「で? どうしてお前は、そんな怪我をしてるわけ?」
「えっと、その……。うっかり、というか……。あ、ほら、りんごが勝手にすべっちゃって。
 抑えてたら、今度はナイフが指に刺さってきた、というか。ははは……」
「ふぅん。りんごのせいにするわけね。……自分が不器用だ、ということをそんなに認められないのかな?」
「でも、ほんの少し、です。かすり傷ですよ?」

 俺は大げさにため息をつく。
 目の前には申し訳なさそうな表情を浮かべた香穂子が、俺の次の言葉を待っている。
 親指には絆創膏が2枚。
 微かに滲んだ血の色は、香穂子の言葉とは裏腹に、思いのほか 傷が深いことを伝えてくる。

「ほら、よく見せてみろ」

 放課後の練習室。
 学内コンクールを経て音楽科に移った香穂子は週に1度、こうして練習室を予約して、俺にいろいろなアドバイスを請う。

 いくら音楽科とはいえ、ヴァイオリンは俺の専門外で。
 本格的に学ぶならヴァイオリン専門の先生に師事した方がいいんじゃないか。
 そういう俺の助言に対して、香穂子は笑って言ったものだった。


『柚木先輩に聴いてもらえれば、それでいいんです』
『は? それでは上達が遅れるだろう?』
『ん……。じゃあ、柚木先輩が卒業してから考えようかな……』
『卒業?』
『そうですね。それまでは柚木先輩に聴いててもらいたいです。……一緒にいたいです』

 めざましいばかりのスピードで上達していくのを見るのは、師弟の関係ではなくても楽しいことで。
 ましてや自分の言うことを素直に聞いて、音に響かせる香穂子を見ることで、愛しさも増して。

 秋が深まる頃には、俺は週に一度のこの日を心待ちにするようになった。

「柚木先輩……?」

 今日は、香穂子の音色が聴けないのはともかくとして。
 俺は痛々しそうな香穂子の指に目を遣る。

 音楽科の人間の中には、今まで一度も刃物を持ったことがない、というほど 指には気を遣ってる人間もいるというのに。
 香穂子は音楽科へ転科した今も、今までと変わりなく、平気でナイフを持ったり球技をしていたりする。

 俺は、香穂子をピアノの椅子に座らせると、ゆっくりと絆創膏を はずしはじめた。

「え、取るんですか?」
「当然。ちゃんとボウイングができるのか見てやるよ」
「い、いいです。ちゃんと弾けますよ? 今日は先週から一曲完成させたから聴いてもらいたいと思って……」
「お前がどんなウソをついたって、俺にはわかるんだよ」

 きっぱりと言い切ると、ぴくりと香穂子の肩が揺れた。
 攻めの立場の俺と、防御一方の香穂子。二人の息が沈黙の中、ぶつかり合う。

 本当にわかりやすいやつ。素直すぎて、まっすぐ過ぎる。
 ── こいつの音色、そのままに。

 月森くんを初めとして、香穂子より技術力、表現力のある人間は、国内と言わずともこの学院内にたくさんいるだろう。
 またそういった類のモノは、本人の努力次第である程度のところまで引き上げることも可能だろう。
 だけど……。

「ごごめんなさい。ウソ、つきました。本当は 結構 深く切っちゃったんです」

 こいつの天性の素材は、他人の追随を許さない、から。
 だからその事実に気づき始めている月森くんや金澤先生は、何かと香穂子に注目するのだろう。

 俺は目の前の指を目の高さに持ち上げると、じっくりと傷口を見つめた。

 ふやけた色の白い指。
 2センチはあろうかと思われる深い傷は、まるで生き物のようにぱくりと口を開いている。

「……お前って……」

 いくら親指とはいえ、こんな指でボウイングを続けたら完治するものも完治しなくなってしまう。

「わーん、ごめんなさい。週に1度でしょう? どうしても柚木先輩に聴いてもらいたくて。
 怪我のことは弾いてから見てみよう、って。あとさき考えてなかったんです……」


