*...*...* Bright *...*...*
「あー、やれやれっと。今日も半分終了、ってとこか?」俺はサンダルの音を響かせながら、ゆっくりと廊下を歩く。
窓から差し込む日差しは、夏本番の鋭さを持って俺の頬に照らしてくる。
6限目の授業が終われば、あとはもうのんびりと残ってる力をペースダウンさせて、帰宅モードに備える、と。
あー、今日の野球の組み合わせってどうだったっけな。
夏が近くなるとナイターも俄然面白くなる。ビールも喉に気持ちよく馴染むし。たまんないよな。
俺は鼻歌まじりに渡り廊下を歩くと、職員室に向かった。
学年主任の谷口センセに頼まれた資料を渡して、っと。
あとは音楽準備室で、質問に来る生徒を適当に相手しとけば、そこそこ時間も流れていくだろ。
(……ん? あいつ……?)
どうしたんだ? こんなところで。
俺は見覚えのある後ろ姿を認めて、背後へと歩み寄った。
すっきりとした後ろ姿は、そのラインだけでも他のヤツとは一線を画してる。
やっぱ、なんだ? 女たちがこいつのこと、ちやほやと褒めちぎるだけはあるって?
「お、柚木じゃないか。職員室に何か用だったか?」
「ああ。金澤先生。ええ、ちょっと」
柚木は笑顔で俺に会釈する。
その様子を見て、周りの女生徒は、見とれてる、というのか、見惚れたように頬を赤らめたまま、その場に立ちつくしている。
……まったく。若いっていうのはある意味、シンプルなわかりやすさにも繋がるよな。
星奏学院音楽科3年、柚木梓馬。
多分、この学院の中で1、2を競う有名人だ。
容姿端麗、頭脳明晰。あー、まあ、とにかく人を褒める四文字熟語を頭にいっぱいつけたヤツ。
先週終了した第3回目コンクールも、結局のところ優勝は日野が飾ったが、柚木は2位入賞という、これまた申し分ない結果で終わった。
華やかで優美な演奏スタイルは、玄人好みの音楽科の先生からは大絶賛を浴びて。
管専門のセンセなんかは、最後まで日野の優勝に納得がいかなかったらしく、口元を歪めてたっけな。
── けど、な。
俺もコンクール担当なんて面倒なことをやらなかったら、きっと気づかなかったであろうことに今は気づいていた。
柚木は、そこらへんによくいる、ただの優等生じゃない。
少なからず、いろいろなモノを抱えていて。
けど、自尊心の高さから、それら荷物の存在を人に気づかせることなく。
自分の中で整理してるんだろう、ってこと。
── いっちょ、ここらでつついてみるのも面白い、か?
さっきまで近くに立ちつくしていた女生徒は、柚木がにっこり微笑むと、朱い顔をこれ以上ないくらい朱くしてその場を走り去った。
今、俺たちの周りには誰もいない。
1番近くにいる教務主任も、電話の対応に集中している。
俺は、白衣のポケットに手を突っ込むと、柚木の目を見た。
── ポケットにあるタバコに触れると安心するなんて、俺もおかしい、よな。
「なあ、柚木よ。お前さん、いろいろ決まったのか?」
「なにが、ですか?」
「進路のこととかさ」
華やかな演奏が得意だったこいつが。
コンクールが進むにつれ、以前とは一皮むけたような切なげな音を響かせてきているのを俺は感じていた。
音は言葉よりも雄弁なときがある。
柚木の作る音が、一人のヴァイオリン奏者に向けられていたことはわかっていたが。
俺はそれ以外にもう1つ。
柚木のフルートには、ある種の哀しみが伴っているように思えて仕方なかった。
── 音楽との決別。
本来突き進むことを求めているのに、周囲がそうさせないがゆえの、寂寞。
……なーんて、な。
柚木が俺に弱味を見せることは、まずないだろう。
けれど、コンクールの最中、火原が悔しそうに俺に話してくれたことを総合するに、柚木の道は柚木だけに決められるモノじゃない、ってことは何となくわかった。
ってか、往々にして、金持ちの家って難しいところ多いんだよな。
そして、昨日。
3回目のコンクールが終わってからもなおも想いを込めた音を響かせる柚木の後ろ姿を見て、確信したことがある。
漏れてくる音は、清々しいまでに力強く、迷いがそぎ落とされていて。
そして、何者をも寄せ付けない厳しさを伴っていたからだ。
── こいつ……。もしかして。
俺の勘が間違っていなければ、多分。
(このまま柚木は音楽の道を選ぶ)
その事実は、俺の中では運命のような絶対的な予感でもあった。
柚木は俺の口から『進路』という言葉が出てきたことに一瞬だけ身構えたような固い態度になる。
しかし、すぐさま状況を立て直すと、いつもの優等生スマイルで切り返してきた。
「進路の件に関しては、まあ、それなりに、というところでしょうか。ご心配いただいてありがとうございます」
ったく。よく言うよな。
音楽は高校まで。
そう告げる人間に、あんな力強い音は出せないだろうが。
俺は確信を持ってさらに尋ねた。
「でもあれだな。きっとお前さんの進路は変わったんだろ」
多分、こいつは、音楽の道を歩み始めたばかりの日野の手を引いて、音楽の世界に入り込もうとしている。
少しばかりの妬ましさが、俺にこんな問いかけをさせるのだろう。
「おっしゃる意味がわかりかねますよ、先生」
柚木はしばらく俺の顔を見つめていたが、事実を話す必要がないと判断したのか、さらりと笑顔で否定した。
ったく、いやになるよな。
こう、柚木に対しては、先生と生徒、って感じじゃなくて、本当に男と男、って感じで対峙しなくちゃいけないとこが、さ。
柚木の精神年齢がかなり高いんだろう。
こいつと話していると、先生と生徒、という関係よりも、オトナ同士の言いたいことが言える関係に近い気がする。
指導しなくては、なんていう、火原に対するような思いが全く浮かんでこないんだよな。
「ふーん。ま、いいさ。お前さんの人生だ。適当に頑張っていけや。じゃーな」
賢しいこいつのことだ。
柚木なら、どう転んだってそれなりの人生が待ってるだろ。
そう思って、踵を返したとき。
「……先生」
今まで聞いたこともないような不安そうな声が背中を突いてきた。
「あん? なんだー? 柚木」
俺は振り返って柚木の顔を見つめた。
そこには、途方に暮れたような表情をした柚木が立っている。
珍しいな。いつも孤高を気取っているこいつがこんな弱々しい様子を見せるなんて。
一体どうしたっていうんだ?
