ううっ。自分でも分かってるよ。まったくおれって大人げない。
 おれってさ、香穂ちゃんよりたった1つだけだけど、年上で。
 しかも、音楽科の先輩で。
 あ、そうそう。おれ、確か、初対面で香穂ちゃんにエラそうに語ってた。

「一応3年だから、何でも聞いてね。一通りのこと、分かると思うよ!」

 カッコつけてたのがウソみたい。
 何でだろう。どうして、おれ?
 ── 香穂ちゃんと柚木の合奏聴いただけで、こんなに動揺してるんだ?
*...*...* きみへと続いて *...*...*
「日野さん。すごく素敵だったよ。僕の心にひどく響いた」

 柚木がいつもの柚木スマイルで香穂ちゃんの肩をそっと抱いた。
 その瞬間、柚木の周りを取り囲んでいる親衛隊が黄色い声を上げる。
 そんな女の子達の反応も『想定内』って感じで、柚木は微笑んでいる。

「あ、ありがとうございます! 先輩のリードが素敵だったからですよ〜」

 香穂ちゃんは弦を持った右手をぎこちなく下ろしながら柚木に笑い返している。
 香穂ちゃんの肩に触れている柚木の手をどう扱って良いのか困惑してるみたい。

 ごく普通の放課後。
 少しだけ夏の匂いを残した風が心地良い、夕方。
 正門前に立ってる二人の影が、長く長く伸びて、もう少しでおれもその場所に踏み込めそうなのに。
 毎朝のジョギングレベル以上の早さで走り続けてるのに、なかなか辿りつかない。

 ── 辿り着けない。

 遠くからでもわかった。
 コンクールにはまだ大分時間があるというのに、香穂ちゃんの弦を抑える指は正確で。
 香穂ちゃんは白い頬を高揚させて、真剣にボウイングの位置を定めていた。

 普通科の生徒は、第一セレクションで、普通科の香穂ちゃんが優勝したのが面白くて、珍しいんだろう。
 香穂ちゃんがバイオリン片手に廊下なんかを歩いていたら、

 『聴かなきゃソンでしょ!?』

 と言わんばかりに、いろいろな曲を香穂ちゃんにリクエストしてくる。

 そうだよね〜。
 リクエストされるって嬉しいし。聴いてくれるって、もっと嬉しいし。
 おれも、気分が乗ってるときはガンガン吹き続けちゃう。

 けどおれだって、いつもウェルカムって気分ってワケじゃない。

 たとえば。
 このフレーズだけは完全にマスターしたい、とか。
 弾いて。弾きながら弾いてるおれが引き込まれて、トランペットとおれの上半身が溶けて一体になる瞬間、とか。

 神様がくれたようなタイミングの時には申し訳ないけど、人のリクエスト、聞く余裕がないんだ。
 だから。
 ── そんなに香穂ちゃんも、一生懸命になること、ないのに、って思うのに。

 なのに、香穂ちゃん、人が良すぎるんだ。
 言われたリクエストは、持ってるチカラ、全て出し切って頑張っちゃうんだよなー。

「柚木〜! 香穂ちゃん!!」

 やっとおれはふたり(……と柚木の取り巻き)に追いついて、上がった呼吸を整えるために、はぁ、と深く息をつく。
 香穂ちゃんの頬は夕日を反射してきらきらしてる。

 ── だよね? 香穂ちゃんの頬の赤味は、柚木のせいじゃないよね?

