「……ん?」
熱っぽい額とは対照的なひんやりとした指が、気遣うように滑っていく。
しっとりとした指使いが夢の中のこととは思えないほど、リアルに伝わってくる。
(香穂子……?)
まさか。そんなはずなない。
ここは俺の部屋で。この時間、香穂子はきっと学院でヴァイオリンを奏でているはずで。
これは熱でおかしくなった俺の願望が見せている夢なのかもしれない。
「……月森くん、大丈夫? まだ少し熱いね」
細い指は俺の熱を取り除くかのように、額から頬、頬から顎へ落ちていく。
こんなに近くに来て、違和感がなくて。
そして、更に近くに来てくれることを望む人間は、俺にとってはただ一人。
── じゃあ、これは、やっぱり……?
「……香穂子?」
「そう。お見舞いに来たの。……どう? 調子は?」
俺はぼんやりと映る柱時計を見つめた。
コンタクトを着けていない俺の目に、文字盤は優しい表情を見せる。もうすぐ5時、くらいか。
「ああ。……君が来てくれたから良くなった、と言いたいところだが……」
上体を起こそうとして、視界がふらつく。
まだ、この調子では熱は高いのかも知れない。
「大丈夫? まだ熱が高そうだものね……」
香穂子は俺の様子を見て取ると 慌てて背中にクッションを当ててくれた。
「あ、そうだ。お見舞いにりんご持ってきたの。食べられるかな?」
「……すまない」
「ううん?」
香穂子は俺を安心させるように小さく笑って。
俺の肩に ベットの上に畳んであったカーディガンを掛けると、部屋の中にあるミニキッチンへと向かった。
昨日、香穂子と久しぶりに合奏をして。
その余韻がまだ俺の身体の中に残っていたらしい。
俺は帰宅するなり、深夜までずっと制服のままヴァイオリンを弾いた。
途中で暑くなって、上着を脱いで。
秋の風がひっそりと汗に膜を作るまで、俺は気付かずに香穂子の音を追い続けた。
その結果が、この風邪だ。
音楽家として一番基本的で大切な健康管理。
普段自戒の意味も込めて香穂子に言っていたことだけに、今こうしてベットにいる俺は、立場がないような気が しなくもない。
「……今日の授業、演奏法と音楽理論は、ノート 取っておいたから」
「ああ」
「あとは……。どうだったかな……。
あ、合唱の授業はね、弦伴奏の月森くんがいなかったから、大変だった。
みんな、アカペラで歌ったの。それがね、風邪を引いてるコも多いから、声が裏返っちゃって」
香穂子はミニキッチンに向かって くすくすと笑い声を立てながら りんごをむいていく。
── 思えば、こんな風にゆっくりと香穂子の後ろ姿を見るのは初めてかもしれない。
俺はぼやけた視界の中、ぼんやりとそう感じた。
春先よりも伸びた髪。
音楽科の白い制服もようやく馴染んできたのか、しっくりと彼女の背中に張り付いている。
……不思議なものだな。
コンクールが始まる前まで、俺は普通科に友人などいなかった。
それがコンクールを通して、日野に出会って。
『月森くんのような音を出してみたい』
『……君がそう言うなら、俺は君を応援したい』
『本当? ……ありがとう……』
反対されるか、ひどく馬鹿にされるか。
香穂子はそのときのことを口に出したことはないが、俺にそう告げるのに、かなりの勇気を要したのだろう。
ヴァイオリンを手に握りしめたまま、昂揚した頬にはらはらと涙を伝わせていた。
俺は、そのときの香穂子の涙を見て、決めたことがあった。
(香穂子にできるだけのフォローをしてやりたい)
魔法のヴァイオリンの手助けがあったとはいえ、やはり香穂子はヴァイオリンの扱いは初心者だ。
小さい頃からヴァイオリンと共に生活をしてきた音楽科の人間からすると、基本的な知識の積み重ねの中の 一部分が欠落していることも多い。
それを香穂子に取って無理のない形で補えたら。
── 今まで冷たく当たっていた、償いも込めて。
皿を出す音。水を流す音。それに混じって、りんごを切る音が続く。
「ん、きれいに切れたかな。塩水につけてないから、早めに食べた方がいいかも」
香穂子は笑って振り返ると、りんごを並べた皿を手にした。
「美味しそうだよ? どうぞ、月森くん」
高尚なことを考えながらも、自分の頬が熱で熱いのがわかる。
ベットの上にある手も、自分の手ではないように心許ない。
── こんな日は、少しだけ、目の前の最愛の彼女に甘えたい。そんな気もしてくる。
「香穂子」
「なあに?」
「── 食べさせてもらってもいいだろうか?」
その後の香穂子の反応が愛らしくて。
俺は香穂子が帰った後も、幸福な気持ちで眠り続けた。
今度、君が風邪で倒れたら、君が俺にしてくれたことを全部そのまましてあげるから。