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*...*...* Peace *...*...*
「だから何度も申し上げているように、リストラではないと言っているでしょう!」
 
 日頃、声を荒げる年配者をああはなりたくないものだと内心軽蔑していたというのに、私自身そのような声を上げていたことに戸惑いが隠せない。
 労使交渉。年明けから3週間、私は同じことばかり繰り返して説明している気がする。
 だが私の周りの副理事たちは、特段驚くこともなく微かに眉毛を上げただけで再び資料に目を落とした。
 
「とはいえ、ねえ。これは我々に対する体のいいリストラ計画としか理解できませんね」
「そうですとも。不景気の時代に入って数十年。吉羅理事長のおっしゃる、音楽学部の就職支援対策というのもわかりますが。逆にこういう時代だからこそ、この星奏学院大学部は『文化の継承』という位置づけで頑張るべきではないですか?」
「そうですとも。いや、須田さんもいいこといいますなあ」
 
 烏合の衆、とでもいうのか。一人が口火を切った瞬間、何も言い出せなかった輩たちが勝手なことを話し出す。カフスの奥の腕時計に目をやる。……まったく。13時から始まった大して内容のない会議が、どうして18時を過ぎても終わらないのだろう。
 
「まあまあ。なんと申しましても理事長はまだ若い。若さっていうのは理想を追い求めてばかりで現実を知らない。私はあなたがこの星奏学院の学生だった頃からこの立場にいますがね、なんと言っても……」
 
 この会議の実質上の長である最古参の天野さんまで、口元をかくかくさせながら周りの意見に流される。私はおもむろに立ち上がるとぽかんと口を開いている副理事たちを見下ろした。
 
「── これ以上、私を怒らせるのは止めていただきたい」
「吉羅理事長、天野副理事になんてことを」
「文化の継承。結構でしょう。芸術大学はかくあるべきです。ただ、大学運営のフェイズで考えた場合、生徒が一人入学してくることで得られる収入も確定します。少なければ減少します。ではどうあるべきか。入学する生徒数を増やす。これがセオリーです。増やすにはどうするか? それはこの大学に入学することで、ある一定以上の就職先を得ることが可能であるというブランドです。そのための就職支援活動にみなさんの尽力を割いていただきたいと考えているだけです。……ただ、賛同できない方にはこの地位を去っていただく」
「そこだよ、吉羅理事長。そこが私たちがリストラと豪語するゆえんだ!」
「簡単なことです。協力していだければなんの問題もないわけです」
 
 私は今日の午後何度も口に乗せた言葉を継げると、机の上に広がっていた3枚の書類をまとめ、ブリーフケースに仕舞い込んだ。
 
(……っ)
 
 寝不足が続いているからか、目の芯がズキリと朱い脈を打つ。自分がそれほど繊細な人間とは思っていなかったが、どうにも進捗がない会議を3週間続けることは、私の身体にとっては堪えられない事象だったらしい。夜中の3時、明け方の5時にこの副理事たちの顔が突然浮かんできて目が醒めることもしばしばだ。
 
 ── 彼女は今どこにいるだろうか。下校時間の18時はとうに過ぎている。彼女は、待ち合わせ場所にと指定した北門の影にいるだろうか。それとも私が30分以上遅れていることを気にして理事長室に顔を出しているだろうか。どちらにしてもこの寒い1月。彼女をこれ以上寒い場所で待たせるのは得策ではない。
 
「……今日はこれ以上の話し合いは時間の無駄と思われます。いったんクローズして、明日また仕切り直しましょう」
「しかしだね。吉羅理事長」
「1つはっきり申し上げましょう。リストラで済むうちはいいのです。学校も倒産する時代です。今できることをして危機を回避するか、それとも、私もみなさん共々に永遠にリストラの憂き目に合うか。みなさんのご賢慮を楽しみにしていますよ」
 
 私は淡々と事実を言い捨てると、そそくさとその場を後にする。18時50分。約束の時間からかれこれ1時間の遅刻だ。
 もしかして北門ではなく、理事長室にいるかもしれない。ふと思い立ち先に部屋を覗いたが、そこには人気もなく凍りついたような陰影が残っているだけだった。部屋というものはいつしか部屋の主に似てくるのだろうか。だとしたら彼女の部屋はどんな色を放っているのか。
 私は肩で息をつくと、2段飛ばしに階段を走り抜け、待ち合わせ場所の北門に向かう。彼女との約束がある日は、いつもの学院内の駐車場ではなく、学院から少し離れた駐車場に車を停めるようになったのは、彼女と付き合い始めてからの新しい習慣だ。……香穂子との関係が周囲に漏れるリスクを考えると、少しでも注意することに越したことはない。私の今のような不安定な状態では、副理事たちが知ったらなんと思うか。プライベートと仕事は切り分けるべきだという理論は年寄りたちには伝わらないだろう。
 
