「うっわー。やっぱり降ってきちゃったなー」

 朝のランニングの時から、何となく空気が重いって感じはしてたんだ。
 だけど、傘って、使わないとき、持って歩くのって面倒じゃない?
 だから、おれ、滅多に傘は持ち歩かないんだよね。

 恨めしそうに空をニラんでも、却って雨の降りはひどくなるばかりで。

 おれはダッシュで走り慣れた通学路を駈け抜ける。
 多分、タオルはカバンに入ってる。濡れた頭は教室着いてからぱっぱと拭けばいいや。

 って、……あの、後ろ姿……?

 おれは走る速度をゆるめて確認する。
 普通科の制服さんがヴァイオリン持ち、なんて、香穂ちゃんだけだもんね!
 だから、すぐ分かるんだ。

 なんて、自分を納得させてたけど。
 最近のおれはなんかそれも違うんじゃないかなー、って感じ始めてる。

 香穂ちゃんが、普通科の制服を着てなくても。
 香穂ちゃんが、ヴァイオリンを手にしてなくても。

 おれは、香穂ちゃんが香穂ちゃんだから、探し出せるんだ、って。そう思えてくるからさ。

「香ー穂ちゃん!」
「あ、火原先輩! おはようございます」
「よく降るねー。あ、ちょっと傘、入れてって?」
「いいですよー。って、先輩、びしょ濡れじゃないですか」
「え、そう?」

 ぷるぷると頭を振る。
 その途端、細かいしぶきが香穂ちゃんの腕にかかったのがわかった。

「わ! ごごめん!!」
「ううん?」

 なんかさ、まるで、そこらへんを歩いてる子犬が、雨の冷たさに驚いて身体を揺らしてるみたいじゃない?
 ってか、香穂ちゃん、イヤだよね。必ずしもキレイとは言えない雫が腕に付くの。

「あはは。先輩、風邪引きますよー」

 香穂ちゃんはそんなおれの思惑に気づきもしないで、鞄からハンカチを取り出すと、おれの頭を拭いた。
 ふわりと拭かれた場所からいい香りが落ちてくる。
 優しい色をした花みたいな香り。

 ねぇ。女の子ってみんな、こんな良い香りがするの?
 それとも香穂ちゃんだから、特別なの?
 おれはオケ部の女の子たちを思い出してみる。
 ……うーん。みんないいコで大好きだけど、こんな風に感じたこと、ない。

 花の香りかあ。
 あ、そっか。柚木に聞けば、どんな花かわかるかも。
 って、おれ、この香りについての情報って何もないじゃん。
 こうやって感情に訴える、言葉のないモノ、形のないモノ、ってどうやって人に伝えればいいんだろう。

「ん? どうしましたか?」
「あ、い、いや! なんでもないっ!」

 ったくもう。
 ハンカチだけでここまで考えちゃうおれ。
 もし、香穂ちゃんを直接抱きしめたら、おれは何日もきみの香りに悩まされ続けるかもしれない。

 ……って、……。抱く? 抱く、って!!
 うわーうわー。おれ、何考えてるんだろ。
 にわかに頬が熱くなってきてるのがわかる。
 わわ、偶然香穂ちゃんのハンカチが辿っていった耳も熱いよ。

「先輩」
「ん? な、なに?」

 香穂ちゃんは改まって聞いてくる。
 こういうときは、バカ話じゃなくて、真剣な話。多分音楽の話。
 初対面の時、『何でもおれに聞いてよね』っていう関係が、音楽の話のときだけは、そのまま続いてて。
 おれはほんの少しだけ、先輩風を吹かせていたりする。

 ── 頼られるって、気持ちいいよね。大好きなコになら、なおさら。

「冬海ちゃんから聞いたんです。その……。トランペットとかフルートとか、息を吹き込む楽器は、
 絶対風邪を引いちゃいけない、って。風邪を引くと音量とか音域に響くんですって。……本当?」
「んー。まあ、そうだね。風邪引かないに越したことないよね」
「だから冬海ちゃんは、いつも寝るとき、マスクをして寝るんですって。喉を痛めないように」
「へぇー。すごいね!」

 って、おれは肺活量は多い方がいいっしょー、とばかりに、朝のジョギングは欠かしたことないけど。
 これは言わば元陸上部だったときの習慣がそのまま惰性的に続いてるって感じで。

 あんまり風邪を引かないように、とかどうとか、考えたことないなあ。
 ほら、よく、バカは風邪引かないとかいうでしょ?
 こんな丈夫に生んでくれた父さんと母さんには感謝してる。

『お前が誇れるのって身体だけだもんなー』

 大学生になって酒とタバコに身をやつしてる、と自分で豪語している兄貴も、健康優良児並みの俺の体力を羨ましそうに見てることもある。

 でもさ。シンプルに誇れるモノ、ってそれだけですごいと思わない?
 身体が丈夫な自分ってさ、限りない可能性を秘めているような気がしてくるでしょ?

「だから」

 香穂ちゃんは、ちょっと怒った顔を作っておれを睨んだ。

「な、なに?」
「火原先輩も、風邪に気をつけて下さいね。雨に濡れないで……。最終セレクションまでもう少し、ですから」
「香穂ちゃん……」

 わ、香穂ちゃん、クチを尖らせてる。これで怒ってるつもりなのかなあ。
 ダメだ、おれ。
 きっと、おれが香穂ちゃんを好きな限り、香穂ちゃんのどんな顔見たって、可愛いって思えてくる。
 淡いピンク色の唇に、触れたくなる。
 ── もっと、もっと。おれだけに、見せて、って……。

 香穂ちゃんはおれが上の空だ、ってこと充分わかってるみたい。
 声を落とすと、諭すようにゆっくりとつぶやいた。

「私は、火原先輩の、元気な音が聴きたいです。だから……」
「そうだなー、だったら」

 感情よりも、言葉が先に出てきた感じ。
 こんな大胆なこと、おれ、って言えるキャラだったんだ、なんて、おれ自身驚いちゃう。

 だって。
 誤解しちゃいたくなるよ。

 そんなにおれの音を聴きたい、って言ってくれて。
 おれの体調を気にしてくれる。

 そんなきみなら。
 ── 少しはおれのことも、好きでいてくれるのかな? って。


「これから、毎日一緒に登下校、しよう? ね?」
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