*...*...* Chocolate *...*...*
 2月14日。
 私は車の中、後ろを振り返ってため息をつく。

 きっと、運転手の田中さん、車の後ろの安全確認、できないんじゃないかな?
 うず高く積み上げられた色とりどりのラッピングは、車が信号で停まるたび、存在を主張するようにさわさわと音を立てる。
 と思ったら、一番上にあったオレンジ色の大きな包みは、私の頭にぶつかって、柚木先輩と私の間に落ちてきた。

「った。……も、もう。このチョコレート、絶対 意志持ってる!」
「は? どうしてそう擬人法的な解釈ができるの?」
「だって……」

 元々、付き合う前から知っていた。
 自分の好きになった人が、学院中の有名人だ、ってこと。
 彼のための親衛隊さんもいて。
 その中では、すごく秩序だったルールみたいなものも存在しているってこと。
 昼食後、彼が飲むお茶を淹れるために当番が組まれているってことも、最近になって知った。

 けど、やっぱり。
 たくさんの女の子が、自分の大好きな人に向かって、自分と同じ目線で同じ気持ちを投げかけてる、っていう事実は、両手を上げて、『嬉しい』って思えるようなことじゃないような気がする。

 ── 複雑。
 ……そう、微笑がそのまま苦笑に変わるような、複雑な気持ちが浮かんでくるんだもん。

 柚木先輩はオレンジ色の包みを脇に押しやると、意地悪そうな笑みを広げた。

「で?」
「はい?」
「お前からのチョコレートはないわけ?」
「あ、ありますよ。もちろん」
「詫びっていうのも変だけどな。せめて一番最後にもらった詫びとして、一番最初に食べてやるよ」

 朝。運が悪いことに、日直だった私は、柚木先輩と一緒に登校することはできなくて。
 昼休み。一番混んでいる購買の人だかりかと思うほど、柚木先輩の周りには女の子がたくさんいて。
 放課後。柚木先輩に向かって途切れることなく続いている女の子の列に、また私はすごすごと手にしたチョコレートを持って、予約していた練習室へと戻って。

 ようやく2人きりになれたのが、今。帰りの車の中、だったりする。

「あ、あのね……。そうだ。冷えてる方が美味しいかな、って思って、冷蔵庫に入れてあるものもあるんです。
 ちょっと家に寄ってもらっても大丈夫ですか?」

 思いのほか 甘いものも食べてくれる柚木先輩に、どんなチョコレートを贈ろうか、と考えたとき。
 チョコレートには目のないお姉ちゃんと二人で製菓コーナーを歩き回っていたら、予想以上にたくさんの種類のチョコができた。

 できたもの、全部食べて、ってお願いするのは難しいけど、その中から柚木先輩が食べたいものを選んでもらうのも楽しいかな、って思う。
 うん、それがいいかも。

 柚木先輩は、脚を組み替えると私の方を向いた。

「……家、ねえ。それってもしかして『私を食べて』ってオチなのかな?」
「はい?? ど、どうしてそうなるんですかーー」
「別に俺はそれでも構わないけど」
「わっ。あ、あの……。田中さん、に、聞こえます」

 いくら全国模試で上位に入る柚木先輩でも。
 受験っていうのは少なからずプレッシャーになっていたのかな。
 受験が終わった後では、どこか柔らかな表情を浮かべて、ときどきこんな風に私を困らせたり、する。

 柚木先輩はちらりと運転手さんの肩に目をやると、茶目っ気いっぱいに問いただした。

「ねえ、田中。お前、今、なにか聞こえた?」
「……いいえ、梓馬さま。私は一向に、なにも」
「ほら、な。お前の考えすぎだよ」
「ううう……」

 柚木先輩はくすくす笑うと、自信たっぷりの顔をして私を流し見て。
 そして、当然と言った足取りで田中さんが開けたドアから降り立った。
 引っ張られるようにして私も とん、と地面に足をつく。
 3人しかいない車内。2対1でタッグを組まれたら、勝てるはず、ないよね。


 ####


「あれ? お母さん、買い物かな? あ、柚木先輩、どうぞ」
「ああ。お邪魔します」

 先輩はしなやかな足取りで玄関を上がると、すっと靴を揃えて立ち上がった。

「なに?」
「あ、ううん……」

 何気ない動作なのに、どうしてだろう……。いつも見慣れてる人なのに。
 膝の揃え方、立ち上がり方。そんな些細な動きが、少しずつ先輩を縁取って、一つの気品を作っている。
 それをまるで初めて見た人のように、改めて見とれてしまう自分がいる。