「香穂子、すまない。遅れた」
「……吉羅さん? よかった」
「よかった、とは?」
「私が時間を間違えたかと思いました。……会えて、よかったです」
「君は……」
 
 1月のどんよりとした空の下、彼女は白い顔を上げて恥ずかしそうに笑う。
 私は束の間彼女の顔に見入ると、その頬に手で覆った。
 ── おかしなものだ。
 今まで、他人が自分の領域に入ることをこんなに嫌悪していた私が、今は、自分からこの子の領域に入っている。それを心地良い、と思っている。
 
「会えてよかった、か。……少なくとも私はよくないな」
「え……?」
「こんなに冷え切って。駐車場まで少し急ごう」
 
 私はひんやりと冷たくなった頬を持ち上げてそのまま口づけると、早足で駐車場へと向かう。手も冷えているのだろうかと握りしめれば、ヴァイオリニストとしての意識が生まれてきているのか、淡い色の手袋で包まれている。
 
「私も悪いが、君ももう少し待ち合わせの場所を考えるといい。社会人は学生とは違って会議などで待ち合わせ時間に遅れる場合もある」
「はい……。今日は会議だったんですか? なんだか少し目が赤い気がします」
 
 車内の小さな灯りの中、香穂子は心配そうに私の顔を見上げている。
 
「まあ、学生の君にとってあまり縁のない話ばかりをしていることになる。旧勢力と戦うのは若干精神力を必要とするらしい」
 
 苦笑しながら車のエンジンをつけると、スピードメーターのオレンジ色が目に突き刺さるように痛い。私は目頭を強く指で摘んだ。なるほど、有る一定の睡眠を必要とする身体というのも存外不便なものだ。
 
「吉羅さん! 大丈夫ですか?」
「……いや。大したことはない。しばらくこのままでいてくれたまえ」
「そんな、放っておけないです。どうしよう……。私、なにをすればいいですか?」
 
 香穂子は息を詰めると、私の顔を見守っている。
 男の性と女の性は異なる。よくある話だ。だから過去にだって様々な諍いが起き、人は芸術という名に置き換えてその思いを昇華してきた。
 何度か抱いた女のことを、疎ましいと思うことはあっても、愛しいと思ったことはなかった私が、この子に対してはどうもおかしい。
 心配そうに見つめる目に、安堵感が沸いてくる。もっと私のことを見て欲しい。気に掛けて欲しい。かまって欲しい。
 私は彼女の手を取り上げると、手のひらに口づけた。
 
「放っておけない、か。……じゃあ、香穂子が私を慰めてくれるとでも?」
「……は、い」
 
 がんばります。声にならないような小さな声が彼女の唇から読み取れる。
 彼女は高3で。私はいい年をした社会人で。教師と生徒という間柄ではないにしろ、それによく似た関係で。経験値も違う。性差もある。そんな中、どうしてこれほどまでに私は惹かれるのか。愛おしいという想いが止まらないのか。
 再び私は香穂子の頬に手を当てるとさっきまでの冷たさはそこにはなく、ただただ白く、柔らかい弾力が返ってくる。
 不安そうに噛みしめた唇が痛々しくて、私はその部位を舌先で舐めた。
 
「吉羅、さん。あの……!」
「── 悪いが、少しだけ君の肩で眠らせてくれたまえ」  
*...*...*
 よほど疲れていたのだろう。吉羅さんはその言葉が終わるか終わらないかのうちに私の肩に頭を預けると静かな寝息を立て始めた。
 長い睫毛。整った鼻梁が、時折通り過ぎるヘッドライトに照らされては消えていく。
 普段よりずっと幼そうに見えるのは、いつもはきりっと一文字に結ばれている唇が柔らかく開いているからかもしれない。
 
(吉羅さんのこと、起こしませんように……)
 
 そう思いながら私は額にかかっている髪の毛を梳いて後ろへとやった。
 高3の冬。本当なら受験で忙しい時期なんだろうけれど、私は秋頃に星奏学院大学の内部進学が決まっていて、他の受験生ほどの忙しさはない。
 
