空高く、音を揺らす。
 大きく息を吹き込めば吹き込むほど、香穂ちゃんはおれに近寄ってくる気がする。
 それでね。
 香穂ちゃんが近づけば近づくほど、おれのトランペットの響きが鮮やかに鳴り響くこと。
 ねぇ、香穂ちゃん。きみ、知ってた?
*...*...* Feel an echo *...*...*
「すごい、すごーい!!」

 放課後の森の広場。
 香穂ちゃんは、ぱちぱちと顔の前で勢い良く拍手をしている。
 ときどき芝生を揺らす風がベンチに座っている香穂ちゃんの前髪をはらはらと揺らして。

 あれ、香穂ちゃんって確か、おれより1つ下の高2だったよね?
 こんなあどけない様子を見てると、なんだか、おれよりずっとずっと小さな女の子みたいだな。

 なんかさ。すれてない、っていうかさ。
 香穂ちゃんに聴かせるのって、音楽科の、しかもおれと同じトランペット専攻のヤツらに向かうのと全然違う。
 ささやかなミスも、音程の不安定感も。

 何もかもすべて丸ごと受け入れてくれてる、って感じがする。

 そして、おれは調子に乗って、さらにおれ自身の良いところをいっぱい引き出すことができるんだよね。
 だから普通科の人間って好きなんだよな。
 おれの気付かないところまで、ときどきなんの脈絡もなく知らしめてくれるから。

 (音楽って楽しい)

 こんなシンプルなことを。

「ね、クラッシックだからって、あまり堅苦しく考えること、ないよね? 次はコレ。きっと香穂ちゃん、知ってるよ」

 脇を締めて、腰を据えて。
 ちらりと香穂ちゃんを見つめる。

 ……可愛いよなぁ……。
 コンクールに出るコだ、って天羽ちゃんから紹介されて。
 初めて会ったときには特に何も感じなかったのに。

 第2セレクションが近づく今、こうして改めて香穂ちゃんを見つめてると、真剣な面持ちで耳を澄ませてる表情や、曲名がわかった瞬間の笑顔に見とれてしまうおれがいる。

 自分の相棒をそっと撫でると、こいつはわかってると言わんばかりの熱を帯びて、おれの手に馴染んでくる。

「なんだろ……。……あ! これ、今、CMでやってる曲!」

 ベンチに座った香穂ちゃんは、飛び上がらんばかりにしておれの指先を見つめている。

「そうそう。アレンジ次第でどういう風でも変わるよね。あと、聞き手によっても」
「え? 聞き手?」
「そう」
「わ。私、ちゃんと聞き手になってるのかな? 詳しいこと何も言えないんですけど……」
「いいんだよ。楽しめれば。次、行くよ?」
「はい」

 香穂ちゃんは、ヴァイオリンを大切そうに膝に置いて、次の曲を心待ちにするかのようにおれを見上げてくる。

 ── ふぅ。毎朝、走り込んでて良かったよ。
 肺活量ってビブラートを美しく出すには欠かせないから、ね。

 って思って、息を吸って。香穂ちゃんの顔をちらりと見ると。
 そこには、暗い陰を増した香穂ちゃんの顔があった。
*...*...*
「あれ? どうしたの?」

 トランペットの立ち位置を元に戻して、香穂ちゃんの方へ向かう。

 香穂ちゃんは、ヴァイオリンと弦を手にすると、勢い良く立ち上がった。
 一体なにがあったんだろ? まるで小鳥が狙いを定めたネコに怯んで、慌てて逃げ出すときみたい。

「あ、あのっ。いっぱい聴かせてくれてありがとうございました。私もそろそろ練習を始めようかな、って……」
「香穂ちゃん?」
「……そんな言い方は寂しいね。香穂さん」

 おれの背後で声がする。
 す、っと芝生の上を滑るような音。柚木って歩き方まで、なんか、ちょっと普通のヤツと違う。

「なんだ。柚木も来たの? 珍しいね。こんなところまで」
「いや、火原のトランペットが聴こえたから、脚を伸ばしてみたんだ。元気いっぱいの良い音色だったよ」
「へへっ。サンキュ。柚木に言われたらお墨付きをもらったようなもんだよね?」

 おれは自分の隣りに来た柚木にガッツポーズを見せると、香穂ちゃんを振り返った。
 香穂ちゃんは、というと、さっきの勢いもどこかへぬぐい去ったかのように、すとん、とベンチに座り直している。

 ……なんか。なんかさ、ヘンじゃない? この雰囲気って……。

 別に、お互いがののしり合ってるワケでもないし、にらみ合ってるワケでもない。
 でも、なんていうのかな。
 2人の間に、ピンとした緊張感があるっていうか。
 大きな氷の固まりが2人の間に生まれてる、っていうか……。

 って思って、おれはそわそわと2人の顔を見比べた。
 でも、柚木はいつもと同じ、貴公子スマイルのまま、周囲を通りかかる親衛隊の挨拶を受け入れている、し。
 香穂ちゃんは、キレイに磨かれた革靴の先っぽを見つめてる、し……?

 あれ、あれれ??
 えーーっと……?

