*...*...* 桜草  *...*...*
 港さん橋から見る4月の海は、どこか優しげな色をたたえている。
 空気が軽くなった、と思ったのは、俺が冬の間中着ていたブルゾンを脱いだせいかもしれない。

 俺は周囲の人間からもらった拍手に軽く頭を下げると、隣にいる香穂子に目を遣った。

「どうする? まだ練習したいか?」
「うん……。衛藤くんの時間が大丈夫なら、もうちょっと」
「まったく。練習の虫だよな。香穂子って」

 予想どおりの答えに笑うと、俺は再びヴァイオリンを担ぎ上げる。
 俺たちを取り囲んでいた人垣は、待っていたかのように大きな歓声を上げた。

「口ではいろいろ言いながら、嬉しそうだよな? 桐也」
「……それ、多分気のせい」

 俺はツレの冷やかしを適当に交わすと、再び香穂子の顔を覗き込んだ。

 午後3時。
 穏やかな風が、俺と香穂子の頬を撫でていく。

 絶好のヴァイオリン日和、なんて言葉は日本語にはないけど、アメリカで知り合ったヴァイオリニストはよく言ってたっけ。
 こういう日をヴァイオリンのための日、って言うんだ。"The day for the violin" ってさ。そう、思わないかい? 桐也。
 湿度に合わせてその場にピッタリな弦の調整をする、ということは神経質にやってきた俺だけど。
 ヴァイオリンにふさわしい日があることなんて、俺は今日まで知らなかった気がする。

 俺は行きつけのバーガーショップでいつもの半分の量のランチを平らげると、午後からずっと香穂子とヴァイオリンを合わせている。
 ヴァイオリンはやや背中をしならせる楽器だ。
 思えばアメリカで出会ったヴァイオリニストは、誰もが細身の体型を維持していた。
 食べ過ぎが音の鈍さにつながることを、ヴァイオリン奏者なら知っているのかもしれない。

「じゃあ、ラスト1本行くか。なんにする?」
「はい。じゃあ……。第九にしようかな?」
「了解、っと」

 去年、市民ホールでやったクリスマスコンサートが香穂子は忘れられないのだろう。
 あのとき以来、折に触れ、香穂子はその日最後の曲として、第九を選ぶことが多かった。
 旋律が流れ始めると、俺自身も気付かないうちに、優しい顔になっているのだろう。
 香穂子は弾き終え、ヴァイオリンを肩から降ろすとき、嬉しそうに俺の顔を見上げる。

「香穂子……」

 その微笑は、俺を癒してくれる力があるというのに。
 どうしてなんだろう。
 ── こいつのそういう顔を見るたびに、負けたような気になるのは。

 ヴァイオリンの実力なら、誰にも負けない。
 今もしここがコンクールの舞台で、俺と香穂子がファイナリストに選ばれていたなら、
 審査員の誰もが、俺をwinnerとして選ぶだろう。
 だけど。どれだけ勝ったと思っても、気持ちで負けてる。
 香穂子のヴァイオリンに向かうと、必ずと言っていいほどこの感情に囚われる。

 興味深げに俺たちを見守っていた人間は、今日の練習がこれで終わりだと悟ったのだろう。それぞれの場所へと歩き始める。
 中には、靴底を縫い取られたように、その場に立ち続けている男もいる。
 男を立ち止まらせている理由。
 それは自信たっぷりな俺の音じゃなくて、知らず癒される音を作る香穂子なんだ、ということに、俺は少しだけ苛立ちを覚える。

 わかっててもなお、俺は自分の音を押し付けたくなる。
 技術で打ち負かして、そして、香穂子に集まった視線を俺のヴァイオリンの上に取り戻したくなるんだ。

 そんな俺の葛藤に気付くことなく、香穂子は小さい背を向けてヴァイオリンをケースに片付けると、立ち上がった。
 スカートの下、すらりと細い脚に目が行く。

「ありがとう〜。今日もたっぷり練習ができたよ」
「あんた、ちょっと調子乗りすぎ。途中、倍音が立ち消えちまうところ、2箇所あったぜ?」
「あ……。ごめんなさい。気がついてた」
「あと、立ち上がりの音が軽い。もったいぶって、とまでは言わねえけど、もっと重厚感を出す。
 1拍目でどれだけ人の注意をこっちに向けるか、ってコンクールではかなり重要」
「はい」

 香穂子は俺の意見に忠実にうなずくと、脇に挟んでいた譜面を開いて、俺の言ったことを書き写している。

 俺が香穂子にかける言葉はいつも注意ばかりだ。
 メシ食いに行く、って言ったら、カレー屋だったり、バーガーショップだったり。
 練習の次にはまた練習。合間の気分転換といったら、ゲーセンで。