『とかなんとか言っちゃって! おれだって去年は頑張ったんだよ〜。まあ、香穂ちゃんなら大丈夫だろうけど』
 
 火原先輩は去年の受験勉強がよほど大変だったのだろう。いまだに受験の話をすると苦しそうに眉を寄せる。
 
『まあ、君ならよほどのミスをしない限り大丈夫だとは思うがね。油断は禁物だから頑張ってくれたまえ』
 
 吉羅さんは二人きりで会ったあとは必ずそう言う。まるで吉羅さん自身が私の受験勉強の邪魔をしていると思っているみたいだ。
 
『次に吉羅さんに会えるのを楽しみにして、頑張ります』
 
 この前のクリスマスにずっと大切に思っていた人と親しくなった。この秘め事を誰にも話すつもりはないけれど、もし天羽ちゃんに話す機会があったら、彼女、すごく驚くんじゃないかな、って一人で苦笑することはあったりする。
 
『ああ。君の名は……、香穂子、だったね』
 
 なんて、どれだけ考えても初めて『そういうこと』をする男の人と女の人の会話じゃない、って思う。だけど、『そういうこと』になって以来、吉羅さんは二人きりのときは必ず私の名前を呼んでくれる。その優しい響きが好きで、まっすぐに見つめ返される表情が好きで、いつのまにか私はこの思い出を幸せな気持ちで思い返しているから不思議だ。
 私は肩を動かさないようにそっと腕を動かすと、手にしていたコートを吉羅さんの身体にかけた。
 
「んー。どうしようかな……」
 
 身体の自由が利かないなら、と私の頭は今日学院であったことをぼんやりと考え続ける。1月に入ってからというもの、学校の授業はほとんど自由学習、という名の自習に取って代わられていて、私は今日の大半を図書館で『ロベルト・シューマン』について調べていた。
 元々、高2のコンクールで知った『3つのロマンス第二番』の旋律が好きだった。吉羅さんとこの曲について話したことは一度もないのに、吉羅さんと一緒の時間を過ごすたびに、この曲が浮かんでくる。その理由が知りたかった。理由なんて伝記に載ってるはずないのに、調べたいって思った。
 10年の恋愛期間を過ごして夫婦になったロベルト・シューマンとクララ・シューマン。脆い精神を持っていたロベルトは、最期には弟子ブラームスと妻クララの疑いながら狂死する。どの伝記小説も、ロベルトは弱く、不幸で、クララは強く、不幸を跳ね返して生きた女性。そう結論づける。
 だけど私は、ロベルトを『不幸』の一言だけで表現するのは失礼なんじゃないかな、って思う。
 
「綺麗な旋律だよね……」
 
 私は小さな声でメロディを口ずさむと、眠っている吉羅さんを見つめた。
 3つのロマンス第二番の旋律は、ただただ優しいだけじゃない。主旋律を追う伴奏は、すべてを包み込むような暖かみに満ちている。
 ピアノとオーボエのコントラストが美しくて、それはあたかも、クララの事実すべてを受け止めて、それを許しているロベルトの姿にも重なる。
 
(愛するってどんな感じなんだろう)
 
 食べる力も失ったシューマンが最期に口にしたものはクララのワインで湿った指だった。
 初めて人を好きになった私が、そんなフレーズを理解できるようになるのは、一体いつなのかな。
 
(……疲れた顔してる)
 
 私はもう一度吉羅さんの髪を梳くと、耳の後ろにと流す。
 ときどき、とても明るくて、本当にときどき、声を掛けるのも憚られるくらい暗く沈んで。このいろいろな面を見せてくれるこの人に、私はなにができるのかな。
 
 車の窓から見えていたシリウスが大きな弧を描いて、南の空へ向かう。
 星って、1時間に15度くらい動くんだっけ、とぼんやりそんなことを考えていると、肩の上で眠っていた吉羅さんがぽっかりと目を開けた。
 
「おはようございます、なのかな? よく眠ってましたよ?」
「……夢を見ていた」
「……聞きたいです。どんな夢だったんですか?」
 
 吉羅さんはだるくないか? と私の肩から腕をさすり、最後に手を握りしめる。吉羅さんの手を合わせると大きさの違いにいつも驚く。自分がとんでもなく小さな女の子になった気がする。
 まだ眠りから完全に目覚めてないのか、吉羅さんはいつものきびきびとした口調とは違う、ほどけたような声で話し始めた。
 
