電話口の声は、やや緊張した固いトーンで言葉を紡ぐ。
 こんなとき、あいつはどんな表情を浮かべているのだろう、と想像するのさえ楽しくて、俺は耳に携帯を押し当てた。

「そうだ、柚木先輩。明日の午後から、少し時間、取れますか?」
「基本的に、明日から学校が始まるという日に、予定は入れないことにしているけど。なに?」
「夏休み中に、月森くんから松脂を紹介してもらったんです。
 すごく使いやすいから、自分用のを1つ買おうと思って」
*...*...* Shopping *...*...*
 多くの人が行き交う街中で、壁を背にして本を読む。
 時折り吹く風は、夏が始まる前とは違う、どこか涼しやかな空気を運んでくる。
 視界に白いスカートが横切るのが見えて顔を上げると、そこには香穂子が弾むように走ってくるところだった。

「柚木先輩、こんにちは! えへへ。今日は、約束の5分前に到着、です」
「……面白くないね」
「は、はい?」
「お前をイジめる理由が、1つ減ったから」
「あはは……。そういう意味、ですか」

 俺の口調に、香穂子はにこにこと笑い返すと、懐かしそうに俺の目を覗き込んだ。

 夏休みが始まる前、校舎が遠いという物理的な距離を疎ましく思っていたけれど。
 今考えてみれば、休日に会うことの方が、より大変なのだということに気付く。
 元々、俺の家が、学院からも、香穂子の家からも、そして繁華街からもやや離れている場所にあるからだ。

「えっと、今日はありがとうございます。楽器店はこっちですよ。行きましょう?」

 今日の空を切り取ったような、薄水色のカットソーを身に付けた香穂子は、嬉しそうに行き先を指さすと、俺の隣りに並んだ。
 夏を経て、秋になる直前、雑踏を行く人間はみな陽に当たって、褐色に染まる。
 そんな中 香穂子の顔は、たった今 冬が終わったかのような、臈長けた白い色をしている。

「それにしても、こんな暑い昼間に、暑苦しい人混みの中に出てくるなんて、お前も物好きだな」

 口ではそう香穂子をからかいながらも、その言葉をそっくり自身にぶつけてみて、俺は苦笑した。
 ── そんな香穂子に付き合っている 自分もよっぽどの物好きだ、ともう1人の自分がつぶやいている。

 嬉しさを、押し隠すために、ウソをつく。
 自分のため? それとも香穂子への牽制? 牽制が事実なら、それはなんのためなのだろう。

 素直になりきれない性格が、少しだけ疎ましくなる。
 こういうとき 俺の3年来の親友なら、気負うことなく香穂子に笑顔を向けるに違いない。

 案の定、香穂子は口を尖らせて笑っている。

「い、いいんです!
 あ、あのね、昨日、柚木先輩と会える、ってわかってから、私、必死で宿題、片付けましたもん」
「ってことはなに? お前、8月の終わりまで、宿題、溜め込んでいたの?」

 ちらりと横目で香穂子の様子をうかがうと、分が悪い、と思ったのか、香穂子はあわてた口調で尋ねてきた。

「え、えーっと……。そうだ、柚木先輩は、宿題は? もう終わりました?」
「3年も音楽科にいれば、夏休み前に、大体の傾向と対策は掴める。
 俺は夏休み前の済ませておいたよ」
「な、夏休み前、ですか? じゃあ、夏休み中はなにを……?」
「まあ、いろいろとね」

 昨晩夕食を終えたとき、母と話していた祖母の声を思い出す。

『柚木の家の人間として、芸事を極めることは、悪いことではございません。
 でも、まあ、梓馬さんも遠回りしたものですよ。
 学校のセレクションのメンバーに選ばれたとお聞きしたときは、正直、賛同しかねたのです。
 面倒なことが終わって、これでやっと、普通の受験生らしく学業に励んでいただけるものと思いますよ。
 まあ、梓馬さんの実力なら、どの大学でも、十分合格圏内だろうと思いますけど』

