香穂ちゃんの指はくるくると器用にリンゴを回すと皮をむいている。

 高く澄み切った青空と、どんどん長くなるりんごの皮の色。
 相反する色合いなのに、どうしてこんなにお互いを引き立ててるんだろ、なんておれに似合わないことを思っちゃったり。

 サク、サク、と規則的な音と一緒に降ってくる、甘酸っぱい匂い。
 なんだろうね。いつも見慣れてる香穂ちゃんなのに。

 今のおれからは、誰にも増して可愛く見えてしょうがないよ。


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 今日は日曜。
 午前中、オケ部の練習をこなした後、おれと香穂ちゃんは学院内の森の広場にやってきた。

「お母さんの知り合いがりんごを送ってくれたとかで、家にいっぱいあるんです。
 すごくおいしかったから、火原先輩にも食べて欲しくて!」
「いいよねー。おれ、りんご大好き」
「先輩も? 私もです。1日何個でもいけちゃいます。
 切りたてが一番おいしいかな、と思って今日はちっちゃいナイフも持ってきました」


 おれたちはお気に入りの木陰に腰を降ろすと、早速持ってきたお昼を食べ始めた。
 ってこの頃は購買のパンに加えて、香穂ちゃんがなんだかんだとおれの好みの食べ物を持ってきてくれる。
 いろいろな色のナフキンに包まれたお弁当を香穂ちゃんが楽しそうに開いてくれてるときが、おれが一番幸せな瞬間かもしれない。

 べ、別に食べ物に釣られてるワケじゃないんだよ? うん。

 けど、けどね……。
 ロマンチストって笑われていたおれだけど。
 香穂ちゃんは、やっぱり女の子らしい可愛い女の子で。
 毎日、どんどん、好きになる。その気持ちが止められなくて。
 ね、つきあい始めてからも好きな度合いが増す、ってすごいことだよね。

「いいよね、ピクニックみたいで」
「はい。今ってすごくいい季節ですよねー。先輩のトランペットの音も、なんだか澄んでる、っていうか秋らしい、っていうか。……素敵でした」
「そう? ありがと。でもオケって難しいよね。ソロと違って、それぞれの楽器の音を生かしたい、って思うと、選曲から迷っちゃう」
「んー。そうなんですか……」
「管と弦が仲良しな曲って、それほど多いわけじゃないんだよね。高校生レベルでそこそこのモノ聴かせたい、と思うと、
 どうしても範囲が狭くなっちゃうんだ。それでも星奏学院のレベルって国内でも高い方なんだよ?」
「それは、王崎先輩からも聞いたことがあります。難しいものなんですね。コンクールとはまた違う、っていうか……」

 香穂ちゃんは手際良くりんごをむき終わると、プラスティックのピックを刺しておれに差し出した。

「はい、どうぞ」
「んー」
「あれ、どうしたんですか? おいしいですよ、すごく」

 おれはきょろきょろと周囲に目を遣る。
 秋の日曜日。天気も上々。この年一番の行楽日和、ってそれは言いすぎか。けど学院内の人気はまばら。
 オケ部のみんなも、午後からは自分の予定を組んだのか、練習が終わると同時に校門を走り抜けていったし。


 だったら。
 ── 今日はもう少しだけ、香穂ちゃんに甘えてもいいかな?

「火原先輩……?」
「香穂ちゃん、ちょっとそのままでいてね」
「はい……? ひ、火原先輩……っ、な、なに……?」

 おれは香穂ちゃんの白い腿にダイブして頭を預ける。

 わ、やっぱり、だ。
 女の子って、ホント、身体中が柔らくて瑞々しい。オトコの筋張った身体と大違い。
 おまけに、ふんわりとした優しい香りもする。りんごかな? 違うな。もう少し甘い匂い。