「柚木……」

 口を開こうとすると、柚木はいつもの笑顔で質問を遮った。

「じゃあ、火原。僕はそろそろ行くね? 生徒会のお手伝いをしなくちゃいけないんだ」
「あ、ああ。おう! また明日な」

 なんか、ヘンだ。
 それだけはわかる。
 けど、それがなんなのかが全くわからなくて。

 多分、柚木に質問をするにも、質問の内容がわからないような状況、で。

 あ、なんか、今日の5時間目の授業の音楽史みたいだな。
 わからないところがわからないから、質問のしようがない、って感じ。
 おれ、バロック音楽って苦手で、なにを聴いてもチンプンカンプンなんだよね。

 柚木は軽く香穂ちゃんの頭に視線を投げかけると、小さく笑みを浮かべて校舎の方へ帰っていった。
 香穂ちゃんは、そんな柚木の後ろ姿を認めると、握りしめてた弦をそっとベンチに置いた。

「香穂ちゃん……?」
「……えへへ。なんだか気が抜けちゃった」
「……なんか、あったの? 柚木と、さ」

 この鈍感なおれでも気付く、2人の雰囲気。
 って、おれ、立ち入っちゃいけなかったかな?

 覗き込むようにして香穂ちゃんのそばに駆け寄ると、香穂ちゃんは、労るようにそっとヴァイオリンを撫でている。
 ヴァイオリンって、華奢な作りがいかにも女の子が持つのにふさわしいような気がする。
 おれは彼女の作る音を思い出しながら、香穂ちゃんの横に腰掛けた。

「……これって、オールドヴァイオリンの1つだよね。洗礼されたフォルムと色が綺麗な」
「! 先輩、知ってるんですか?」
「え? 何を?」
「あ。いえ、何でもない、です……」
「そっか……」

 香穂ちゃん、何でもない、って顔してないけど。

 それっきり香穂ちゃんはおれが何を言っても、心ここに在らずって感じの曖昧な表情をしていた。
 いつもおれと香穂ちゃんとの間で響いている、楽器や声のような音が、まるで、なくて。

 遠くからは運動部のかけ声が響き、追いかけっこをするように、風が声を上げて通り過ぎていく。

 (そのうち、話してくれるかな?)

 今は言えない、香穂ちゃんの胸の内。
 そのときで、いいよ。そのとき、おれ、精一杯聞くから、さ。
 出会ったとき、『何でも聞いて?』って約束したもんね。
 おれは沈黙を遮るようにベンチから立ち上がると、大きく1回伸びをした。

「じゃあさ、そろそろ香穂ちゃんも練習、始める? おれ、ちょっとオケ部に行ってこようと思って……」
「火原、先輩」


 制服の裾を遠慮がちにひっぱるチカラ。
 それは、もしかしたら気付かないフリをして離れてしまうこともできた、か弱い、チカラ。


「香穂ちゃん?」
「私、コンクール、辞退しなきゃ、ダメかな……?」

 香穂ちゃんの言葉は思いがけないモノで。

 しかも……。
 わ、香穂ちゃん、涙目。
 やばい。おれ、女の子の扱い、全然慣れてないからっ。

 集団での付き合いならへっちゃら、で。
 オンナ友達コとなら2人でも、へっちゃら、で。
 おれ、そんなヤツだった。

 けど、でも、おれ、ダメだよ。香穂ちゃんとだと、ドキドキする。
 おれは胸の鼓動を隠すような大きな声で、香穂ちゃんの意見を打ち消した。

「え? 辞退? 何言ってるの? この前のセレクションも優勝だったじゃん」
「先輩……」
「香穂ちゃんは普通科の希望の星なんだからさ。頑張ってよ」

 希望の星、って、またおれはどうしてこんな古くさい言い方しか出てこないんだろう。
 でも『希望』って良い言葉だよね。
 『星』っていうのも、おれがもし言われたら嬉しいんだけどなあ。
 あたふたと言い募るおれに、香穂ちゃんは、またぽつりとつぶやいた。

「火原先輩と柚木先輩、って仲良しなんですよね?」
「え?」

 ……いきなり話題がすっ飛んだような気もするんだけど。

「えーっと。そうだね。入学式の時に初めて会ったんだ。似たところがないんだけど、妙に気が合うんだ」
「そう、ですか……」

 香穂ちゃんは、ふぅ、っと大きなため息をつくと、手の甲でぐぐっと目を擦った。

 (香穂ちゃん……)

 そして、覆っていた手が離れたときには、いつもの元気いっぱいな香穂ちゃんに戻っていた。

「香穂ちゃん?」
「えへへ。もう、大丈夫です。ありがとうございます!」
「ホントに?」
「ホント、ですよ〜。火原先輩も、オケ部、頑張ってきて下さいね。私ももう一頑張りしますね」

 香穂ちゃんは、ほら、遅刻ですよ、と軽くおれの背中を押して。

 香穂ちゃんが触れたおれの背中がとても温かかった、って言ったら。
 いや、もっと、本質を突いてあげようか。

(柚木に言われた? 『辞退したら?』って)

 香穂ちゃんの顔を見つめて、そう聞いたら?

 そしたら今、懸命のチカラを振り絞って笑ってる香穂ちゃんは、今度こそ泣き出しそうな気がする。
 ── それだけは避けなきゃ、な。

 おれは気付かないフリをして、一歩先へと歩み出る。

「香穂ちゃん」
「なんですか?」
「言ってよね。何でも。── おれ、待ってるからさ」


 返事を聞かないまま、おれは講堂へと走り出した。
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