ぷるり、と、グロスをつけた唇が、夏の日差しの下 艶めいている。
 瞳は怒ったように私のことを睨みつけているのに。……不思議だ。
 唇だけは楽しいフレーズを奏でるかのように、何度も開いたり閉じたりを繰り返している。
 きっと今、目の前の彼女が背中を向けた瞬間、私の中の彼女の印象というのは、踊るように動く唇だけになるだろう。

「彼はね。誰にでも優しいの。あなただけに優しい、ってワケじゃないのよ?
 もし、彼のことを本気で好きになったのなら、あなたも、ある程度、気合いを入れないと」
「はい……」

 自分では、うすうすわかっている事実。だけど、認めるのがコワくて、目をそらしている事実。
 それをあっさり口にできる人間は、それだけで、圧倒的な優位に立てる。そんな気がする。

 高校生の私にはない艶めいた唇は、鼻先で 勝ち誇ったように大きな裂け目を作って見せた。

「あら? 不満? あたしはただ、あなたに親切心で言ってあげたのよ。
 納得いかないっていうなら、あなたから直接 王崎君に聞けばいい」
*...*...* Rumor *...*...*
 照りつける日差しの中、公園の先端にある噴水が勢いよく水を噴き上げた。

「あ! ……っと。な、なに、ぼんやりしてるんだろ、私……」

 飛沫が、太陽を含んで七色に光る。
 ヴァイオリンにかかったら取り返しがつかない! と、私は手にしていたヴァイオリンと弦を抱きかかえると、2、3歩後ずさる。
 右腕につけた腕時計はきっかりと10時を示していた。

『この日はボランティアの用もないんだ。よかったら、香穂ちゃんの練習、みてあげるよ。
 時間はそうだな……。お昼前の11時くらいはどう?』
『はい! 喜んで!』

 昨日の約束を思い出す。

 平日は3回しか会えない人。
 火原先輩経由で、その日はオケ部の指導に来ていると知った。
 だからかな。1週間のうち、月、水、金だけは私、日焼けもなにも気にしないで、まっすぐに正門前に向かう。
 ── 王崎先輩と、一言でもいい。お話できたらいいな。
 なんて、人には言えないような理由で。

『まったく……。お前は、バカみたいにわかりやすいな』
『は、はい?』
『音も然り、態度も然りだ。単純すぎて笑えるぜ』

 暑いのも、日焼けも、まったくもってノーサンキューといった雰囲気の柚木先輩は、どういうわけか、私が正門に行くと、よく顔を合わせる。
 昨日、彼の横を会釈して通り過ぎたとき、凄みを増した目でからかわれたけど、そ、そんなこと、気にしないんだもん。

「よーし。あと1時間、この曲を全部、おさらいしよう!」

 セレクションの間、ずっと、同じ弦の先輩として、また、前回のコンクール経験者として、王崎先輩はいろいろなことを私に教えてくれた。
 最初は、誰にも公平に優しく接する態度が、素敵だと思った。

 それが……。

 知らないウチにワガママになっていた自分を、最近は少しだけ持て余してる

 私にだけに、いろいろなことを教えてほしい。
 私にだけに笑ってほしい。……そして、そして。
 心がどんどん固くなっていくのが、わかる。

 独占欲? なのかな? ……わからない。
 だけど、こんな女の子のこと、王崎先輩は、なんて思うだろう。

 リリの頑張りもあったから、だけど。
 それ以上に。── いつも、どんなときも、王崎先輩が優しく私をフォローしてくれた、から。
 私は、第3セレクションが終了した今、総合順位は2番目に位置していた。
 全セレクションすべて1位を取っている月森くんは、先週、私の練習を聴いて、いぶかしげに首を振ったっけ。

『── やっと、わかった』
『え? えーっと、わかった、って、なにが?』
『どこかで聴いたことがある音だと思ったんだ。
 最初はなかなか思い出せなかったんだが、似てきたから、だろう。今ははっきりとわかる』
『月森くん……』
『わからないだろうか? 君の音色は王崎先輩のそれと似ている』

 ヴァイオリンを肩に載せるたび、いつも心の中に浮かんでくる人の名前を、はっきりと告げられた。
 恥ずかしかったのは事実だけど、朱くなった頬は、私に誇らしい想いまで連れてきたっけ。

(私は、あの人が好きなんだ)

