*...*...* Only *...*...*
『いわば、春はこの街の誕生日、というところか。君もどうか楽しんでくれたまえ』

 この冬 吉羅さんが何度か教えてくれたとおり、この春、街は音楽で溢れている。
 町中のポスター。コンサートホール。ストリートライブに至るまで、今日は目にするモノ、耳に届くモノすべてがクラッシック一色だ。
 エレキギターで、クラッシックなんて弾けるなんて想像もしたこともなかったのに。
 市が主催する春の音楽祭の帰り道。
 ホールをすぐ出たところで、大柄な男の人がたった今私が聴いていた曲をアレンジして弾きこなしていたのには驚いたっけ。
 そうか、こんな解釈もできるんだ、って。

 私はちらりと右側の細い肩を見つめる。
 柚木先輩は、今日のコンサートをどんな風に感じたんだろう。
 私と柚木先輩の間に、音楽がある。
 それだけで、話は尽きることがない。

「暖かいな。そろそろコートを手放す時期が来たのかもね」

 空の端っこに朝焼けのようなピンク色の雲が広がっている。
 春の雲は、どこか軽く柔らかい。
 長い休みの中で、春休みが1番好きなのは、どこかのんびりした気持ちになれるからかもしれない。
 新しい教室、新しいクラス。そして新しい席。
 春はどこか新しい匂いをまとってやってくる。

 ── だけど。

 そう、柚木先輩は、今年は大学生で。
 私みたいに、同じ入れ物の中で学年が上がる、っていうのとはまた違う、緊張した毎日が待っているのかなって思う。
 でもきっとこの人のことだから。
 どんなことでも、まるでなんでもなかったかのように、簡単に乗り越えていくんだろうな。

 柚木先輩は、ホールに出たときに1度羽織ったコートを腕に掛けると、ふと目を細めて西の空を見上げた。
 冬の間に幾度か訪れたことのある洋館に、ところどころ明かりが灯る。
 普段私が見ている色よりもふんわりと優しいのは、もしかしたら電気ではなく本当の火を使っているからかもしれない。

「街を歩くにはいい陽気だな。少し散歩でもしていく?」

 薄明かりが歩道の上、柚木先輩の影を長く長く作っている。
 身体は触れ合っていないのに、私と柚木先輩の影が重なり合っているのが嬉しくて、私は大きく頷いた。

「はい……。どこ、行きましょう?」

 さっき聴いたメロディが頭の中でリフレインする。
 自分でも気づかないうちに鼻歌を歌ってしまいそうな気もする。
 だとしたらあまり人が多いところじゃ、私ふらふらしてて、迷惑を掛けてしまいそう、だよね。

 そうだ、海、はどうだろう?
 海岸線、って街中より寒いかな? だけど、多少ぼんやり歩いてても、他の人に迷惑かけないかも、だし。
 ここから湾岸スクエアまでは、電車で30分くらい?
 オケの練習をしていたときより、少しずつ陽は長くなっている、と感じるけど、肩を抜けていく風は冷たさを増している。
 私は袖の中にある腕時計を覗き込んだ。うーん。海に着く頃にはもう真っ暗になってるかも。

 隣りにいる人は風を感じたのか、眉を寄せて私の風上に立つ。
 本当に本当にさりげないところ。
 たとえば、今みたいなこと、とか、顔色、体調。リップの塗り方から、髪の毛の跳ね具合まで気を遣ってくれるところがあるから。
 ── だから。
 少し意地悪な言葉だって、ときどき見せる鋭い表情だって、受け止めてしまう自分がいるんだ、って思う。

 言葉に詰まった私を、大好きな人はふっと真剣な目の色で覗き込んだ。

「それともほかに希望でもある? ああ、早く帰りたい、というのは認めないから」
「あ、えーっと……。その、大丈夫です」
「大丈夫?」
「はい。まだ、時間は、大丈夫です」

 柚木先輩のフルートと、私のヴァイオリン。
 2つの旋律はとてもしっくりと私を幸せにするというのに。
 困ったような顔を見たくない、って思うのに。
 どうして私は肝心なときに、大切な言葉を伝えられないでいるんだろう。
 そう、天羽ちゃんみたいにハキハキと。
 ── そ、その……。『私も一緒にいたいです』って。

