*...*...* 桜桃忌  *...*...*
「わぁ……」

 真っ暗な空に映える花吹雪。
 花びら一枚一枚が、闇に反射しては、ハラハラと自身の身を降らしていく。
 香穂さんは呼吸することをも忘れてしまったかのように、うっすらと口を開けて桜に見入っている。

「心配だな。香穂さん。そのままじゃ後ろに倒れちゃいそうだよ?」
「だって、すごく綺麗なんだもの。満開だね」

 僕は香穂さんの背後に立つと反り返っている肩に手を添えた。
 ── そう。
 こんな風に、僕が香穂さんの身体に触れるようになれるまで。
 僕はどれだけの遠回りをしたんだろう。
 それと同時に、今まで僕の身体の上を通り抜けていた女の子はいったいなんだったんだろう、と、
 なんでもない折にふと考えたりもするんだ。
 あのときの僕は僕なりに、その子たちを大切に思ってきたのに。
 人間って残酷だな。
 どうして彼女たちは僕の心になんの痕跡も残してないんだろう、って。

 香穂さんは僕の屈託に気づくことなく、小さな小鳥のように僕の腕の中に収まっている。

「桜、ってこんなに綺麗な花だったんだね」
「香穂さん?」
「ヘンなの。毎年見てきたハズなのに」

 香穂さんは肩越しに僕を振り返ると、恥ずかしそうに頬を染めている。
 柔らかそうな唇は、一瞬固く結ばれたあと、ゆっくりと開き始める。
 香穂さんは、言葉を選ぼうとするときいつも必ずこんな風に唇を動かす。
 なんて、僕しか知らない香穂さんのクセを知ったことで、僕はまた有頂天になる。

「加地くんと一緒に見るから、違って見えるのかな」

 香穂さんはそう言って、自分の言葉に照れたように笑う。
 初めて見るシチュエーションに、僕の胸がことりと音を立てる。

 狂ってる? そうかもね。

 だけど、一生の内に、これほど夢中になれる対象に出会える人って、いったいどれだけいるんだろう。
 僕の香穂さんへの想いを、苦笑を交えてからかうヤツらに、逆に僕は自慢したくなるくらいなんだから仕方ない。
 そう、今の僕は幸せだよ。
 恋いこがれてた人に、やっと近くにいることを許してもらえたんだから。

 僕は香穂さんの髪に鼻先をうずめながら話し始めた。

「桜の季節とは違うんだけど。香穂さんは、『桜桃忌』って知ってる?
 サクラ、モモ、そして、忌引きの『キ』を書く」
「えーっと……。ごめんなさい。あれ? 文学史で見たような?」
「あたり。端的に言うと、太宰治の命日だね」
「命日?」

 ふと香穂さんの顔色が陰る。
 陰影を浮かべた香穂さんは、少し大人っぽくて、それでいて儚げだ。

 彼女の、どんな顔でも見てみたい。
 そして記憶に留めておきたい。
 そう。生まれては消えていく、うたかたのような旋律を、楽譜という形式に残そうと思った先人は偉大だ。
 だけど、人間という媒体の僕は、今目の前にいる香穂さんに囚われて、
 数秒前の香穂さんの顔が、どんどん遠く消えていくのをどうすることもできないでいる。

「太宰治は愛人と心中したんだ。桜桃忌って、正確に言えば、彼の死体が上がった日なんだけど」
「……うん。それで?」

 僕の話が長くなると思ったのだろう。
 香穂さんはそっと僕の手を取ると、腕の中、くるりと身体の向きを変えた。

「なんとなく羨ましいかな、って。好きな人と、一緒の時代を生きて。死まで分かち合うことができるなんて。
 ま、太宰の場合は、諸説があって、必ずしもお互いが求め求められた結果の死ではないようだけど」
「加地くん……」
「……香穂さんがいなくなったら、なんて考えたら、僕もなんだかおかしくなりそうだ」

 僕の貪欲さに、僕自身が呆れる。
 出会って。お互いの気持ちが、同じ方向へ向かっていると知って。
 大切だから壊すことができなかった彼女の身体を、ようやく知ったのがほんの2週間前。
 そこまでの道程だって、僕にとっては信じられないほど心躍る体験だった。

 そして。

 自分の中で、密かに不安になっていたりもしたんだ。
 なぜって。
 ── 抱く前と抱いた後で、態度が豹変してしまう女の子たちを知っていたから。

 もちろん香穂さんが彼女たちのようになったとしても、僕は却ってそんな香穂さんを可愛いと思っただろうけれど。
 経験は人を賢くもするし、不安にもさせるから。

 でも香穂さんは違った。
 抱くたびに、愛しいって気持ちが募る。
 こんな僕を全身で受け止めてくれることが嬉しくて。
 身体だけじゃない。満たし、満たされる。その感覚が誇らしくて。

