*...*...* Wave *...*...*
「それにしてもお前も粋狂だな。こんな季節の海が見たいだなんて」
「どうしてかな……。どうしても見たくなったんです。柚木先輩と」

 目の前に広がる真っ直ぐな波光が空と海とを分けている。
 春の陽気に誘われてその幅は冬に見たそれより厚い。
 心地よい波音の中、香穂子はおずおずと手にしていたカバンから細長い包みを取り出した。

「先輩、これ、大学合格のお祝いです。万年筆、です」
「万年筆?」
「ははい! 散々考えて決めたんですけど、すごく緊張してます。
 なにを贈っても、先輩はなにもかも手に入れてる、って気がするから……」
「ふぅん。お前、そんな風に思ってるの?」
「ん……。でも先輩のことを考えながら贈り物を選ぶって、すごく楽しかったです」

 香穂子は風が乱した髪を指でなぞって笑っている。

「楽しい?」
「そう。先輩の趣味に合わないものを贈ったときの先輩を想像したりして、ね」
「へえ」
「きっとね、すごく意地悪な顔するんですよ。
 『却下、だな。お前、これ、本当に俺が気に入ると思ってるの?』って言うのかなー、とかね」
「やれやれ。なに、人のことおもちゃにして遊んでいるの?」

 お互いの新しい生活が始まって1週間。
 春休み、毎日のようになんらかの理屈をつけて香穂子と会っていた時間もあっという間に過ぎていった。
 しかし、俺の大学が始まり、香穂子の新学期が始まってからは、お互いの都合が合わず、ようやく会えたのがその週の週末だったりする。

 香穂子は波打ち際にしゃがむと、押しては引く波の跡を興味深そうに見つめていた。

 華奢な身体が俺の隣りでうずくまっている。
 髪の隙間からはしっとりとした光沢を持ったうなじが見え隠れして。
 心も体も手に入れてもなお、湧き上がる欲望に我ながら苦笑が浮かんでくる。── さっき抱いたばかりなのに。

「なにもかも手に入れてる、ねえ……」
「ん……。違いますか?」
「わかってないな。お前」
「はい?」
「確かに手には入れたけどね。今度は、離れているときの心配をしなくてはいけなくなったよ」
「え? なんの話ですか?」
「本当に厄介だね。家の中にしまっておくこともできないし。俺の懐に入れて持ち歩くこともできない」
「ん……」
「1週間会わなかったら、また変化してるし」
「???」

 香穂子はようやく、俺が告げている対象が自分であることに思い当たったのだろう。
 恥ずかしそうに目を逸らすと、再び目の前の海に目をやった。

「……柚木先輩はどうですか? 大学。楽しいですか?」
「まあ、あんなものだろう。俺という入れ物だけに関心を寄せてくる輩も多いな」
「あはは、じゃあまた柚木先輩の親衛隊さんが結成されるのかなあ。
 あ、柚木先輩は大学の中じゃ一番後輩くんだから、志水くんのような感じ……?
 柚木くん親衛隊、になるのかな」
「お前な」

 香穂子の口調はあくまでも優しく、明るくて。
 俺はふと不思議に思った。

 こいつは今、俺が抱いているような不安という色の感情を持っていないのだろうか。
 俺は大学に進み、香穂子は学院に残ったことで、2人の間には、それぞれの時間が流れ出している。
 それは、目の前に広がる海と空のように、けして交差することがない平行線を描いているというのに。

 自分の気持ちを押しつけたところで、相手も同じ気持ちを抱くわけではない。
 けれど── 。

 香穂子は立ち上がると、ぱたぱたとスカートの裾を はたく。
 そして俺の方に顔を向けることなく、地平に広がる波光を見つめると、まるで共通の友達の近況報告のように淡々と口を開いた。

「私は、……淋しいですよ」
「香穂子?」
「授業中はそうでもないんですけど。放課後は淋しいです。
 ほら、3年生って冬になると自由登校になるでしょう?
 その時期にね、柚木先輩がいないことに慣れてきたつもりだったけど……。
 どうしても探しちゃうんです」
「……そう」
「目はなんとなく、柚木先輩がいないことを納得し始めたみたい。
 けど、耳と気持ちはまだまだかも。
 同級生のフルートの音が聴こえると、柚木先輩の音じゃない、って分かってても、つい耳を傾けちゃいます。
 あと、気配、かな。森の広場なんて特に。練習してると、柚木先輩がそばにいてくれるような気がしますね……」

 香穂子は1歩 海に近づくと、ふっ、と深く息を吸い込んだ。

「えへへ……。情けないなあ」

 湿った声が、波間に途切れて聞こえる。
 小刻みに揺れている肩。髪をかきあげる仕草の端で目尻を押さえている。

 ── 全く、こいつは。
 俺に顔を見せない。そんな行為1つで、泣いているという事実を隠し切れてるつもりなのか?

 俺は香穂子の肩越しに腕を回して、顔を埋めた。
 香穂子は一瞬身体を強ばらせたものの、そのまま力を抜いて俺に全てを委ねようとはせず、再び体勢を立て直すと、じっと前だけを見ている。

「だ、だから、今の私にとってはヴァイオリンが一番の相棒なんです」
「香穂子」
「『── 止まらない時間を、どれだけ愛おしんでいけるかですよ』って。
 『先輩なら、できますよね?』って志水くんに言われました。……けど……」
「けど……? なに?」
「今は、こうしててくれますか?」


 香穂子はそう言うと、俺の指を握りしめた。
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