 私はぱたぱたと 制服の上にエプロンをつけると、お湯を沸かし始めた。

 チョコって、簡単に言えば、溶かして混ぜて固めるだけなのに。
 美味しくきれいに仕上げるのは本当に難しい、って思う。
 後片付けも大変で。少しでも服についたりすると、ちゃんと元通り汚れが取れるのか、そっちの方が気になっちゃう。
 だからチョコを扱うとき、私が一番最初にすること、といったら、エプロンを身に着けることかもしれない。

「紅茶にしましょうか。ちょっと待っててくださいね」

 対面キッチンの向こうにいる柚木先輩にそう言うと、私は冷蔵庫を開けた。
 トリュフと、石畳風の生チョコと。チョコマフィンと、パウンドケーキ。
 お姉ちゃんが張り切って作ったチョコタルトも、静かに出番を待っている。
 えへへ、こんなにもたくさん作っちゃったんだ……。全部一口ずつ、といっても、かなりの量な気がする。

 柚木先輩は私の様子を興味深そうに見つめると、上着を脱いでソファの背にかけた。

「香穂子?」
「はい?」
「いや。── 狭い家っていいものだな」
「え?」
「なんでもない。……こっちの話」

 温めておいたカップから、ふわふわと湯気が上がる。
 それは室内を回って、あっという間に曇りガラスを作る。

 狭い……?
 ずっとこの家に生まれて育ってきた私は、狭いとか広いとかあまり考えたことはなかったな……。
 確かに柚木先輩の家と比べたら、どんな家だって狭いかもしれない。

「ん。よし、できた、っと」

 私は大きな銀のトレーに少しずついろんなお菓子を載せると、柚木先輩の前に差し出した。

「お待たせしました。……先輩の口に合えばいいんですけど」
「ふぅん。お前、俺の好みに合わないモノを出してるの?」
「ううん? でも……」

 ティーサーバーの中の葉っぱがリズムを取って踊っている。
 私は頃合いを見て葉っぱたちを引き出すと、お気に入りのカップになみなみと紅茶を注いで先輩に勧める。
 そして自分用のカップにも同じ紅茶を注ぐと、柚木先輩の対面に座った。

「── 言って欲しい、です。なんでも」
「なんでも?」
「何が好きで、何がキライで。どうしたら、柚木先輩は一番嬉しい、って思ってくれるのか」
「香穂子……」
「私ができることならしますし。って私ができる範囲、ってすごく狭い気がする……」

 こういう甘いお菓子のお供には、甘ったるくないストレートの紅茶が合うかも。
 私は砂糖が添えてあったスプーンをそのままカップの後ろにそっと置く。
 そしてカップを手に ふと顔を上げると、そこにはうっすらと赤らんだ頬をした先輩の顔があった。

「ん? どうかしましたか? 暑い、ですか?」
「ねえ、香穂子。お前、どうしてそこに座ったの?」
「はい?」

 私はきょとんとして目の前の人を見る。

 リビングに置いてあるソファのセット。
 家族5人がぴったりと座れるこのソファは、お姉ちゃんが初めてのボーナスで奮発してくれたもの。
 キッチンから一番近いこの席がなんとなく私の定位置になってて。
 そして、中庭がとびきりキレイに見える位置が、お客さま専用の席になってて。
 その2つは互いに向き合うような配置にはなってる、けど……?

「── こっちにおいで」

 柚木先輩は優しい声で、自分の膝の間を指さした。
 先輩の目が細められる。
 その意味を解して、私は先輩の頬の色が自分に照り返されたような気がした。

「……えっと……。無理、です。だって、お母さんが帰ってきたら……」
「そのときは上手く取り繕ってやるよ」
「で、でも、です、ね……」

 何度抱かれても慣れない。最初の瞬間。
 いつも、恥ずかしいばっかりで、そのときの記憶は曖昧のまま。

 柚木先輩は、私が手にしていたカップを取り上げると、そのまま手を引っ張った。


「なに、お前。── 俺が一番嬉しいって思うことをしてくれるんだろ?」
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