*...*...* ハードル *...*...*
 今日は香穂ちゃん、どこにいるかな?

 森の広場のきれいな空気の中で練習してるかな。
 それとも、屋上? 香穂ちゃん、空に吸い込まれそうな感じが好き、なんて、嬉しそうに言ってたこと、あったよね。
 それとも普通科のエントランスかな?
 友達が多くて、ヴァイオリン聴いてもらうの楽しいの、って笑ってたことあったから。

 木曜日の放課後。
 俺は駆け出しそうになる脚を止めて、我に返る。

 ああ、……っと。
 待て待て、自分。
 今、おれは、香穂ちゃんに話しかけちゃいけないんだ。
 
 昨日、伝えた。
 
『しばらく一緒に帰るの、よそう』
 
 その時の香穂ちゃんの様子は、丸1日が経とうとしている今でも5分前のことのように目に浮かぶ。
 いつものように普通科のお友達の話や、リリの話なんかを屈託無く話していた香穂ちゃんは、一瞬おれが何を言ったのかが理解できなかったようで。
 香穂ちゃんの表情もまるで写真で切り抜いたかのように、微動だにしなかったんだ。

『どうして? あ、オケ部が忙しいんですか? あ、でもコンクール中はオケ部も参加しなくていいって……? あれ?』
『ごめんね、香穂ちゃん。しばらく許して?』

 二人で学校帰りによく寄る公園。
 いつものように隣同士でブランコを揺らせながら、おれたちはたわいない話をしていて。

 けど、いつの間にか香穂ちゃんのブランコは止まってた。
 梅雨も近いのかな。どんよりした空がおれの背中に被さるように広がっていく。

『本当にごめん!』

 おれは、これ以上香穂ちゃんの顔を見ていられなくて、逃げるようにその場を後にした。
 だから、それからの香穂ちゃんの表情は分からずじまいだったっけ……。

 もっと、ちゃんと。
 香穂ちゃんに伝えたい、って考えたこと、全部言えれば良かったのに。
 でもおれ、なんか上手く言えない。
 こう、もやもやっとノドの奥にカツのコロモの細かいのが引っかかってるみたいに。
 空気は何の抵抗もなくノドの粘膜を通過するのに、言葉だけがそこで詰まるんだ。

 問題はどこにあるんだろう。
 香穂ちゃん? おれ?
 もしおれである場合、おれはどうしたらいいんだろう。

 5時間目の、昼下がり。
 今日も購買のカツサンドの争奪戦に打ち勝って、無事目的の品をゲット。
 けど、大好きなカツサンドもおれを元気づけるパワーはなかったみたいだ。

 時折心配そうに柚木がおれの様子を見ててくれるのには気付いてた。
 いつもは安心する親友の笑みに、おれは困ったように頷くのがやっとだった。

 香穂ちゃん。
 最終セレクションももうすぐ本番だね。

 きみ、この2ヶ月の間に、誰も想像出来なかったくらい上達したよね。
 技術面でも精神面でも。

 初めは、先輩風吹かせて。可愛い妹ができた、って程度の軽い気分だった。
 ウチの家族って女っ気はまるでゼロ。
 そんなおれの視界の中に、鮮やかな色彩を纏ってやってきた、可愛い子、って感じだった。

 それがセレクションが進むにつれ、香穂ちゃんはどんどん変化していった。
 香穂ちゃんは、初めはただ忠実に楽譜を追いかける素朴な音楽、って感じだったのが、いろいろな感情を伴って演奏できるようになってきていた。
 アヴェマリアでは、清々しいほど爽やかな旋律を。
 ロマンス・ト長調では、聴いているこっちが泣きたくなるような切ない音色を。

 でも。

 それらの曲はね、どれだけ聴いてもそのときのおれの内部には上手く響かなかったんだ。
 どうして自分の最愛の相棒である楽器に、そんな切ない思いを乗せるんだろう。
 どうして楽しい音の集合である音楽を、そんなに悲しく響かせるんだろう。

 …………。

 このごろのおれ、おかしいな。
 おれの中で確実に何かが生まれてる。そんな気がする。
 音楽は楽しい曲ばかりじゃない。思いを乗せて、伝えたい、と思える音色もあるのだということ。

 それと同じで。

 恋愛は楽しいだけじゃない。切ないこともあるのだということ。
 おれ自身が楽しい、ととらえていることも、実はとらえかた次第でそうではなく。
 香穂ちゃんにとってみれば、迷惑だったかもしれないこと。

 迷惑……。
 迷惑だったの、おれ!?