 って。

 同じ楽器だったから なおさら、似てる、って言われれば嬉しかった。
 音色だけじゃなく、弓の引き方から、本体を構えるときの角度も知らないうちに、彼が私のお手本になっていた、から。

 ふいに、さっきの女の人の口元が浮かんでくる。

『彼はね。あなただけに優しい、ってワケじゃないのよ?』

「わ、わかってるもん! そんなこと……」

 言われなくても。わかってる。知ってるんだから。
 私はさっきの彼女の残像を追い払うかのように、空に向かって弓を揺らした。

 まだ、最終セレまでには日がある。
 参加者のみんなも、今、必死に曲想を練ってるところだよね。
 私も早く、選曲して。それで、その曲に自分の想いを乗せなくちゃ……。
 って、あれ? バカバカ、私。金澤先生がくれた、最終セレのキーワード、なんだったっけ??

「香穂ちゃん。こんにちは」
「ひゃ!! あ、王崎先輩!?」
「ん? どうしたの? さっきから空に向かって弓を振って。松ヤニ、つけ過ぎちゃったとか?」
「え? あ、あの! これは、体操、というか、ちょっと……っ」
「ああ。練習のしすぎで疲れたんじゃない?」

 予定よりも少し早めにやってきた王崎先輩は心配そうに私の顔を見つめると、そっと背中に手を添えて、近くのベンチへと座らせてくれた。
 その動作はとても落ち着いていて、慣れていて。
 ── 私が、さっき、ちくりと投げられた言葉を思い出すのに十分で。

(私も、王崎先輩にとって、たくさんいる人のうちの1人、なのかな……)

 そんな内心に気づくことなく、王崎先輩は、肩にかけていたカバンを私の横に置いた。

「よし。じゃあ、今日はおれが先に演奏するよ。香穂ちゃんは聴いていて?」
「え? いいんですか?」

 そして、子どもの頃からそうしてるんだよ? というような物慣れた手つきでヴァイオリンケースを開け、ヴァイオリン本体と弦を取り出した。

 いつもは私が演奏して、その後に、王崎先輩が、私の解釈で理解できなかったところを演奏してくれる。
 練習はそのパターンの繰り返しだったのに。……えっと、今日は、王崎先輩が、先?
 不思議に思って王崎先輩の動作を見守っていると、メガネの奥からきらりと優しい目が光った。

「香穂ちゃんのための模範演奏? なーんてね。でもね。なんていうんだろう……」
「はい……」
「今までのおれは、人が喜んでくれるから、っていうたった1つの理由で、ヴァイオリンを奏でていたんだ。
 ……だけど、香穂ちゃんは違う」
「えっと……、どう違うんでしょう??」

 今までの自分の態度を振り返る。
 あ、もしかして、私の態度って、『喜んでいる』っていう風に見えなかった、の、かな。

 王崎先輩が演奏したあとの拍手が足りなかったかな?
 えっと……。『ブラボー!』とか、もっと大きな声を出せばよかったのかな。

 拍手なら、もう少しボリュームを上げることができそう。
 だけど、あの、声援は……。何度聞いても、恥ずかしさが先に立っちゃう。自分からは言えそうにないよ……。どうしよう。

 王崎先輩は、苦笑を交えて、ぽん、と私の頭を撫でた。

「香穂ちゃんの態度のことじゃないよ。おれの心構えの問題?
 香穂ちゃんを見ていると、『喜んでくれるから、ヴァイオリンを弾こう』っていうおれの気持ちが揺れるんだ。
 ── 勝手に、弓が弦をすべっていく感じがする」
「王崎先輩……」
「ははっ。芸術に言葉は要らない、っていうのにね。じゃあ、始めるよ」

 そういうと、王崎先輩は軽く脚を広げ、ゆっくりと弓を引き出した。

 柔らかなシチリアーノの旋律が、水色の空の中に吸い込まれていくようで、私は背中の後ろの地平線を眺めた。
 空と海が重なり合う、細い細い隙間にある、白い線。そこまで、王崎先輩の音は届いているみたい。

 少し早めの昼食を取り出した人たちが、王崎先輩の近くで足を止める。
 微笑もうとしなくても、ふと笑みがこぼれてしまう愛らしい曲に、カップルたちは幸せそうに目で何か話をしている。