 ……うう。恥ずかしくて、素直にそんなこと言えないよ。

『香穂子。今日は夕飯、家で食べるわよね?』

 家を出るとき、楽しげにテレビ番組のレシピをメモしていたお母さんの、どういうワケかペンを持った指の赤味を思い出す。

『つまらない。子どもなんてあっという間に大きくなるんだもの。
 お兄ちゃんも、お姉ちゃんも。それに末っ子のあなたまで、最近は外で楽しいことができたみたいだし』

 いつまでも親離れしない子だ、ってからかわれていたのがウソのように、今は私が、子離れできてないお母さんを心配している。
 ごめんね。お母さん。今日、少しだけ、帰るの、遅くなってもいいかな……?

 私の『大丈夫』という言葉に、柚木先輩は安心したように頷くと、そっと私の背を押した。

(あ……)

 不思議。今までだったら、先輩の手が私のどこかに触れるたび、大げさなくらい身体がびくりと波打ったのに。
 今は、触れられたところから、少しずつ熱くなる。そして、気持ちいい。
 いつからだろう、と考えて、私はずっと前から自分の中に用意してある答えを引っ張り出す。
 そう。ウワサでしか知らなかった痛みに気づいたあの日からだ。

「柚木サマ?」
「まあ、本当。柚木サマだわ」
「……え?」

 背後から突然飛んできた聞き覚えのある声に、私は反射的に柚木先輩の背に隠れる。
 この声は、……新見さんと、伊部さん?

 新見さんはチェロ。えっと、伊部さんは、ヴァイオリンだ。
 この春のオケには、すごく協力してもらった。秋のころよりは、少しだけ、その……、仲良く、なれたかな、って思ってたのに。
 どうやらそれは、『柚木先輩がいない場合』の限定だったみたい。
 2人が私を見る目つきは鋭い。

 わ、学院内だったら、ばったり会って、とか、アンサンブルの練習だとか、これは、って思うことが思いつくのに。
 だけど、ここは電車を乗り継いできた洋館。言い訳なんて思いつかない。

 どうしよう……。怖い。どうしたら、いいの?
 おそるおそる柚木先輩の横顔を見つめる。
 だけど、表情を知る前に、思いもかけず彼の髪がふわりと私の目を覆った。

「お久しぶりです。柚木サマ」
「こんにちは。元気そうだね」
「ええ。柚木サマもお元気そうで。ですが……」

 新見さんは唇の先に込めていた力を目に押し込んで、じろりと私をにらみつける。
 待ってましたとばかりに、今度は伊部さんが口を開いた。

「日野さん。あなた、また柚木サマの時間を取ってるのね」

 コンミスをやり終えて、少しだけ、自分が誇らしく思えたこともあった。
 人の悪意も、なにげなく交わせるようになった。そんな自信もあったのに。
 彼女たちの雰囲気は、自分の劣等感と一緒に、柚木先輩と仲違いをしていた苦々しい記憶まで連れてくる。

 話そうとして、何度も拒絶されたこと。
 車の中の重苦しい空気。運転手の田中さんの沈黙。
 卵色の茶巾寿司。
 困ったように私と柚木先輩を見ていた、火原先輩の表情。

 ヘンなの。
 ほとんどのことは1日たっぷり眠れば忘れる私が、2ヶ月以上前のことをこんなに鮮明に覚えてるなんて。

 見上げた先に柚木先輩の顔がある。
 私は小さく頷くと、そっと一歩柚木先輩から離れた。
 また、今度、会えたらいいもん。まだ、春休み、残ってる。


 そのとたん、突然手首を引っ張られて、私は目の前の人の背中につんのめった。

「……あっ」
「いいからお前はここにいて」

 柚木先輩は、ゆっくりと新見さん、伊部さんの顔を見渡した。

「違うよ。君たち。今日はね、僕の方から彼女を誘ったんだ」
「ええ。以前お聞きしましたわ。柚木サマがこの方に、音楽を教えて差し上げていること」
「この方、ご親切を勘違いして、柚木さまにご迷惑をおかけしているのですから」

 間髪入れずに新見さんが反論する。伊部さんがフォローする。
 そのたびに穏やかな口調で説明をしている柚木先輩を、私はただぼんやりと見続けていた。

 こんなのって……?
 ね。── 本当のこと……?