 父をはじめ、長兄次兄のフォローを過不足なく行い、宗家を盛り立てる。それが俺に科せられた仕事。
 それ以外は、すべて、無なのだ。

 音楽だとか、恋愛だとか。
 俺が今、香穂子に感じる気持ちすべては、祖母に取っては不要な存在なのだろう。

 少し前を歩く香穂子のつむじを見つめながらぼんやりと考える。
 香穂子と出会う前の俺と、出会ってからの俺。
 振り返ってみれば、たかだが3ヶ月くらいのことなのに。
 ── 俺の世界は大きく変わった。

 1度でも抱けば、鬱陶しいほどの執着心を消せるかと思ったが、そうではなかった。
 どんなときでも、近くに置いておきたい。
 そう。こいつのヴァイオリンが絶えず聴こえる場所に、俺が、いたいと思う。

 香穂子は、ふとショーウィンドウに顔を向けると、大きく目を見開いた。

「わ、可愛い……」
「なに?」
「あのコサージュです」

 香穂子は段差のあるショーウィンドウに駆け寄っていくと、目を輝かせて中を覗き込んだ。

「お前、足元、気をつけろよ?」
「はい……」

 上の空の返事をする香穂子の視線を追う。
 見るとショーウィンドウの中は、すでに秋色の服が並んでいた。
 枯れ葉をあしらった背景に、栗色のハイヒール、それに、革製のコサージュが飾られている。
 ちょっと背伸びしたような大人っぽいデザインに、俺は新たな香穂子の一面を見たような気がした。

 さりげなく視線を足下に投げてみる。
 学院に向かうときは、学校指定の革靴。
 だが、今香穂子の足は華奢な白いサンダルが、こっちを見返している。

 真っ白な足の甲の上に浮かぶ細い静脈は、不思議な艶っぽさがあった。

 細い、蒼い、筋。

 これは、確か……。
 香穂子を何度も突き上げ、切なげな声を上げる瞬間に、首に浮かぶ色と同じだ。

「へぇ。お前、こういうのが好きなの?」
「あ、はい。アクセサリー、好きですね。服につけたりカバンにつけたりするだけで、イメージが変わるんですよ?」
「ふぅん」
「とは言っても、いつもお小遣いと相談ですけど」

 香穂子はうっとりとショーウィンドウを見つめ続けると、ため息をついた。

「お姉ちゃんが羨ましい……。社会人になると、自由になるお小遣い、って増えるでしょう?
 色違いで全部買っちゃった、なんて聞くと、いいなー、って思います」

 香穂子は俺の内心に気付くことなく、無邪気に笑ってる。

 抱いた、と、いっても、たかだか数回。
 さすがに痛みを訴えることは少なくなったものの、俺と同等の快感を得られてるかと問われれば、肯定はできない。

 俺のすぐ手の届くところにいながら、香穂子が他のモノに夢中になっているサマを見るのは、
 香穂子よりも俺の方がずっと、香穂子に執着している事実を突きつけられているようで、面白くない。

 俺は背後からそっと近づくと、耳元にささやいた。

「……少し、いじめてやろうかな」
「はい? なんですか? ……っわ!」

 数センチの段差に気付かず、香穂子は背中からそのまま俺の胸に飛び込んできた。

「おっと。ほら、だから足元に気をつけてって言ったでしょう? お前は本当に目が離せないね」
「ご、ごめんなさい。段差のこと、すっかり忘れてました」

 ひんやりとした二の腕に指をかける。
 瑞々しいまでに滑らかな部位。優しくフルートのように扱わなければ、あっという間に朱い跡が残りそうだ。

「あ、あの……? 柚木先輩?」
「ん? ああ。……いつまで抱いているのかって?」

 困惑したような、不安げな表情を浮かべている香穂子を、もっと虐めたくなって、俺は香穂子の肩に顔を乗せた。



「そうだな。……ねえ、もしこのまま、お前を離さないって言ったら……。お前、どうする?」
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