 香穂さんが僕の腕の中で身体を震わせて達したとき、僕は僕の身体の新しい使い方を知って嬉しかった。
 僕でも、まだ、彼女に役立てることがあるんだな、ってね。

 そしてまた僕は貪欲になる。
 幾度果てても、先が見えない。
 もっと、香穂さんの中で自分を解放させたい、なんて、獰猛な思いが交差するんだ。

「香穂、さん……?」

 花びらが頬に滑り落ちていくような感覚に目を開けると、赤面した香穂さんが、すぐ近くにいた。

「加地くんは、よくわからない」
「僕のことが?」

 香穂さんはこくんと頷くと、風で乱れた僕の髪をかき上げた。

「自信いっぱいかと思えば、途方に暮れたような顔する。
 明るい性格なのに、ときどき、不安そうな目をするの」
「香穂さん……」
「私、何度も呼ぶんだよ?
 だけど、そういうときの加地くんは自分の中に入り込んでいて、私の声、聞こえないみたい。
 ── すごくもどかしくなる。私、加地くんになにもしてあげられない、って」
「ふふ、香穂さんは鋭いね。僕さ、他のことはなんでも納得したり諦めたりできるんだけどね」
「他のこと……?」
「そう。たとえば音楽のこととか」

 自分の才能がどれだけのモノか、って、僕は幼い頃から痛いほどわかってたから。
 音を聞き分ける能力は、両親が音楽好き、ってこともあって。
 それに、幼い頃から音楽と親しむ環境が充実してたせいかな。
 誇ることができるレベルだ、とは思ったけれど。

 自分が音楽の申し子と言えるほど、音楽を奏でる力はないことも知っていた。

「加地くん?」

 ふいに黙りこくったぼくの手を、香穂さんは不安げに握りかえしてくる。

「あ、だけどね。今は認めてる。わかってるんだ。音楽の世界における僕の立場を」

 だから、初めて香穂さんのヴァイオリンを聴いたときは、胸が震えた。
 自分の欲しがっている音楽を、こんなにも簡単に作ることができる人っているんだな、って。

「僕は君にも、君の音楽にも飢えてるから」
「え?」
「香穂さんに限っては僕は諦められないんだよ。逃がしたくない」
「加地くん……」
「できれば、誰の目にも触れさせないで、ずっと僕の腕の中に隠しておきたいくらい。
 ……ねえ。こんな僕でも、香穂さんは僕のそばにいてくれる?」

 胸元に香穂さんを感じながら、いつもなら口に出せないことを聞く。
 Yesと言われれば、香穂さんの身体に回している腕の輪をますます狭くして。
 Noと言われれば、いや、Noと言われても、肯定の言葉を返してくれるまで離さないんだ。

「香穂さん……」

 髪を撫でる感触に目を上げると、そこには口元に微笑を浮かべた香穂さんがいた。

 マリアのピエタ。

 死せる息子キリストを抱きかかえるマリアは、悲しみの中、かすかな笑みを浮かべていたという。
 これは、香穂さんの慈悲なの? それとも慈愛?
 どちらでもいい。
 香穂さんが僕のそばにいてくれるならそれだけで僕はいいんだ。

 こんなこと、言ったら、香穂さんにたしなめられるのはわかってる。
 だけど、死が僕たち2人を分かつときは、こんな風に彼女を抱きながら、がいい。

 微笑んだ僕がわかったのだろう。香穂さんは生真面目な表情で口を開いた。

「大丈夫だよ? 私はどこにもいかないから」
「……香穂さん。そんなに僕を喜ばせてどうするの?」

 いくら香穂さんが好きだからと言って、会うたびに身体を求めるのはどうなんだろう、と僕は自分の熱を持て余して途方にくれる。
 いつだって、僕はオッケーなんだ。
 香穂さんの困った顔。恥じらう仕草。そんなのを飽きることなく見ていたい。

 だけど怖いんだ。求めすぎて嫌われることが。

 初めから快感が備わっている男と違って、女の子の性は目覚めが遅いっていうし。
 まだ目覚めてるとも目覚めてないともいえる香穂さんが、いつか自分から僕を求めてくれるといい。
 香穂さんから必要とされる自分。それを認めたとき、僕は初めて自分の存在を許せる気がする。

「ねえ、香穂さん。今日も君が欲しい、って言ったら、君は許してくれる?」


 冗談めいて言ったつもりだったのに、目には率直な気持ちが宿っていたのだろう。
 昨晩も、そして今日も、と聞いて、香穂さんの頬は夜目にもかっきりと朱くなった。
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