「香〜穂ちゃん。一緒に帰ろう?」
「あ、先輩!」
香穂ちゃんの大きな目が一瞬見開いた、と思ったら、眦が細く下がった。
── おれの大好きな顔。
子犬みたい、っていうか子猫みたい、っていうか、すっごくあどけない表情になるんだもん。
彼女の顔見てるだけでこっちまで嬉しくなっちゃう。
おれの誘いを喜んでる、って思ってもいいのかな?
って、ちょっとうぬぼれちゃうことができるからさ。
「香穂ちゃん、遅くまで頑張ってたね!
正門前でフルートとの合奏が聞こえたから、思わず聴き込んじゃったよ」
おれは香穂ちゃんと肩を並べると、夕焼けがキレイな、正門前へと歩き出した。
そうなんだ。
第1セレクションの時にはおっかなびっくり、って表現がピッタリだった香穂ちゃんが、第2セレクションまであと1週間、となった今、ぐんぐん上達してきているのが分かる。
難しい技法、ビブラートもフラジオレットもなんなくクリア。
このごろは、香穂ちゃんの演奏を楽しみにしてるっていう普通科のコも多いんだぜ、なんておれの悪友が耳打ちしてくれたのも昨日だったっけ。
確か柚木も言ってた。
まだ香穂ちゃんはバイオリンを始めて間がない、って。
もしそうなら、こんな風にどんどん進化し続ける香穂ちゃんって、実はとてつもない天才なんじゃないか、って。
おれは、香穂ちゃんが天才でも天才じゃなくても別にいいんだ。
……こうしてたまに話ができればさ。
あ、でも天才だったら、ファンとかできちゃうのかな? それはちょっとイヤかも。
「もう、大変なんです。左肩がパンパンで」
香穂ちゃんは左の肩をゆっくり回す仕草をしている。
口調とはウラハラの、すっきりとした表情で笑っている。
楽しさと張り合いがにじみ出ているような、なんともいえないいい顔をしてる。
そっかぁ。
バイオリンって、左の鎖骨とあごのチカラだけで挟み込むようにして支える楽器だもんな。
そりゃトランペットと比べたら軽すぎるくらい軽い楽器だけど。
ボウイングだけに集中していればいい右手と違って、左手はポジショニングも完璧にしなきゃいけないから、負担も大きいよね、うん。
「おれもね、今日、調子に乗って吹き過ぎちゃったんだ」
「わかりますよ〜。先輩の唇、腫れてるもん」
「あはは! やっぱり?」
笑い飛ばしながらも、少しだけドキっとする。
集中して練習すると、唇がマウスピースに擦れて思い切り腫れ上がることがある。
いつもならそんなこと、全然気にならない。
それどころか、腫れ上がった場所が、おれの練習の成果、って感じがして誇らしいのに。
夕日がもろに顔に当たってるせいか、どんどんほっぺたが熱くなってきた気がする。
あれ、ヘンだぞ。
なんだかこんな顔、香穂ちゃんに見られるの、メチャ恥ずかしいぞ、おれ。
「先輩は、毎朝走り込んでるって言ってましたね」
「うん? ああ、そうそう!」
別の話題に振られてちょっと安心。
だってさ、これ以上冷やかされたら、おれ、あることないこと語っちゃいそうだよ。
そりゃ音楽に集中しているときは考えるヒマないけどね。
このごろのおれってホント、どっかおかしいんだ。
生まれてきて17年の間、あまり考えたことのないことばっかり、考えちゃう。
女の子ってやっぱりケーキが好きなのかな、とか。
女の子の部屋ってどうなってるのかな、とか。
女の子ってどんなオトコが好きなのかな、とか……。
『火原ってロマンチストだからさ!』
友達に言うと、いつもそうやってからかわれる、けど。
だってしかたないじゃんか。
にいちゃんとの2人兄弟っていう、殺風景な家庭環境なんだから!
「そっかあ。毎朝、ですか。やっぱり先輩ってエラい!」
香穂ちゃんは歩みを止めておれを振り仰ぐ。
その途端、おれの中の妄想はナリを潜めて、目の前の女の子に集中する。
おれがいつも言ってる『女の子』って……?
女の子なら誰でもいいワケではなくて、本当は……? もしかしたら?
ねえ。知っている人がいたら、教えてよ。
おれの中にある、『女の子』って、いうのは……。
この目の前で笑ってる、このコのことなんじゃないかな!?
「私も、頑張ろうかなー。
ちゃんとバイオリン弾けるようになるために、腕立てとかやった方がいいかも。
あ、今、流行りのダンベルとか!」
目をきらきらさせて香穂ちゃんは言う。
ひらめいた!って得意げな顔して。
バイオリンケース、愛しげに抱えて。
「……香穂ちゃんこそ、スゴいよ。おれ、本当にそう思うよ」
与えられた場所で精一杯のことをする。
……おれはそんな彼女が、心底、まぶしかった。
セレクションは楽しめればそれでいい、って考えだったおれ。
だってさ、楽しいことが一番じゃない?
弾いてるおれが楽しくて、聞いてるみんなが楽しくて。
結果なんて、あとからついてくるもの。
みんながおれの音楽を楽しんでくれたら、それでオールオッケーって思ってた。
だけど、それは。
……自分がセレクションで最下位だった時の言い訳なんじゃないか、って。
不思議なことに、目の前の女の子のがんばりがそう気付かせてくれたみたい。
── ありがと。香穂ちゃん。
「香穂ちゃん。一緒にセレクション、頑張ろうね? それ、持ってあげる」
「はい! って、そんな、いいですよ。先輩こそ重いでしょ?」
おれは香穂ちゃんの言うことも聞かずに、強引にバイオリンケースに手を伸ばす。
さっき香穂ちゃんが宝物のように抱きかかえていたケース。
そんなのに嫉妬しちゃった、って告げたら、香穂ちゃん、どんな顔するだろう?