「あーーーっ。もう!!」

 ツンツンにスタイリングしてある髪の中に答えがあるかのように、おれは髪の毛をかきむしった。
 そして数秒後にわき起こった失笑に我に返る。
 やっべ。今、授業中じゃん。

「……火原。おまえさぁ、俺サマの授業中に奇声発するとは上等じゃないか。ん?」
「……あぁ、金やんかあ」
「顔洗って出直してこい」
「へいへい」

 おれはクラスのヤツのからかいのエールを受けて、廊下に出る。

 迷惑、かぁ。
 好きなコに対して、迷惑かけてたのかな? おれ……。
 それはいくらなんでも悲しすぎるぞ。

 おれは、どうしたい? どうなりたい?
 彼女と一緒にいるために。

 少なくとも今、分かっていることは。
 今のおれのままじゃ、あんまりにも香穂ちゃんにふさわしくないだろ? っていうことなんだ。

 先輩らしくないし。お調子者だし。
 なにしろ彼女の奏でる音楽で理解できない解釈があるし。

 だから、少し、時間をおきたくて、伝えた言葉。

『しばらく一緒に帰るの、よそう』

 おれ、その言葉の響きに、自分自身が切なくなったっけ……。

 ねえ、もし、……もしさ。
 きみの近くにいてもいい、っていう目に見える資格があったらいいのにね。
 そしたらおれ、どんなことしても必ず手に入れるのに。
*...*...*
 昨日、まるでケンカ別れみたいに別れたのに。
 挙げ句に、俺から香穂ちゃんから離れたのに。
 放課後、ふと気付くと、おれはいつもの続きみたいに香穂ちゃんを捜していた。
 後ろ姿でも分かるんだ。
 左手にヴァイオリンケースもって。色素の薄い髪が香穂ちゃんの元気を示すみたいに、ぴょんぴょんハネてて。
 話しかけると、すっごく嬉しそうに笑うんだよ。

『火原先輩!』

 って。
 声も可愛いんだ。はきはきしてて、元気いっぱい、って感じで。

 ……けど、その香穂ちゃんがいない。
 練習してたら人だかりができるからすぐ分かるのに。

 ……ホントにどうしたんだろ?

 あちこちに目を這わせていると、ファータにインタビューしてみたい! なんていつも豪語している天羽ちゃんが、正門前のファータの銅像を写してるのが目に入ってきた。

「ねね、天羽ちゃん! 香穂ちゃん、見なかった? もしかして今日休み?」
「え? 香穂ですか? あれ? いつも通り放課後のベルがなるとヴァイオリン持って飛び出していきましたよ〜」
「そっか、ありがと」

 やっぱ、香穂ちゃん、学園内にいるんだ。
 おれは天羽ちゃんの元まで駆けつけた脚でそのまま駆け出した。
 毎日のジョギングの成果がこんなところで役に立って、ラッキーだな、なんて、頭の片隅で思ったり。

「あれ、……でも」
「ん? なあに? 天羽ちゃん」
「今日そう言えば香穂、ちょっと元気がなかったような……。曲想でも練ってたのかな? コンクールも最後だし」

 元気が……?

 普段だったら、ちょっと心配、っていうレベル。
 けど、今日は。
 昨日のことがあるだけに、おれは胸が痛くなるほど高鳴るのを感じた。

 おれ……。
 香穂ちゃんに迷惑かけたくなくて。
 自分がどうなりたいのか見極めたくて。
 ── けっして、香穂ちゃんの元気をなくすために、あんなこと言ったんじゃないのに。

「香穂ちゃん……」

 おれは目的地も定まらないまま走り出した。

 会いたい。会いたいよ、香穂ちゃん。
 きみと会えてから、おれ、なんか、楽しいんだよ、毎日が。

 きみと出会ってからも毎日変わらずに過ごしていく日常。
 それをきみと会ったとき、どんな風に話そう、どんな風に笑ってくれるかな、って考えるだけでワクワクしてくるんだ。

 ── でも。

 森の広場。競技場。屋上に音楽室。
 どこを探しても香穂ちゃんはいない。

「……っはっ……っ」

 さすがにずっと走り続けてるのはキツイ。
 おれはオフホワイトのブレザーを脱いで、周囲を見回した。

 もしかして行き違い……? ワザと避けられてる?
 ううん、香穂ちゃんはそんなコじゃない。まっすぐで正直で……。おれの大好きなコで。

 こうなったら屋外より、屋内だ。

 そう思ったおれは、練習室の前の廊下まで走った。
 細くガラス張りになっている練習室のドアは中に誰がいるか、大体のところ察することができて。
 ましてや普通科のモスグリーンの上着は目につくはず、だから。

 おれは部屋の奥の人物に目をこらす。
 クラリネットの音、フルートの音。
 その中にはオケ部の後輩の熱心に練習する弦の音も混じっている。

(いない……)

