この場所を訪れただろう。
 2年生までの間は、自分の技術の習得に。
 3年生になってからは、特に後半になってからは、仲間との合奏のために。

 深く息が吸い込めない。
 切なさと愛しさを背負いながら、俺は頭の中で思い浮かべていた後ろ姿を見つけてドアを開けた。

「……頑張ってる、みたいだな」
「あれ? 柚木先輩! どうしたんですか?」

 突然顔を出したらどんな表情を見せるだろう。
 そう、密かに想像しながら声を掛けると、そこには1人、ピアノの練習に没頭している香穂子がいた。

「どう? 調子は?」
「はい。今は、ピアノの練習が楽しくて。やっと柚木先輩の小学5年生の頃に追いつきましたよ? ほら」

 香穂子は嬉しそうに俺の貸した教則本を指差した。

 大学の合格祝いの知らせと共に伝えた、俺の進路。
 日頃は恥ずかしがって、決して自分からは俺の身体に触れようとしなかった香穂子が、
 経済の道に進みながらも、音楽をも極めてみせると言った日は、そっと身体を寄せてきたことがあった。

『柚木先輩がいてくれる、って思ったら、私も、もっともっと頑張れる気がします』

 あのときの輝いた表情そのままに、香穂子はピアノに向かっているようだった。

「たまにね、土浦くんが部屋に入ってきて、練習、見てくれることがあるんです。
 目に見えないくらい早く指が動くんですよ? どうしてあんな風に指が動かせるんだろう……」

 白い鍵盤の上、香穂子の右手は軽やかに行ったり来たりを繰り返している。

「今夜。お前、俺に付き合える?」
「はい? 今から、ですか?」

 今まで、香穂子がヴァイオリンなりピアノなりの練習をしていて、俺がその練習を引き留めたことは一度もなかった。
 それが香穂子は意外だったのだろう。
 不思議そうに、俺の顔を見、また、楽譜を見つめて首をかしげている。


「今日はお前を甘やかしたい気分なんでね。ほら、おいで」
*...*...*
「えっと……。どこへ行くんでしょう?」

 コートはまだまだ手放せない。
 しかし、どこか寒さの中には、緩みが生まれてきているような季節。
 空には、優しい色の夕焼けが広がっている。

 ── 全く。俺としたことがどうかしている。

 恋に身をやつしている人間を笑っていた俺が。
 今、そこにいる香穂子を、こんなにも手放せなくて、戸惑っている。

「はい。着いたよ」
「え? ここ、ですか?」
「そう。以前お前言ってただろ? ここの観覧車の乗ってみたい、って」

 香穂子の表情がみるみるうちに、綻んでいく。
 感じたままに見せる仕草が愛しくてたまらない。

「はい。ありがとうございます!」
「さ、おいで」

 事前に購入しておいたチケットを手に、香穂子の背を促す。
 ……ちょうど予想していた時間とピッタリだったことを俺は密かに喜んだ。
 そう。時間と、天気、と。
 ともすれば確実な予約ができない天気は、ここ数日の俺の一番の関心事になっていた。

 観覧車は徐々に急斜をつけて、上へと上り詰めていく。

「すごい……。距離にすればたった少しかもしれないのに。観覧車に乗ることで、夕焼けが近く感じますね」
「そう?」
「はい。吸い込まれそうな気がします」

 俺の視線に気づいたのか、香穂子は恥ずかしそうに笑うと問いかけてきた。

「あの……。今日の柚木先輩って、なんだか、物静か、っていうか、おとなしい気がします。どうしたんですか?」
「へえ。お前もなかなか言うようになったねえ。まだ俺にいじめられたいの?」
「あはは、良かった。やっぱりいつもの先輩です」
「なんてね。……本当は、お前のことをずっと見ていたいんだよ」
「柚木先輩……?」
「抱く、っていう直接的な方法じゃなくて。……ただお前のことを感じていたい。そう思ってね」

 観覧車の窓いっぱいに差し込んでくる夕日は、窓を独占しただけでは物足らないのか、観覧車全体を吸い込もうとしている。
 香穂子はオレンジの光を一身に浴びて、飽きることなく、残陽を見つめている。

『経済学と音楽の両立、かー。でもきっと柚木なら頑張れると思う。おれも頑張ろうっと』

 昨夜、絵文字いっぱいのメールでそう言っていた火原を思い出す。

 ── 親友と恋人は、どこかよく似ている。

 真っ直ぐで明るくて。そばにいてくれると安心できて。
 彼らといると、俺のような人間でさえ、人間って捨てたもんじゃない、と微かに信じたくなるところが。

 でも火原と香穂子。違うところが1つある。

「どうもありがとうございました! なんだろ……。今、ヴァイオリンが弾きたい気分です。
 柚木先輩は、フルート、持ってますか?」
「ああ。もちろん。お前がそんな気持ちになるのは想定済みだったからね」
「嬉しい……。ありがとうございます! じゃあ、どこへ行きましょう? 公園?」
「構わないよ。お前の好きなところで」

 俺は、一歩先を歩く香穂子を見ながら思う。

 俺と香穂子の行き着く先。
 答えなど、どこにもない。指針もない。
 ── だけど。

 香穂子の笑顔を目で捉えて。香穂子の音を耳で感じて。
 ずっと香穂子を感じていられたら、いい。

 俺は少し先を歩く、小さな影に話しかけた。

「香穂子?」
「はい?」
「あまり、頑張りすぎるなよ?」
「はい……??」


(── 頑張りすぎて、あまり遠くにいくなよ)



 今の、俺の、ささやかな祈りだったりする。
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