「ううっ。また遅刻だよ……っ」

 私は走りながら左手首を覗き込む。
 すると、そこにあると思っていた時計はなく、ベソをかいたようにヒクヒクと波打っている静脈が目に飛び込んできた。
 そうだった。最近はずっと右手首に腕時計、つけるようになったのに。慌てると、つい昔のクセが出てきちゃうんだ。

 だけど、文字盤を見なくたって、おおよその時間はくっきりと頭に刻み込まれてる。
 多分、2時15分。今から待ち合わせ場所まではどんなに走ったって、あと5分はかかる。
 だとしたら20分の遅刻だ。

 人を待たせるのって好きじゃない。
 待たせてる人の顔を見るのが怖いんだもの。
 足元ばかり見て謝って。
 だけど足元だけを見てその日1日を終えることなんてできないから、えいって気合いを入れて顔を上げる。
 そのときの瞬間って、本当に緊張する。
 まるで今日1日の緊張感を全部使ってしまうみたいなんだもの。
 だとしたら、自分が待っている方がどれだけ気楽かわからない、って思っちゃう。

 須弥ちゃんや乃亜ちゃんと遊びに行くときだって、冬海ちゃんとの2人練習だって、どんなときだって。
 今まで私、あまり人を待たせた、ってことはなかったのに。
 どうして柚木先輩と会うときは、こんな風に遅刻ばかりしてるんだろう。

 今日は電車の事故で電車が遅れたのが原因、って言っても……。
 遅れてるのは事実なんだもの。もう、泣きたくなる。
 
*...*...* Changing *...*...*
 私は高3の、柚木先輩は大学1年になってから、最初の休日。
 せっかくならお昼ご飯を一緒に、と思ったけれど、今年大学に進学した柚木先輩は、土曜日も午前中は授業があるらしい。
 だったら、夕飯を、という話になって、決めた待ち合わせ時間。
 柚木先輩は、待ち合わせの時間に遅れてくることってめったにない。
 だけど、今日だけは少しだけでいいから、遅れてくる……、なんてこと、ないかな?
 そ、そう。新しいお友だちと話し込んでいた、とかっ。

 柚木先輩と、お昼ごはんを一緒に食べること。
 今までだったら、朝一緒に登校して、車の中で決めれば良かった約束。
 会うのにも、会う時間を合わせるのも、そんなに大変なことではなかったのに。
 今は、大好きな人に会うのに、ちょっとだけ労力が要る。

 時間は確実に流れていってる。私の上にも、柚木先輩の上にも。

 私、本当にバカだ。
 ── 大事な人との大事な時間を自分から短くするなんて、一体なにやってるんだろう。

「遅い」
「ごごめんなさい!」

 ようやく見慣れた人の姿が見えてきた。
 なんて謝ろう……、と口を開き書けたとたん、低い声が降ってくる。
 声のトーンだけでもわかる不機嫌な様子に、私は柚木先輩の顔も見ないで頭を下げた。

 この前のデートに引き続き、の、遅刻だもの。柚木先輩じゃなくたって怒るに決まってる。
 そ、そうだ。これから私の中の集合時間を20分くらい早めておけばいいのかな。
 そうしたら今日だってちょうどぴったりの時間にここに着けたに違いないもの。

「……そう素直に謝られるとね。こちらも調子が狂うんだけど?」
「へ? あ、あの、柚木先輩?」
「まあいい。それじゃ行こうか。これ以上時間を無駄にしたくないからね」

 おずおずと顔を上げると、柚木先輩の視線は、私を通り越して街角の人混みへと向かっている。
 街行く人は楽しそうに笑いさざめいている。
 コートを脱ぐだけで、着ている服の色が白っぽくなるだけで、みんな幸せそうに見えてくる。
 春っていいな。花も笑う。鳥も笑う。風さえも笑っているようでワクワクする。

 ── って、そうじゃなくて。柚木先輩、怒ってないのかな……?