 続く廊下を歩き続けて、突き当たり。
 そこだけ、全く音がしない部屋があった。

「……香穂ちゃん……?」

 ガラス越しに覗き込んでも、練習用のピアノが静かに佇んでいるだけで、人影もない。
 おれはある確信を持って、そのドアを開く。
 ドアを開かれたことで、静止していた空気がゆっくりと流れ出した。

「……先輩」

 香穂ちゃんは、いた。
 壁に背を当てて。ヴァイオリンケースは足元に。
 小さな身体をさらに縮ませて、気が抜けたような顔してる。
 グラウンドが遠くまで見渡せる窓。そこを開け放って、ぼんやりと外を眺めてたみたい。

「あ、やっぱり香穂ちゃんだったんだ。おれ、探しちゃったよ。もう、1時間くらい学園中、走り回ってたよ」
「先輩……」
「やっぱり夏が近いからかな? 暑いよね、今日は。お、あいつ、短距離の記録伸びたって言ってたけど、やってるなあ」

 おれは窓に駆け寄り、グラウンドを眺めた。
 遠くに見える親友がダッシュの練習を繰り返しやってるのが見える。

 6月の空。
 梅雨の晴れ間なのか、もうすっきりとした暑さは夏そのものだ。

「香穂ちゃん、今日は練習聴かせてくれないの?」

 ……ふと振り返って、おれはハッとした。


 ── 香穂ちゃん、が、泣いてる。


「香穂ちゃん? どうしたの? 大丈夫!?」

 駆け寄って、膝を立てる。同じ目線にするために。

 どうして?
 どうして、香穂ちゃんは今、泣いてて。
 おれは、香穂ちゃんのために一体何ができるのだろう?

「ん……。先輩はずるいです」
「え? 香穂ちゃん?」

 くぐもった声。
 一言も漏らしたくない。そう思った俺は更に顔を近づけた。

「昨日は、『しばらく一緒に帰れない』って言って……。それで、今日になったら、『探してた』って。
 私、何か先輩に悪いことしたのかな、って、すごく気になって……」
「違うよ、香穂ちゃん。おれ、その……。えっと……。
  おれが香穂ちゃんにふさわしくないんじゃないかなっておれが勝手に気にしてて、さっ」
「え? なんですか? それ」

 おっきな瞳に涙を溜めたまま、香穂ちゃんはおれを見上げてくる。

 ── 香穂ちゃん、昨日の帰りから、ホントに悩んだんだろうなあ。目、真っ赤だし。きっと昨日もあまり眠れなかったのかも知れない。
 そのこと自体はすっごく可哀想って思うものの、そんな香穂ちゃんの愛らしい表情に見とれてしまう、おれも、いて。

 ねえ。
 今、きみを泣かせてるのって、おれだよね?
 きみを泣かせるほど、きみにとっておれは大きい存在なのかな?

 って感じられることが幸せで。

 でも泣いてる香穂ちゃんが少しでも落ち着くようにと、おれはしどろもどろなりながらも自分の気持ちを伝えた。

 どんどん上手くなっていく香穂ちゃんにふさわしいおれでいるか悩んでいたこと。
 話しかけることは香穂ちゃんに迷惑だったんじゃないか、って思ってたこと。

「それでね。これからもね、おれは香穂ちゃんと……」

 コンクールが終わっても。
 ── これからも、と。
 ずっとずっと、きみのそばで、と願う気持ち、を……。

 ああ。でもまだ言えない。
 本当の意味で、おれがおれらしくなるまで。
 目の前の女の子にふさわしい自分になれるまで。

 話を続けるにつれ、香穂ちゃんの表情もいつもの落ち着いた可愛い顔に近づいてきて。
 話が尻切れトンボになったおれに助け船を出すように、微笑みながら言葉を繋げた。

「……これから、も? これからも……、なんですか?」
「い、いやっ。何でもない! この話はまた今度、ね!?」

 ああ、全く余裕ゼロのおれ。
 情けないよね。ホントにさ。

 でもそんなおれの顔を見守りながら、香穂ちゃんは微笑んだんだ。

「……はい。先輩が怒ってない、って分かっただけでも良かったです。……ありがとうございます」

 ねえ、この季節ってさ。
 梅雨のどんよりした雲の間から私のことも忘れないでね、って言わんばかりに太陽の光線が地上に落ちてくることってあるでしょ?
 あんな感じに香穂ちゃんは泣き顔を笑顔に変えたんだ。

 ── 全く、大変だよ。
 ますますきみのことが好きになっちゃって。

 おれは自分に課すハードルが日増しに高くなっていくのを感じる。
 けど、それが嬉しい。

(きみにふさわしくなれるなら)

 どんなことも頑張ろうって思えるからね。
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