「……っと、やっぱり降ってきたか」

 俺は手の平を上に向けると舌打ちをする。
 朝食後、口うるさい母さんが折りたたみ傘でも持って行け、って言ってたのは背中で聞いた。
 けど、置き傘もあるし、学院に行くまでは、天気も保ってくれると思ってたんだよな。

 俺はイヤホンを耳から取り外すと、手前にいる学院の生徒を飛び越えるようにして走り出す。
 ここは学院の制服を、相手チームのユニホームに見立てれば話は早いか。
 サッカーのディフェンスをスルーするとでも思えば、面倒なこともゲームみたいに感じられるぜ。

 最終セレクションまであと3日。
 ピアノ教師である母さんの意見も聞いた。
 テーマ、『思い描くもの』を聴衆に訴えるには、やっぱり第3楽章のフレーズを長く編曲した方がふさわしいかもしれない。

 信号のある交差点。
 俺の走る速度に釣られるようにして信号が青に変わる。
 よし、あとひとっ走りだ。本降りにならないみたいだから、この調子で走り続けて、と……。

「あ、土浦くん、待って! 濡れちゃうよー?」

 淡い桜色の傘がくるりと回転したと思ったら、聞き慣れた声がする。
 普通科の夏服。手にはヴァイオリン。……やっぱり、お前か。
 全く。持ち運び可能な楽器っていうのは、いつでも気ままに練習できる利点があるとはいえ、こんな鬱陶しい天気の時は大変だよな。
 雨に濡れたら、その後のメンテに差し支えるもんな。

「おっ、香穂子か。おはよーさん」
「わ、水もしたたるいい男、って言ってあげたいけど……。濡れてるねー。大丈夫? 風邪引いちゃうよ?」
「お前なー。『けど』ってなんだよ、『けど』って」
「あはは、聞こえちゃったんだ。……っと、これでいいかな? 入れた??」
「大丈夫だって。これくらい」
「ううん? 濡れると風邪引くよ?」

 香穂子はヒジを思い切り伸ばして、俺の頭を傘の中へと招き入れた。

 辛うじて、傘の中に頭が入る。それくらい、小さい傘。
 傘の取っ手を隔てて、ほんの少し先に香穂子の顔があった。

 少し長くなった前髪がうっとうしいのか、2本のピンで留めている。
 その奥のすっきりとした白い生え際に、俺はワケもなく慌てる。

「バ、バカ。俺のことはいいって。ヴァイオリンが濡れるだろうが」
「ううん? 平気。 ケースが濡れてもヴァイオリンには影響ないから」

 思えば、いつもこいつと話をしているとき、
 そんなに身長差を感じたことはなかったのに。

 小さな女物の傘。
 その中に背中を丸めて入っている俺は、思いがけず香穂子が小さいのに気づく。

「どうだ? 調子は」
「んー。解釈練習が足りないかなあ……。弾けば弾くほどわかんなくなっちゃう」
「わかるな。なんとなく」
「土浦くんもそういうとき、あった?」
「そうだな。俺の好みの解釈と セレクションのテーマと一致しているか、考えることはあるな」

 俺の好きな曲は人にダイレクトに感情を表すことができる愁情の曲。
 音楽科と言われる偉人は、誰もが人生に憂いを保っていて。
 それを昇華するために音を描いていったんだと俺は思っている。

 そのときの作者の思い、願いを、俺は俺の指を使って再現させたいんだよな。

 そう言えば先日、月森が俺の作風をどうのこうの言ってたが……。
 全く忌々しいよな。
 技巧だけに頼る音楽っていうのがどれだけみっともないものか、本番当日は見せつけてやりたいぜ。

「って!」
「あ! ごごめん!! 当たっちゃった??」

 ヒジを思い切り伸ばした姿勢は、結構辛いのだろう。
 だんだんと傘を持っている香穂子の腕が下がって、傘の先が俺の額を直撃した、らしい。

「わ、額、赤くなってる……」
「いいって。気にするなよ」
「ごめんね。今度は気をつけるね。……えぃ、っと……」

 香穂子はさっきよりもさらにヒジを伸ばして、俺の頭の上に傘を差し掛ける。
 少しだけ背が高く感じられるのは、ひょこひょこと背伸びをしているから、なんだろう。

 ったく。
 お人好しの上に『バカ』までつけたくなるようなヤツ。

 俺はちらりと香穂子に目を這わす。
 しなやかな二の腕に続く脇のライン。
 覗き込もうとしなくても、制服の半袖からそのまま柔らかなふくらみが覗けそうな勢いだ。

 傘から飛び出した香穂子の肩はびしょ濡れ。
 って、このままじゃお前の方が風邪を引いちまうじゃねえか。

 いるんだよな。こういう女。
 スキが、ありすぎ。
 自覚がない、っていうのが更にタチが悪いな。

 きっと、さっき出くわしたのが、俺じゃなくても。
 月森や志水、火原先輩だったとしても、こいつはこうして無邪気に傘を差し出すわけで。
 そうしたら、俺と同じような思いをする男も増えるわけで。

 ── さすがにマズいだろ? それは。

「香穂子、貸せよ」
「はい?」
「傘」

 俺は香穂子から傘をもぎ取ると、あいつの方に傾けながら、ゆっくりと歩き始める。

 ── お前の肩が濡れるの、俺はイヤだからさ。

「ありがと。助かっちゃった。両手が使えるの」
「そうか?」
「カバンとヴァイオリンを片手に持つのって、難しいんだー」

 屈託なく笑うお前。

 ったく、全然分かってないんだよな。
 コンクール参加者の人間が、どんな想いでお前のことを見てるか、なんてさ。

 俺は、よく分かるぜ。
 同じ思いを抱えてる人間っていうのは、同じ方向へと視線を傾けるから。
 自然と視界の中に飛び込んでくるんだよ。お前を探そうとすると、どうしても。
 できれば知りたくなかった、俺以外の男たちの気持ち、ってものが、さ。

「明日から、ずっと迎えに行ってやるよ。傘付き、でさ」

 この絶景を他の男に見せるのは惜しいからな。
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