「えっと……。あの、どこへ、行くんでしょう?」
「ふうん。遅刻したお前が、そんなこと言うの?」

 凄みを増した流し目でそう言われて、私は黙り込む。
 うう……。やっぱり怒ってるのかな。当たり前だよね。

 私はしょんぼりと、大好きな人の一歩後を歩く。
 どうしたら、機嫌、直してくれるかな……。
 遅刻連続2回目、っていうのは、自分でも弁解の余地なし、って感じもする。

「ほら。手」
「はい?」

 下ばかり見て歩く私の前に、白い手が翻る。
 な、なんだろ?

「言っただろう? これ以上時間を無駄にしたくない、って。
 ぼんやりしているお前だから、俺は事前に手を打つんだよ。迷子にならないように、ってね」

 言葉とはウラハラの温かい手に、私はほっとして自分の手を合わせた。
*...*...*
 電車を乗り継ぎやってきたのは、遠くに観覧車の見える海岸だった。
 まだ少しだけ風が冷たいからか、人はまばらで、波の音だけが大きく聞こえる。

 柚木先輩は、気持ちよさそうに大きく息を吸い込むと私の顔を見て笑った。

「ようやく落ち着いたな。……最近は人混みにうんざりしていてね」

 うんざり、って言葉に、どこか納得がいかなくて、私はあいまいに頷く。
 星奏学院も春になると、新入生の部活勧誘だとかで正門前がにぎやかになる。
 そのざわめきを私は単純に春らしくていいな、って思うだけ、なんだけど……。うんざり、なの??

 ああ、そっか。柚木先輩のことだもの。
 きっと、大学生になっても、高校生の時と変わらないくらいの超有名人になっちゃったりしてるのかも、しれない。
 大人のお姉さんたちがいっぱいいる場所で、『柚木くん、可愛い』とか言われたり、してるのかな?
 志水くんの大学生版、って感じ?
 今まで見たことのある柚木先輩の親衛隊さん、ってみんな、同級生か年下だったもの。
 年上の女の人たちからそういう目で見られる柚木先輩って……。そう考えると、面白くない、かな。落ち込んじゃう。

「だからお前には、俺のストレス発散につきあってもらうことに決めてるの」
「ストレス発散、ですか?」

 先輩は、私と会うときいつもこんな言葉でデートに誘う。
 聞いた限りだと、どんな大変なことが待っているんだろう、って不安に思うんだけど、
 実際は、私の行きたいと思っていた場所だったり、聴きたいと思っていた音楽を聴いたり。

 だけど、今日も私が派手な遅刻をしたんだもの。それに、今日は本当に柚木先輩もストレスが溜まってる、みたい、だし。
 もしかしてもしかすると、本当に私は柚木先輩の、『ストレス発散』相手になるのかも!!

「あ、そうだ。えーっと、火原先輩はどうしてますか? お元気ですか??」
「火原?」
「はい!」

 話を逸らしたくて私は、火原先輩の話を持ち出した。
 そう。いつだって親友のことを話す柚木先輩の表情は柔らかいもの。

 でも、私の考えもむなしく、柚木先輩は綺麗な眉をひそめている。

「お前、俺と 2人でいるときにほかの男の話題を出すなんて、いい度胸してるな」
「え、っと……。だって、その、柚木先輩と火原先輩は親友だし、あの、私も火原先輩のことは良く知ってるし……」
「俺が嫉妬する、とか考えないの?」
「はい?」

 とっさのことでワケもわからず、私はぽかんと柚木先輩の顔を見上げた。
 嫉妬? 誰が、誰に? まさか……。

「火原ならこの間会ったぜ。カリキュラムやサークルを決めるのに悩んでいたよ。火原なりに大学生活を満喫しているようだ」
「そうなんですか……。良かった、です」

 教師を目指したい。高3の冬にそう言い出してから、火原先輩はすごく先輩になっちゃったな、って思う。
 目標を持った人ってあんな風に頑張れるんだ、って、羨ましくなったもの。

