*...*...* Trees 4 *...*...*
外からの日差しを頼りに、手元だけ灯していた明かりは、だんだん部屋の暗さに圧迫されて小さくなる。握りしめていた華奢な手は俺の手から逃れようと、微かに動く。
俺は、さらに力を入れてその手を握り返した。
「── ああ。その話?」
「はい」
「話して欲しいの?」
「……はい」
香穂子は、宣告を聞く患者のように息を潜めている。
再受験の一件は、俺の中では既に結論の出ている話で。
その分だけの余裕が、俺に香穂子を観察する時間を与えたりする。
香穂子には悪いが、自分の好きな女の子がこうして自分のことであれこれ悩んでいる様子は、見ていて飽きない。
── 逆に。
もっと、虐めて。もっと泣かせてみたくなってくる。……そう、身体、でね。
俺はおもむろに口を開いた。
「もう一度、法律か経済の学部を受験をしろ、と。祖母が勝手に学院に電話したんだよ。
卒業証明書を発行するようにね。それを止める手続きをしてきただけ。
こんなつまらないことを、わざわざお前に話すまでもないだろう」
「そう、だったんですか……」
「この俺が、わざわざ再受験なんて面倒なことをすると思う?
お前が音楽の道へ進むことを心待ちにしている俺が、だぜ?」
頑なに握られていた指は、表情が緩むとともに、いつもの柔らかいものになった。
話を聞き終えるまで、泣くまい、と決めていたのだろう。
鍵盤の一点を見つめていた瞳から滑らかな頬へと、雫が何個もこぼれ落ちていく。
「だったら……。だったら、お話してくれればよかったのに……。私、すごく気にして、心配して……」
俺は、諭すように声音を落とした。
「お前に話さなかったのは、俺が話す必要がないと判断したからだよ。
この世の中に不要な情報は多い。余計な情報に気を取られるほど、俺たちの時間は長くないだろう?」
「はい……」
俺は、さっきの覇気のない音の原因を知る。
こいつなりに、自分の進路に俺がいないことを心配してた、ってことか。
── ふうん。なるほどね。
「なにお前。それでさっきから しおれてたの?」
「も、もう! 知りません!!」
「……へぇ。なかなか可愛いところあるじゃないか」
俺は、香穂子の手を引っ張ると、腕の中に抱き寄せた。
「全くお前はバカだね。そんなことを気にしていたの?」
「はい……」
一瞬だけでも、香穂子の受験がどうなるのかと物思いをした自分が腹立たしくなる。
って、原因は俺が作っているのに、俺も勝手なものだけど、な。
すっかり暗くなった窓の外には、真っ白な景色が広がっている。
── 香穂子と付き合いだしてから2回目のクリスマスがやってくる。
俺は香穂子の額に唇を落としながら告げた。
「やれやれ。── せっかくだから自分の思ってること、洗いざらい言ってごらん。聞いてあげるよ、クリスマスだし」
「……先輩の考えなし……」
「それから?」
「意地悪。強引。わがまま」
「それから?」
「気取り屋。二重人格。いじめっ子」
さすがに、とめどなく続く、あまり聞いていて愉快にならない言葉たちを受けて、俺は呆れて形の良い鼻をつまんだ。
「な、なにするんですか。最後まで聞いてください」
「まだ、あるの?」
香穂子は悔しそうに唇を噛みしめている。
その姿は、まるで、欲しいおもちゃが手に入らなくて地団駄を踏んでいる子どものようだ。
「……でも。でもね、好きなんです。くやしいくらい」
涙目で必死に睨んでくる様子に、俺は声を立てて笑った。
「な、なんで笑うんですかーー」
「いや。可笑しかったから。でも、これはまた思わぬところで、愛の言葉が聞けたものだね」
「仕方がないです。本当のことだから」
香穂子は言いたいことが言えてほっとしたのか、いつもの優しい笑顔になると、息をついた。
「── 良かった。また、柚木先輩と一緒にいられる」
そうつぶやくと、自分の告げた言葉が恥ずかしかったのか、そっと俺の胸に頭を預けると、背中に手を回してくる。
その手つきは、達したあとの、俺に頼り切っているときの仕草にも似て。
俺は香穂子の髪の香りを味わいながら、下腹部が熱くなるのを感じていた。
……ったく。