 怪我をしたこと。ウソをついていたこと。それでもまだ弾き続けようとしたこと。
 これらのことを俺からどんな毒舌で責められるだろう、と考えているのか、香穂子はいつもに増して椅子の上で小さくなっている。

 俺は絆創膏を元通り戻すと、香穂子の頭を自分の胸に押しつけた。

「やれやれ。もう少し気をつけてもらいたいものだね」
「はい……」
「分かってるだろう? お前の音楽はお前だけのものじゃないってこと。この俺も楽しみにしてる、ってこと」

 香穂子の柔らかな髪を撫でる。元気に飛び跳ねてる髪は、さらりと俺の指から零れていく。

 痛い思いをしたのは香穂子で。
 ヴァイオリンを弾けなくて焦っているのも香穂子だ。
 それをさらに恋人に責められたら、さすがにやり切れないだろう。

 香穂子は俺の態度に安心したように肩の力を抜くと、身体を預けてきた。

「……ねえ。もう一つ、分かってる? お前の身体はお前だけのものじゃないってこと。
 どんな理由であれ、お前が怪我をするのは俺はイヤだね」

 香穂子が痛い思いをするくらいなら、自分の痛みの方がまだ耐えられる。
 自分の痛みだけを考えていればいいのだから。

 香穂子は俺のブラックタイに額を寄せると ほっと息を吐いた。

「……なんか焦っちゃってるんだと思います……。やってもやっても足りない気がして。
 音楽科に転科したことは後悔してないんだけど、これでいいのかなあ、って。
 音楽のこと、1年の志水くんや冬海ちゃんの方が博学な気がして……」
「知識なんていうのは、しょせん机上の空論に過ぎない。そんなのは あとからどうにでもなる」
「はい……」
「今日は帰ろう。試験前だし、練習室を使いたい人間もいるだろうから」





 俺たちは校舎を出ると そのまま迎えの車を待った。
 時折俺に挨拶をする人間たちの前で、香穂子は後輩といった立場を崩さないまま、俺の一歩後をついてくる。

(香穂子……)

 音楽科の白い制服が、星奏学院のレンガ色に映える。秋色の学院。
 いつも見慣れてるはずなのに、心持ちうつむき加減の香穂子は、誰もが振り返らずにはいられないほど愛らしくて。

 思えばコンクールが始まる前まで、俺は一人で学院に来て、一人で自宅に帰っていた。
 それがこの3ヶ月の間は、香穂子と一緒に往復して。

 今では、それが当たり前になっている。むしろ、一人で通っていた頃のことを思い出せないくらいに。

 目に見えない、人とのつながり。
 想いの大きさや強さ。いつも与えられるばかりで気付かなかった、相手の気持ち。
 今まで俺が欲しくても与えられなかったたくさんのもの。
 俺は香穂子から 言葉では表し方を知らない 温かい感情や音色をもらうばかりだった。


 ── そんな香穂子に、今まで俺は、なにをしてやれただろう?


「先輩、どうしたんですか?」

 車中で香穂子が尋ねてくる。急に無口になった俺を心配そうに見上げた。

「ああ、それで? お前、りんごは食べたの?」
「あれ、どうだったかな……。傷の手当てにバタバタしてて、結局食べてないですね……」
「今から俺の家に来いよ。食べさせてやるから」
「へ? あ、あの、柚木先輩がりんごの皮をむくんですか? ……むけるんですか??」

 香穂子は落ちそうなほど目を見開いて俺を見つめた。
 ふぅん。俺が包丁を握るってそんなに意外なわけね。

「心外? あの家は刃物の扱いに厳しくてね。小さい頃から仕込まれるから、一通り何でもできる」
「…………」
「なに? 不満?」
「いえ。……あの、嬉しいな、って。ありがとうございます、柚木先輩。けど、そんなに優しくされると、困っちゃいます」

 俺は香穂子の親指を軽く握りしめた。


「どうして困るの? ── たまにはお前を甘やかしたっていいだろう?」
←Back