「え? 運転手さん、いらっしゃらないんですか?」
「ああ、今日は急用ができたとかでね。── たまにはいい。こうして駅まで歩くのも」
西の空が暗い。
空気は湿り気を増して、いわゆる不快指数が高い日。
気候の変化、食事の善し悪し。
人の上に立つ人間として、そういったものに一切感情を表してはいけない、という家のルールも手伝って。
俺の表情はその類のものに揺るぐことはなかった。
香穂子は心配そうに空を見上げている。
「柚木先輩、傘は?」
「持って歩くことはあまりないね」
「んー。保つかなあ、天気……」
「そういうお前は?」
「この頃 柚木先輩に送っていただくことが多くて、持ち歩いてなかったですね……」
「仕方ない。行くか」
「はい」
なんなら香穂子を送った後、タクシーを拾ってもいい。
それくらいまでなら天気も保つだろう。
── なんて。
そう思ったのが甘かったらしい。
西空に佇んでいた黒い雲はどんどんと自分の居場所を広げていって。
にわかに景色が暗くなる。
学院と香穂子の家のちょうど中間地点で 空はとうとう堪えきれなくなったように大粒の雨を落とし始めた。
「わ、先輩、濡れちゃいますよ? ちょっと待ってて!」
「おい、どうする気だ?」
「困ったときのコンビニ頼みです。傘、買ってきます!」
香穂子はそう言い捨てると、すぐ横にあった明るい店内へと駆け込んだ。
ふぅん。コンビニ、ねぇ。
俺は小さく突き出したひさしの中に入ると、店内を背に空を見上げる。
思えば車での登下校ばかりで、俺はコンビニっていうのにまったく縁がなく今まで過ごしてきたんだよな。
「お待たせ、です。行きましょう?」
香穂子は嬉しそうに俺を見て微笑むと、手にした1本のビニール傘を勢いよく空へと広げた。
「分からないな。どうして1本なんだ? そんなに高いものでもないだろう?」
「んー。値段じゃないんです」
「へぇ。じゃあ、どうして?」
「どうして、だろう……。そうだなあ……」
香穂子は俺を傘の中に差し招くと、肩を寄せて歩き始める。
ぽつぽつとアスファルトの道はグレーに蝕まれて。
街の色がワントーンずつ、落ちていく。
雨が好きな人間なんて、いない。
鬱陶しい、季節。── 俺の、生まれた。
「えっと、貴重な体験だと思いまして」
「貴重?」
「そう……。こうして柚木先輩と2人で1つの傘に入れるの」
「そりゃまた安易な体験だな。こんなのいつでもできるだろう?」
「ううん。なかなかできませんよ?」
珍しく香穂子は反論すると、ゆっくりと脚を勧める。
雨の音。いつもとは違う、靴の音が続く。
俺と香穂子の間に横たわる大きな水たまり。傘は一つ。
「先輩、こっちです」
そのたびに香穂子は俺の指を軽く引っ張って。
二人、同じ方向へと脚を出す。
頼られているような。いや、違う。俺が香穂子を頼っているような。
こういう感覚は初めてで。
何度か繰り返すうち、むしろ、この状態を好ましく思えてくる自分もいて。
ほんの数センチ先を歩く香穂子の艶を増した髪の毛を、初めて見るような思いで見つめている俺がいる。
「やれやれ。結構時間がかかったな」
香穂子の自宅に着いて。
俺と香穂子はようやく向かい合わせになると、合奏の後のように笑い合った。
── 雨に慣れてないからだろう、本当に、一仕事したような気持ちになってくる。
「肩、濡れてますよ?」
香穂子は制服からハンカチを取り出すと ぱたぱたと俺の右肩を拭く。
「── 先輩と、こう、してみたかったんです。だから……、雨で良かった。ありがとう」
「ヘンなやつだな」
「そうですねえ」
香穂子は恥ずかしそうに笑うと、いつものように小さく会釈をして自宅の中へ入っていった。
普通の高校生。普通の恋。
俺がもし柚木家に生まれていなかったら、といって、想像するのは俺の親友火原の生活だ。
ああいう風に、学院まで歩いて通って。
放課後はクラスやオケ部のみんなと楽しんで。
屈託ない、生活を送っていたのだろうか。
そして、香穂子とは、車ではなく。
こうして2人で1つ、同じ傘に入り、湿り気の増した町並みを同じ速度で歩いていたのだろうか。
香穂子が買った傘を手に、柚木家の門をくぐる。
濡れた制服もそのままに、俺は部屋から続く中庭へと出る。
(ふぅん、なるほどね)
安価なビニール傘から覗いた景色は、微細に見えないことの美しさも手伝って、俺が思ってもみない優しい雰囲気を漂わせている。
雫が凸レンズの役をして。
光も色も、実像を さらに大きく豊かに響かせる。
── なんだ、雨降りもなかなか悪くないじゃないか。
「お兄さま? どうなさったの?」
「なんだい? 雅」
「お兄さまがそんな……」
いつも中庭で使う傘は茄子紺色の羽二重と決めている俺が、確かにこんな風情で歩いているのはおかしいかもしれない。
俺は苦笑して空を見上げる。
あいつの声が聞こえてくる気がする。
『雨で、良かった』