こいつは、まるで無意識でやってるんだろうから、余計タチが悪い。
「続きは今夜。ちゃんと可愛がってやるから。── 安心してろ」
背中から腰のラインを撫でながら、小声で耳元にそう注ぎ込むと、また少しだけ香穂子の体温が上がったような気がした。
「……ねえ、香穂子?」
「はい?」
「この学院で過ごした日々を、俺はとても愛していたよ」
「ん……」
「火原や、お前に会えた。音楽に会えた。
いや、音楽を媒介としていろんな人間に会うことができた。
とりわけ高3の春のコンクール、秋のアンサンブルは俺にとって忘れることができない いい思い出だよ。
そういった点において、俺は月森や土浦のような他のアンサンブルメンバーに会えたことも感謝するべきだろうね。
特に、あいつ……。加地に、ね」
「加地くんに?」
俺は一息つくと、話を続けた。
「ああ。あいつの言ったことは間違いではなかった。
変わるモノなど何もないと信じて疑ってなかった俺が、全てのものは動き続け、とどまることを知らないのだという真理を……。
あっけなく壊れていくという真理を知ったのは収穫だったね」
香穂子は、何度も頷きながら、嬉しそうな顔で俺を見上げてくる。
加地と俺が本気で言い争いをした日。
血相を変えて俺を追いかけてきた香穂子は、ただ何も言わずに俺のそばに寄り添っていた。
けれどずっと気に病んでいたのだろう。
1年前の加地の話題に、楽しそうに相槌を打った。
「はい……。あの、今もね、たまに加地くんにカフェテリアで会うんです。
会うと、去年のアンサンブルの話になります……。柚木先輩は、たいした人だった、って」
「おや? そう」
ふぅん……。
さっきの図書館での志水といい、加地といい。
香穂子のまわりには、やっぱり香穂子を気にかける人間がいるわけで。
そして、高校と大学、という生活する入れ物が違う俺と香穂子は、どうしても一緒にいられない時間が増えるわけで。
そうとはわかっているが、直接見るとやはり複雑な気持ちが浮かんできたりする。
……けど、まあ。この状態ももうあと3ヶ月、ってことか。
俺は抱きかかえていた身体をそっと解放すると、赤味を帯びた髪の毛をかきあげた。
香穂子は幸せそうな顔をして笑っている。
── そう。この顔を。この1年。
ずっと見飽きることなく見つめてきた。そばに置いてきた。
……お前は知らないだろうけど。
自分自身の願いなんて何一つ持たなかった俺が、今では密かに願っていたりするんだぜ。
── お前がこれからもずっと、俺のそばにいてくれるように、ってね。
「さ、おいで。夜はこれからだ。今夜はたっぷりお前のお守りをしてやるつもりできたんだから」
俺は懐中時計で時刻を確かめると、香穂子の背を押して正門へ向かった。
「私、これでも一応受験生なんですよ?」
香穂子は茶目っ気たっぷりの表情を浮かべて俺を見上げてくる。
「1日勉強しなかったから、って受からないお前じゃないだろ?」
「う、そうきましたか……」
「当然」
白かった頬が、赤味を増して輝いているのを、俺は、まぶしいような想いで見つめた。
── また、冬が来て、香穂子は綺麗になった気がする。
「お前の息抜きに付き合うのが、さしあたっての俺の仕事。さ、早くおいで。もう迎えも来ている頃だろう」
正門前に飾られた小さなクリスマスツリー。
ささやかな光は、背後から光り輝いて、俺たちの影を長く濃くする。
2人の隙間が少しずつ埋まる。
香穂子の手に添えられている手袋も、優しそうな色のマフラーも。
── 全て俺が見立てたもの。
俺は香穂子を満足げに見つめると、たおやかな手を引き寄せた。
「……俺がこの手を離すとき、か」
「はい?」
「ま、多分ないだろうね」
「はい……?」
「── お前は俺のフルートだから」
多分。これは運命。
手放そうとして、手放せなかったフルートと同じ。
香穂子といる時間が、俺の充実した時を作っていく。
全てのモノが変わっていくと知った今、俺と香穂子の間も変わり続ける。それは真理だ。
だけど、真理が変えようのない事実として目の前に横たわるのなら、今の俺は俺なりに手を尽くすさ。
── この手を、2度と放さなくてもいいように。