「……だから2人ともごめんね。この子は僕にとってかけがえのない存在なんだ。
 今は彼女のことを優先したいと思っている。許してもらえると嬉しいな」

 伊部さんは呆気に取られたように柚木先輩の顔を見つめていたけど、やがて やってられない、といった風に首をすくめた。
 新見さんはよほど不愉快だったのか、値踏みするような目で私を見ると、ぷいと顔を横に向けた。

「柚木サマの選択は少し理解に苦しみますけど……。わかりました」
「それでは、私たちこれで失礼いたしますわね。ごきげんよう」



 思っても見なかった展開に、私はぼんやりと2人の後ろ姿を見送る。
 夕陽を背にした彼女たちの背中はオレンジ色の中、儚げにかすんでいく。

 柚木先輩は満足げに私の顔を覗き込んだ。

「今度は間違えなかっただろう?」
「へ? 間違えなかった、って?」
「やれやれ。……ここまで鈍いと、『鈍い』という特性も賞賛に値する」
「はい……」
「前に言ったでしょう? お前のことをちゃんと守ってやるって」

 そうだ。まだ底冷えが続くような冬。
 冷たい海風が吹き荒れる中、柚木先輩がそう言ってくれたことを思い出す。

 ついさっき起こったことが信じられない。
 ── 本当に、私のこと、守ってくれたんだ。
 さっき先輩の口から飛び出した言葉を思い出す。

『かけがえのない存在』って。

 私、柚木先輩に対する自分の気持ちを疑ったことはないけど。
 思いつきもしなかった。柚木先輩がこんな風に考えてくれてる、なんて。

 ど、どうしよう。頬がゆるんでくるのが、自分でもわかる。

 柚木先輩はそんな私を見て、すまし顔で笑っている。

「だけど、喜ぶのはまだ早いよ?」
「え? どうしてですか?」
「かけがえのない、っていうのは、俺はお前でしかストレスが発散できない、という意味なの。わかってる?」
「わ、私でストレス発散、なんですか??」
「そう。お前には、これからも俺のストレス解消につきあってもらうよ」

 柚木先輩は歌うようにそう言うと、周囲に広がっている花壇に目をやった。
 柔らかそうな土が、辺り一面を覆っている。
 なかには、ちょこちょこと、若い青葉を出している花壇もあった。
 見覚えのある葉っぱの形は、家の庭と一緒。この子、クロッカスだ。
 少し離れたところには、白いムスカリが春の雪のように重たげに下に顔を向けている。

「もうすぐ春も近い。花壇が満開になる頃、もう一度お前と見に来ようか」

 優しい誘いに、私は感じていた思いを投げかける。

 意地悪なことを言われる気がする。身構える。
 だけど、いつも柚木先輩からのリクエストは、私が嬉しくなることばかりなんだもの。

「あのね。なんだか、あの、『ストレス解消』っていうと、私がすごく、辛抱しなくちゃいけないのかな、って思うんですけど」
「けど……。なに?」
「あの、私も、この花壇、見たいな、って思ったし、その……。
 なんていうんだろう、柚木先輩のストレス解消、って。その、私も嬉しい、っていうか」
「ふうん……。お前は俺にいじめられると嬉しいの?」
「は、はい?」

 最近わかってきた。
 私がこんな風に焦ってるのを、大好きな人は、楽しんでるんじゃないか、ってこと。
 楽しみながら、からかいながら。だけどじっと目の奥を見つめて、私の気持ちを確認してるってこと。

 ありがとう、と伝えようとした唇に、穏やかなぬくもりが降ってくる。




「春は日が長いからね。お前のことをゆっくりかまってやれるよ」
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