授業終了のベルがなる。
 今日のソルフェージュはいささか退屈だった。もう少し先生も選曲に工夫を凝らして欲しい。
 分かり切ったメロディを聴音するほど、単調なことはない。

 俺は窓の外を眺める。
 梅雨時とはいえ、今年は例年になく雨天が続いている。
 俺はヴァイオリンケースに上に更に防水を兼ねたカバーをかぶせた。

 こんな天気の日にわざわざ調弦をするために、駅前の楽器店に行かなくてはならないのは不本意だが。
 予約を入れてしまった以上、それをキャンセルし再予約をするという方が面倒だ。

 大振りの、70センチの傘を開く。
 思えば、外国人の方が身体が大きい。
 だからか。
 母さんが海外演奏に行ったとき、必ずお土産として持ってくる傘は、日本のものよりかなり大きい。
 小さい頃はそれが納得いかなかった。
 それが身体も大きくなって、毎日ヴァイオリンを手にしていると、なるほど、この大きさは俺にしっくりと馴染むことがわかる。

 3時に学院を出て、店に着くのが3時半。調弦と張り替えに1時間。4時半。5時に自宅に着いて。
 今日はなんとしても第4セレクションの最終確認をしなくてはいけない。
 そうだな……。5時間もやれば、ほぼ確認したいフレーズを全部網羅することもできるだろう。

 ……あれは。

 喫茶店の店構えらしい場所に、あきらめにも似た表情を浮かべている女の顔がある。
 手にはヴァイオリン。空を恨めしげに眺めている。

「日野」
「あ、月森くん……」
「こんなところで何をしている。時間は有効に使う必要があると思うが?」

 濡れることを恐れたのか、ヴァイオリンは固く胸元に抱かれている。
 けれど、避け切れなかった雨は日野の髪の毛をしたたかに濡らしていた。

「君は傘を持ち歩かないのだろうか? 雨はいつ降ってくるかわからない。
 ヴァイオリンと傘は一体のものだと俺は考えているんだが」
「ん……。そうなんだけど……」

 日野は顔を上げると、手にしていたヴァイオリンケースを差し出した。

「あのね、今日昼休みに練習してたら、突然弦が切れちゃって。私、……こんなこと、初めてで。
 土浦くんに相談したら、俺がよく行く楽器店があるからって教えてもらったの。
 けど動揺してたからか、教えてもらった道、忘れちゃって……。
 ね、月森くん。弦、切れちゃっても、張り替えても、張り替える前と同じ音が出る? 大丈夫?」
「君は、まさか。そんなことで?」
「もし、ダメだったら、どうしよう……。せっかくここまで頑張ったのに……」

 確かにコンクールの最中に、頻繁に弦を張り替える行為は好ましいとは言えない。
 けれど、季節と湿度に応じて完璧なまでにペグを調整したとしても、弦の寿命まで正しく把握することは不可能で。

 ヴァイオリンとともに生きてきた人間にとっては日常茶飯事なことが、日野にとっては泣きたくなるくらい重大な事象なのだろう。
 途方に暮れたような顔で涙を浮かべている。

「……仕方ない。俺と一緒に来るといい」
「え?」

 日野はぽかんと俺の顔を見上げている。

「……どうするんだ? 俺と一緒に来るのか来ないのか」
「い、行く! 行きます! あ、でも……」

 日野は一瞬 俺の姿を見ると、何か決心したかのように大きく頷いた。

「何か?」
「ううん? いい。……よし、ダッシュします!」
「おい、何を……?」

 日野は突然数軒先の店の軒下まで走ると俺を振り返った。

「道、教えてくれる? 私、屋根づたいに走っていくから!」
「は?」
「月森くんは、月森くんとヴァイオリンを傘に入れてて、ね?」

 俺は混乱する。
 普通……。
 普通と言っても俺の知っている限り、という条件が付くが。
 こういうときは、俺の傘に日野が入って二人で歩いて行くのが普通だと俺は思うが。

「日野。俺の傘に入るといい」

 脚のスライドを大きくし、日野が駆け込んだ軒先へ行く。
 そして大きな傘を差し向ける。── 二人の身体が楽に入れそうなスペースが生まれる。

「ううん? 平気。月森くんは、月森くんとヴァイオリンが風邪引かないようにして?」
「は? ……君はどうなってもいいのか? 健康管理もヴァイオリニストとしての大切な仕事だろう?」

 飛び出してきたフレーズ。

(キミ ハ ドウナッテモ イイ ノカ?)

 一体俺はどうしたというのだろう?
 俺は、いつも自分の練習の成果をそのまま反映してくれるヴァイオリンばかりに気を取られて。
 自分の思考通りに動かない人間たちを どこか疎んじていたのに。

 日野の身体を気にかける自分がいるなんて……。

「月森くん……?」
「あ、いや……。その」

 昨日の放課後、音楽室で偶然会った王崎先輩の笑顔がよぎる。

『このコンクールは君に、今まで知らなかったことを教えてくれると思うよ?』
『先輩は、俺自身にまだ足りないところがある、とおっしゃりたい……?』
『あはは、そういう風に理解しちゃったなら、謝るよ。
 つまりね、音楽は技術だけで作られるものじゃないんだ、ってこと。
 もちろんたゆまぬ努力と正確な表現力は大切だけど、
 音楽は人間が作ってるんだ、ってことを忘れないでね』

 この自分でも表現できない気持ちをなんと言っていいのか、言葉が見つからないが……。

 日野は俺の突然の剣幕に、驚いたように目を見開いて。
 ぺこりと頭を下げると、素直に傘の中に入ってくる。

「えっと……。じゃあ、お願いします」
「ああ」

 日野の、しっとりと濡れた髪の毛から伝う滴。
 全くと言っていいほど、雨の影響を受けていない、俺の髪。
 ヴァイオリン自体は問題がないだろうが、雨に濡れて、すっかり沈んだ色になった日野のヴァイオリンケース。
 その一方、きちんと防水ケースに入れられている完璧なまでの状態を維持する俺のヴァイオリンケース。

 完全なモノと不完全なモノ。
 どちらがどちらであるかは明白で。
 どちらがより正しいモノかと言えば、俺、であることは間違いないのに。

 日野の不完全さが、より人間らしく、音楽に近い気がするのは──。

「ありがとう、月森くん」

 日野は傘の中、俺の顔を見上げて笑った。


 ヴァイオリンと一緒にいるときとは違う、温かい、優しい空気が流れる。
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