「幼い頃の話だ。私と、姉と、母の3人でヴァイオリンを弾いていた。小さい頃の1年というのは差が大きいのだろう。私はどうしても姉の弾く旋律が弾けなかった」
 
 吉羅さんの指は何度も私の左手の人差し指を行き来する。そして固くなっている部位を見つけると、熱い舌を這わした。
 
「……や、それは……っ」
「君は敏感だな。……まだ私が見つけていない場所があったとはね」
「あ、あの、夢のお話、続きが聞きたいです」
 
 からかう言葉に勝手に緊張しながら、私は続きをねだった。吉羅さんがこんな風に昔話をしてくれるのってそんなにない。それに、なによりも懐かしさで縁取られた声の裏に、寂しさのような固まりがある。吉羅さんは、車のフロントガラスの向こうに二人がいるような優しい顔をして話を続けた。
 
「母は、弾けない音は飛ばしなさい、と言った。姉は、私が和音を増やすから気にしないでと言った。私はどうしたと思う?」
「どう、だろう……。子どものころの吉羅さんは負けず嫌いだったと思うから、えっと答えは『旋律が弾けるようになるまで練習した』かな?」
 
 私の答えに吉羅さんは低い声で笑う。
 
「ご名答、と言いたいところだが違う。私は姉のいう和音を増やすところまで練習した。子どもらしい可愛げのない私に、母は呆れ、姉は笑っていたがね」
 
 今、私の目の前にいる人は、泣いているわけじゃない。声も、泣いているわけじゃない。よく見れば、目元にはいつものクールな笑みが広がっている。
 
「3人で音楽を奏でることが永遠だと思っていたよ、あの頃は。やがて母が死にゆくのはわかっていたが、まだ永遠ともいえる時間の先の事象だと思っていた。……今は、3人のうち3人ともが音楽から隔たったところに来てしまった」
 
 それなのに心に繋がる目の奥は、いくつもの哀しみで溢れかえっているようにも見えて、私の目は気づかないうちに熱くなってくる。
 
「……なにも君が泣くことはないだろうに」
「す、すみません。止まらなくて……」
「では、泣き止むまでこうしていよう」
 
 吉羅さんは私を抱きかかえると髪の中に鼻をうずめた。筋張った手が、首を撫で、肩を通り、背骨をゆっくりと落ちていく。尾てい骨まで届いた男の人の手が再び背中を這い、肩甲骨を撫でていく。
 
「あ……っ」
 
 大げさなくらい肩が動く。吉羅さんはどうした? と言いたげに私の顔を覗き込んだ。
 
「や、これは、ちが……っ」
「おや? 私はなにも聞いてはいないんだが」
「あ、あの、私……」
 
 意味を為さない言葉の山に、吉羅さんは私の額に自分のそれを押し当てて嬉しそうに眼を細めた。
 
「こんな状態の君を抱かないまま家に帰すとは、私もつくづくよくできた社会人だと思うよ」
 
 少し眠ったのがよかったのかな。今日最初に会ったときと比べると、吉羅さんはすっきりと伸びやかな表情を浮かべている。
 
 ── 吉羅さんは、笑っていた方がいい。笑って、私をからかって、また笑って。
 そうだ。私が吉羅さんの近くにいる意味。人を好きになるということ。それは、ヴァイオリンを奏でながら、こうして吉羅さんに笑ってくれることにあるのかな。この人の、笑った顔をずっと見ていたい。……そばに、いたい。
 吉羅さんは雫を吸い取るように私の目尻を舐めていく。
 
「く、くすぐったい、です」
「君の身体はいい香りがする。私が贈った香水とはまた違う香りだ」
「違う……?」
 
 不思議に思って首を傾げる。香水とは違う香り、って、それってつまり私自身、の匂い、ってことかな。そんな匂いがするなんて、いつも一緒にいる須弥ちゃんや乃亜ちゃんからも聞いたことがない。どうしよう。……匂いって自分じゃ止められない。でも『いい香り』っていうのは、褒めてくれてる、ってことなのかな。
 吉羅さんは私の髪の毛をかき上げると耳に挟む。そして出てきた耳朶を甘噛みすると、深く息を吸い込んだ。
 
「……君の香りと子守歌のおかげでよく眠れた。また今度もお願いすることとしよう」
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