 俺は俺で、自分の中の腹立たしさをどうすることもできないでいる。

 個人レッスンを見てくれているヴァイオリンの先生は、最近俺の音が丸くなった、なんて表現をする。
 だけど、その違いが香穂子にはわかっているのか。
 音だけじゃなく、言葉で。……どうしてもっと優しくしてやれないんだ? 俺は。

「お待たせ! ありがとう。衛藤くんの言ったこと、全部書き写せたよ?」
「お? エラいエラい」

 俺の悩みに気づくことなく、香穂子は小さな子どものように書き上げた譜面を見せてくる。
 こう、鈍さと鋭さを併せ持つあんたにはどう言えば伝わるのか。
 わかんねえよな。
 俺は今までいつもこうやって、つっぱって生きてきたし、音楽の世界の中でもこの態度は変わらなかったから。


 夕暮れが迫ってくる町並みの中、俺の視線はある店で止まった。
 店先には、色とりどりの花が競うようにしてこちらを見ている。
 その中で1輪。端っこに押しやられている白い花は、誰に媚びることもせずひっそりと重たそうに首を垂れていた。

「香穂子。ちょっと待ってろ」
「うん……。どうしたの?」

 どうしてこんなことしたくなったのか、わからない。
 花色が香穂子そのものだと思えたからか? いや違う。
 香穂子の音色に癒された俺自身の今の色がこんな色だったのかもしれない。

「オネーサン。悪い。ちょっと急いで?」

 俺は店員をせかすと、慌てて香穂子の元へと向かう。
 そして香穂子の視線を避けるようにして、手にしていたモノを突き出した。

「これ。あんたに。なんかあんたに似合いそうだって思ったからさ」
「可愛い……。桜草、かな?」
「へえ。そんな名前なんだ」

 俺の音は好戦的だ。技巧を極めて、戦って。人には出せない美しい音を奏でる。
 他のヴァイオリンの音を完膚なまでに追い詰める音。

 一方の香穂子の音は、ただただ優しい。最初聞いただけでは、通り過ぎてしまう透き通った音。
 戦うなんて、相手を蹴落とすなんて片鱗はまったくなくて。2度3度と聴いてようやく、人はこいつの音に振り返る。

「ありがとうね。私、大事に育ててみる!」

 香穂子は小さなネコでも抱くかのようにそっと桜草の鉢を抱きかかえると、優しい笑顔を向けた。

 ってよく考えてみれば、こいつ、俺より2年も年上なんだよな。
 こいつの、ヴァイオリンの実力だって、なかなかなもので。
 香穂子より全然実力のないヤツだって、ヘンなプライドを抱えて横柄なヤツっていっぱいいるのに。
 ホント、いいヤツなんだと思う。

「……香穂子先輩、か」
「な、なあに? 衛藤くん……」
「いや。言ってみたくなった」
「突然言われると、なんだか恥ずかしいよ」
「へえ。こんなことが恥ずかしいの? 何度も言ってやろうか? 香穂子先輩、香穂子先輩、香穂子先輩」
「わーー! もう言っちゃだめだよーー!」」

 香穂子は、これ以上なく頬を赤らめると、手にしているヴァイオリンケースをブンブンと振っている。
 左腕は、さっき俺が渡した桜草を抱きかかえているからだろう。
 必死に右腕だけを振っている様子が可笑しくて、俺は声を立てて笑った。

 なんつーか……。
 出会った頃の、たどたどしい香穂子の音色がまだ俺の中に残っているからか。
 ともすれば、香穂子が先輩、俺が後輩なんだ、ってことをすぐ忘れてしまう自分がいる。

 こいつの、恥ずかしがるところが、すごく可愛い、って思ってしまう。

「なに? 1年生の後輩に呼び捨てされる先輩でいいの?」
「うーん……。でも、ヴァイオリン歴でいったら、衛藤くんの方が年上でしょう?
 今までどおり、『香穂子』でいいよ? 嬉しい」

 肩下の朱い髪が春風を はらんで大きく膨らむ。
 半歩離れてる、というのは言い過ぎか。
 強いて言うなら、4分の1歩離れた場所で香穂子は俺の後をゆっくりと歩いている。

 2日後、俺が学院に入学して。
 同じ授業。学院のシステム。師事する教師の話。
 そんな香穂子と俺の共通項を並べ立てることができるようになったとき。
 俺の隣りにいる女も、少しずつ、俺に慣れてくれるのだろうか?



 この春、俺は星奏学院に入学する。
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