 音楽をやりたい。そこまでは決心した私だけど。その後は?
 どんな風に音楽に関わっていくのか、まだ細かいことはまるで未知数だもの。

「そっか……。大学ってカリキュラムとか自分で決められるんですね。柚木先輩は、もう決めたんですか?」
「俺は1、2年の間に取れるだけ単位を取っておくつもりだ。あとあと単位が足りなくなってあたふたするのはバカバカしいからね」
「うーん……。柚木先輩らしい、って思います」

 ときどき? ううん、いつも、かな。
 ああ、賢い人っていうのは、こういう時間の使い方をするんだ、こういう考え方をするんだ、ってハッとする。
 私だったら、受験勉強からようやく解放された1年くらいは思い切り遊ぶ! って考えるけど、目の前の人は違う。
 たえず、ずっと先を見据えてる。そんな気がする。

「香穂子。俺のことを気にする前に、お前にはやるべきことがあると思うけど」

 ヤレヤレといった風に柚木先輩は息をついた。
 た、確かにそうなんだけど。
 だけど、昨日無事に入学式の歓迎会での演奏、一応合格点もらったもの。
 ちょっとくらい、休んでもいいかなって思ったんだけど……。

「だいたい、おれよりもお前の方が忙しいはずだろう? それとも受験なんて楽勝、ってわけ?」
「そ、そんなこと言ってません。思ってもないですよーー」

 私は自分の顔の前でブンブンと両手を振ると必死に否定する。
 だって……。ムリだよ。ムリ。
 この冬必死に受験勉強してた火原先輩からいろいろ聞いたもん。
 音楽科入学にはピアノの実技があるって。
 それ以外にも、音楽史でしょ? ソルフェージュでしょ??
 演奏法に、音楽理論。
 音楽科の人が一生懸命頑張っても大変なんだもの。わ、私でできるなんて思ってない。
 今からいっぱい頑張って。背伸びして、思い切り手を伸ばして、それでやっと指先が掠るかどうか、だと思うもの。

『おや? そうかね。これでも私は、アルジェントの見る目、というものをそれなりに評価しているのだが。
 これから1年の間に目を通しておくといい』

 薄く笑みをたたえながら、私に20冊くらいの本を差し出した吉羅さんの顔も浮かんでくる。

「……相変わらず面白い反応だな。少しは成長したかと思えば、なにも変わっていない」
「そ、そうですか?」
「ああ。まるで子ども」

 ふん、とあごをあげて笑う柚木先輩が面白くなくて、私はこの日初めて柚木先輩の目の奥を覗き込んだ。

「ゆ、柚木先輩だって!」
「俺?」
「はい! あ、あの……、柚木先輩だって変わってない、って思います!
 大学生になったらずっと大人になっちゃうって思ってたのに」

 私は自分を肯定するように何度も頷く。
 だって、私だけ、なんだかちっとも成長してないような言い方をするんだもの。
 一応、高3になって。そして一応、ヴァイオリンも続けてて。
 そして、一応……、だけれど、一応、この前の入学式には、ヴァイオリン弾いて。
 目には見えない大きさかも、だけど、少しずつは成長してるって思ってるのに。

『呪われた者たちの世界へようこそ。心配することはないんだよ。僕も一緒なんだから』

 ── そう。皮肉っぽい笑顔で、柚木先輩にそう言われたときから、私の音楽に対する姿勢は大きく変わった。
 今、この大変なのを乗り越えたら。
 今、キレイに弾けないこの曲を弾けるようになれたら。
 その先に柚木先輩の背中があるって思ったから、どんなことでも頑張れたんだもの。

 だから、1年前の、柚木先輩と出会う前の私と比べたら、別人みたいに変わった、って思ってるのに。
 大好きな人がそう思ってないのって、すごく悔しい。
 そんな思いをいっぱい詰め込んで見上げると、柚木先輩は喉の奥で笑っている。

「当たり前だろう? 大学に入ったくらいじゃ俺は変わらないよ」
「そ、そうなんですか?」

 ふいに、風に打ち付けられたんじゃない髪の動きを感じて顔を上げると、そこには、私の頭に手を当てている柚木先輩がいた。



「── 俺を変えるのはいつだって、お前だろう?」
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