「……ありがとうございました。素敵です」

 メロディが完全に消え去ったあと、私は、喜んでいる気持ちを伝えたくて、いつもより少し大きめの拍手をする。
 だけど、やっぱり恥ずかしくて、それはいつもより少なめの回数で終わった。
 どうしよう……。こ、これじゃ、差し引き、今までと変わらない、ってことなのかな。

「シチリアーノは、パラディスの名曲、と伝えられているけど、真偽は明らかじゃないんだ」
「明らかじゃ、ない……?」
「つまりね、パラディスじゃない別人が作ったかもしれない、っていうこと。
 だけどね、美しいメロディであることには変わりがないよね。
 おれは、盲目のパラディスが、音楽という天職に巡り会えたことだけで素晴らしいと思ってる」
「はい」
「── そして、そんな彼女の音楽に浸れる自分も、ね?」

 そう言って、王崎先輩は最初のフレーズを、今度は軽やかに演奏すると、ほぅ、と深く息をついた。

「でもね。ときどき、思うんだ。
 ……もう、これ以上、おれはきみの前でヴァイオリンを奏でられない、って」
「え? あ、あの。どうして?」

 王崎先輩は、なにか言いたげに口を開くと、言葉が見つけられなかったのか、下唇をかみしめた。
 微笑みの中に、かすかに翳りが走ったように見える。……どうして?

「── もっと、もっと、って。きみに押しつけたくなる。
 きみの音楽は、きみだけにしか作れないものなのに。
 わかってて、おれは、きみにおれの色を押しつけているんだ」

 悪い男でしょう?
 王崎先輩は茶目っ気たっぷりに笑うと、肩からヴァイオリンを降ろした。

 ことり、と胸の奥から痛みが生まれる。
 王崎先輩の理想の音。それを押しつけてもらえない私は、やっぱり。
 ── 王崎先輩が優しくする、数ある人の一人、なのかな……。


「……押しつけて、ほしいです」
「香穂ちゃん?」
「王崎先輩は、優しいから……」

 ぽたりと、熱い固まりが、ヴァイオリンの上に落ちていく。
 弦が濡れたら困る、と、私は慌ててあごに当てていたハンカチで拭き取った。

「近づくのが、こわいです。先輩は、誰にでも優しいから。
 だから、私への親切も、全然好意なんてなくて。
 ただ、ヴァイオリンをやっている後輩を放っておけなくて、だから……」

 王崎先輩は、黙って私の横に座った。
 そして、あやすようにゆっくりと私の背を撫でていく。
 穏やかな優しい手つきに、不思議と私の気持ちも王崎先輩のヴァイオリンを聴いたときのように凪いでいく。

 王崎先輩は、シチリアーノの旋律を探すかのように、空の向こうに目をあてた。

「いろんな人から言われたよ。王崎は面倒見が良すぎる、ってね」
「はい……」
「おれね、年の離れた弟が2人いるんだよ。
 ずっと兄弟が欲しい、って思ってたから、おれ、弟が生まれたときは本当に嬉しくて。
 自分の都合、とかより、弟の喜ぶ顔が見たくて。ついついおれ自身のことは後回しになっちゃったんだ」

 私は何度も頷いた。

 簡単に想像できる。
 今の王崎先輩、そのままが、ちょっとだけ、小さくなって。その周りに、もっと小さな男の子がまとわりついている。
 王崎先輩は、やんちゃをいう弟くんが可愛くて仕方ない、って様子で笑ってるんだろう。
 きっと、目の前の表情、そのままに。

「おれにとってきみがどんな存在なのか、考えてみたことがあるんだ。
 きみが、おれが出会った人たちと同じ存在なら、おれは、おれの音色をきみに押しつけていたかもしれない。
 いや、そもそも『押しつける』なんて意識もなかったかもね」

 ちかり、と、キレイな瞳が、鋭さを増す。

「だけど、おれはきみの音楽を大切にしたい。きみ自身を大切にしているから……」

 王崎先輩と私の間には、2つのヴァイオリンが仲良く並んでいる。
 色も、そして、形も微妙に違うこの子たちは、なぜだかとても居心地が良さそうで可愛い。


 きょとん、としている私の表情を察したのか、王崎先輩は私の肩に乗せた手をするりと二の腕に滑らせて笑った。



「続きの言葉は、最終セレが終わるまで取っておくことにするよ」