「── 未来は明るい、って誰が決めたんでしょうね」
忌々しさを包み隠すような、何かを悟ったような、淡々とした口調が響く。
ってお前、いつものお前さんらしくないな。
柚木の声音の暗さに、俺は慌てて適当なことを口走った。
「そ、そりゃ。お前さん、あれだ。あ、その、昔の人間だろ。それも成功したヤツ」
『未来は明るい』
過去の一点にも曇りがない人間は、未来もずっと青空が続くと信じてる。
心がけってのは妙なモノで、ポジティブに物事を捉える人間ほど、さらに運気が好転していくって相場が決まってるし。
「成功? ああ……、そうかもしれない」
どうやら俺の回答は柚木の求めているモノではなかったのだろう。
柚木は、俺の答えを再びくらい表情で、ぼんやりと頷いた。
「う、まあ、そういうことだ」
柚木はいったん納得しかけたものの、考えるところがあったのか、さらに食い下がってきた。
「……先生は、信じていましたか? 『未来は明るい』って」
「俺? そうだな……。今は信じても良いと思ってるさ。コンクールの担当なんてやってるとそんな気にもなるもんな」
最近、『明るい』という言葉から連想するのは、あの普通科出の生徒が弾くヴァイオリンの音だったりする。
本当に……。あいつはすごいよ。
普通科で音楽の世界に飛び込んで。
必死に音を追いかけて。それもただひたすら楽しそうに、笑いながら。
軽やかに次々と壁を乗り越えるあの生徒には、きっとまぶしいほどの明るい未来が待っているのだろう、と思えてくる。
いや、信じたくなってくる。
── 俺がその栄光を叶えてやれるなら、なんでもしてやりたいほどに、な。
柚木はくすりと笑うと、いつもの余裕たっぷりの様子に戻った。
「へぇ。……誰が先生を変えたんでしょうね」
ってなんだ? なーんか、青臭いこと言ったせいで、俺、柚木にアドバンテージ取られてるのか?
俺は悔しまぎれに、あっさりと同じ質問を切り返してやった。
「さあな。って誰が、お前さんの進路を変えたんだろうな」
普通科から参加した、生徒。
たどたどしいまでの音はどこか頼りなく、覚束ない指使いはこちらがハラハラさせられる。
けれど、また、聴きたい。何度でも浸りたい、と思うのは俺だけじゃない。
柚木も含めて、周囲みんなの思いだっただろう。
「さあ、誰でしょう?」
俺は、柚木の目の中に日野のヴァイオリンの跡を探そうと じっと鳶色の目を見据えてみたが、柚木は話す気がないのか、俺からさりげなく視線を外した。
ま、こいつも相当の頑固者だな。
ってか、今回のコンサートに出てきたヤツらって、みんなどこかクセがある。
月森も土浦も、そして、ちょっとタイプは違うが、志水も。
あいつら、相当の頑固者だと俺は見ている。
やれやれ。一般社会で通用しそうなのんきなヤツらは、オケ部の火原と王崎くらいか?
「ま、お互い言わぬが花、ってところか? じゃ、俺行くわ。……ああ、そうだ」
「はい?」
俺は歩き出した脚を止めて振り返る。
目の前には、不思議そうに首をかしげてる優秀な生徒がいる。
ったく。
── いつも強がっているお前さんへ。
こんな俺でも、俺は一応教師で、お前さんは生徒だ。
俺の人生は半分くらい終わってしまって、あとは、今までの残存記憶に従って動いているだけだけど。
お前さんたちには、まだ若さも、そして時間も、ある。可能性だって、あるんだ。
失敗してもやり直せる。
だから。だから、さ……。
── いろんなこと、諦める前に、手を伸ばせよ?
幸福の女神サマは足が速いんだ。
ドレスの先っぽでも掴んでおかないことには、あっという間に逃げられちまうぜ?
俺は柚木の姿を、まぶしいモノでも見るかのように目を細めて見つめる。
柚木がまぶしいのか、若さがまぶしいのか。
それとも普通科の生徒に対する一途な想いがまぶしいのかは分からない。
けれど、願いを込めて、伝える。
やっぱさ、ほら、あれだ。……その、なんだ?
好きなことを諦める。
── なんていう、俺みたいな後悔を、お前さんにはしてほしくないから。
「……柚木。コンクール頑張れよ。
お前さんの未来はやっぱり明るいよ。いろーんな意味で、さ」