「火原。どうしたんだ。そんなに慌てて」
「あ! いやっ。あの、えっと……」

 いけね。
 言い訳、っていうか理由、何にも考えてなかった。
 っていうか、ここに来るのに、理由なんてなかったから。

 低いビブラートを備えたバイオリンの音が聞こえてきた。
 そう思ったら、バイオリンを引き立てるような、喉の奥をくすぐるような低音のフルートがバイオリンを取り囲んだ。

 (……こんな演奏をするんだ)

 柚木も。香穂ちゃんも。

 合奏の基本。
 複数の楽器を使うときはなおさら。
 お互いの弱いところ、支え合って、いたわり合って、より深みのある音楽を作ること。

 それは分かってるよ。

 けど……。
 ── そうなんだ。

 ふたりの演奏を聴いてて、もどかしいまでに焦る気持ちが浮かんできた、って言うのが本当なんだ。

 おれは息を整えながら、柚木を改めて見つめた。
 品の良い面差し。憂いのある声。
 思えば友達になってから3年も経つのに、おれ、柚木の慌てた様子なんて見たことない。

 やっぱり、女の子って、こういう余裕のあるオトコの方がいいのかな。いいに決まってるよね。

「火原先輩?」

 息がやや整ってからもぼんやりとしているおれに、香穂ちゃんはバイオリンを肩から下ろしながら尋ねる。
 柚木は、というと、おれが特に用事がないというのを察したのか、いつもの穏やかな笑顔で軽く頷いた。
 そして、香穂ちゃんの肩にずっと(おれにとっては、とてもとても長い時間に思えた)置かれていた手を外した。

「日野さん、次のセレクションが楽しみだよ。……じゃあ、僕は失礼するね。迎えの車が来たみたいだから」
「はい。今日は合奏ありがとうございました!」

 香穂ちゃんはぴしっと『気をつけ〜』って感じで直立してる。背筋を伸ばして柚木を見送る。

 うう。ここでもなんか、なんか、違うぞ。

 ── おれ、には、香穂ちゃん、こんなこと、しない。

 おれと柚木って同級生で。香穂ちゃんから見れば、同じ『先輩』だろ?

 でもさ。
 なんか、柚木は『大先輩』って感じで。

 それに比べて、おれは……?
 ええっと……。『小先輩』……?
 ああっ。『大』だから『小』なんて、おれって安直過ぎる!

「もう6時近いんですね〜。そろそろ帰ろうかな」

 あれほど香穂ちゃんの周囲を取り囲んでいた生徒も、今は、まばら。
 香穂ちゃんはすっきりした表情で、バイオリンを片付け始めた。
 顎当ての部分を付属のガーゼできっちり拭き取ってケースに入れた後、弦を軽く調弦をしてこれもケースの定位置にそっと置いた。

 その一連の流れが、とてもムダなくてキレイで。

 しゃがんだ彼女。ちょっとクセのある髪が、背中に一筋の流れを作ってる。
 ── 女の子、って小さい。
 立ったって、おれの肩の高さまでもない。
 華奢で柔らかそうな身体がおれの足元でちょこちょこと動いている。

(こんなにも、違うんだな、オトコとは……)

 ワケもなく、熱い気持ちが湧いてるのが分かる。

 よおしっ。

 おれは胸の中で思いを固めた。
 明日からはロマンチストだって言われても、甘んじてその言葉を受け止めてやる。

 だって、そうだろ?  女の子って、やっぱり可愛いよ。守ってあげたい、ってそう思うよ。

「火原先輩、帰りましょう。……あれ? カバンは?」
「あ、っと。あ、あそこにある」
「って、え? どうしてあんなところに置いてあるんですか?」
「ごめん、ちょっとだけ待ってて!!」

 金色のヒカリを帯びたファータの銅像。
 その横に佇むように置かれている革製のトランペットケース。

 校門の端から、フルートとの合奏が聞こえた途端、何もかも放り出して走ってきちゃったんだ。
 おれは目的地までダッシュすると、素早く茶色のケースを持ち上げながら、まぶしいまでの銅像を見上げる。

 な、リリ。見えてるんだろ?

 音楽を通じて、出会うことが出来た人たち。
 そいつらは、これから、どこに流れていくのかな?

 ── 願わくば、どうか、あの子と。

 って思うおれは、これから先、どんな音色を奏でるんだろう?

「先輩。早く〜!」

 笑って手を振る香穂ちゃんへとおれは走り出す。
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