 見上げると そこには おれの身体にはないもの……。ふんわりとした胸があって。
 その向こうからひょっこりと香穂ちゃんは顔を出してる、って感じ。

 香穂ちゃんは、困惑、といった表情で俺を見下ろしている。

「は、恥ずかしいですよ。あ、あの、あまり見ないでくださいね」
「んー。最高だよ? 絶景だし」
「うう、最高、なんですか? これが……。あ、もしかしてこれって、男のロマン、なんですか?」
「そうそう。香穂ちゃんもよくわかってるじゃない。あ、りんご ちょうだい」
「あ、はい」

 香穂ちゃんは自分の腿を動かさないように、そっと身体をずらすと りんごを手渡してくれた。

「先輩の髪、つんつん、ってしてなんだかくすぐったいです」
「これから何度でもするから、慣れていってね」
「えっと、……が、頑張ります」

 香穂ちゃんは自分を落ち着かせるように ほっと息を吐くと、りんごを手に取って、ゆっくりと食べ始めた。

 二人がりんごを食べる音。風が舞う。色づき始めたハナミズキが葉を落とす。

 ── じんわりと、嬉しさが滲んでくる。
 嬉しさ、なのかな?
 って待って。そんなシンプルな言葉だけでは 今の気持ちは表せないような気がする。

 これが、もしかして、幸せ、なのかな?

 今まで自分のことを不幸だとか思ったことはなかった。
 むしろ幸せな方だと思ってた。友達も多かったし、寂しいって思ったこと、なかったし。

 けど、やっぱり、違う。
 香穂ちゃんとこうしてると、今までとは違う圧倒的な幸福感が 口の中にあるりんごから伝わってくるような気がするんだ。

「……おれ、さ。コンクールに出て良かったよ」
「ん……」
「こうして、香穂ちゃんに会えてさ。一緒にオケ部に入って……」

 突然の告白に香穂ちゃんは戸惑ってるみたい。微笑みながら黙っておれの話を聞いてくれてる。

「香穂ちゃんは おれにとって もったいないくらい大切な彼女さんだよ」
「先輩……」
「だから、……これからもずっとそばにいて? 約束だよ」
「はい。……約束、ですね」

 いつの間にか、香穂ちゃんの指はさらさらと おれの髪を撫でている。
 細い、細い、指。
 こんな華奢な指から、どうやってあれほどまでに人に響かせる音楽を作り出すんだろう。

 ふいにおれが泣きたくなるような、音色まで。

 音楽って楽しいばっかりじゃないんだ、って教えてくれたのも香穂ちゃんだったね。
 そして、人を好きになるって、楽しいことばかりじゃないって教えてくれたのも香穂ちゃんだった。

 今、この瞬間の続きを願うおれは、ちょっとだけ『切ない』という感情も身につけ出している。
 ── 不安と、願いを、ごちゃまぜにして、こうして少しずつ、大人になっていくんだ。


「ねえ、香穂ちゃん。約束って、何するか知ってる?」
「はい? えっと、なんだろう……?」
「約束って言えば、大昔から指切りげんまんって決まってるの。ほら、指出して」

 おれはそう言うと強引に香穂ちゃんの手を掴むとおれの手に這わせた。

 いつもおれの近くに香穂ちゃんがあるように。
 そして、おれは、香穂ちゃんが必要だと思ってくれる人間であり続けるように。

 ── 香穂ちゃんの手が、ずっとおれに繋がっていますように。


 あ、おれ、今、知ったよ。
 願わずにはいられない想いを生む原動力となってくれるのも、やっぱり、香穂ちゃんなんだってこと。


 おれは気の済むまで指切りげんまんをすると、ころんと心地良い膝枕の上で目を閉じた。
 こんな些細なことで安心する、って、子どもっぽい。やっぱりおれはまだまだ子どもだ。
 けど、香穂ちゃんへ向かう想いだけは誰にも負けないよ。
 世界中の誰にだって、胸を張って告げることができる。


「今日の火原先輩は、なんだかいつもと違うような……?」
「……そう? どんな風に?」

 香穂ちゃんは、おれの質問には答えず、笑っておれの手を握りかえした。


「── 安心してください。私は、ずっと先輩のそばにいるから」
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