*...*...* 桜唇  *...*...*
「なあ。ウメさんや。いい季節になったなあ」

 春の昼下がりってたまんないよな。と俺は大きく伸びをするとウメさんの隣りにゴロリと横になった。
 春。それが授業のない春休みの午後ときては、誰だって俺みたいに眉尻を下げるってもんよ。

 耳を澄ますと、どこかでウグイスの鳴く声が聞こえる。
 まったくファータは、いい場所に音楽の祝福を与えたもんだ、って、こんな陽気のときには特に思うさ。
 すぐ近くに、海も、山も。遊ぶところもある。それでいて、郊外。
 閑静だ。その気になれば勉学に集中できる場でもある。

 この秋、4匹の子を産んだウメさんは、以前とはまるで違うどっしりとした動きでしっぽを振ると、
 俺の独り言に相づちを打つかのように一声、ニャンと鳴いた。

『兄さんもそろそろ、腰を落ち着ければいいのに』
『あん?』
『それとも、毎日女子高生に囲まれて目移りしてる? ど の 子 に し よ う か な、なんて』
『バーカ。んなわけあるか。大体大事な商品に手を出しちゃ、こっちの首が飛んじまうだろう?』
『いいわ、この際。兄さんを幸せにしてくれる子なら誰だって。
 私、年下の女の子にだって、頑張って『お義姉さん』って言う準備、整えて待ってるわよ』

 妹は朗らかに笑うと、近くにまとわりついている子どもを可愛くてたまらないといった様子で膝に乗せた。
 子どもは久しぶりに見る俺のことを恐がりもせず、ご機嫌に声を上げ無邪気な笑顔を見せている。

 俺の方は、といえば妹のなにげない言葉に、ちょっとした罪悪感から逃れられないでいた。
 ── 手、出しちまったんだよなー。俺は商品にさ。
 だがな。言い訳をするようで情けないが、あいつには、俺を捕らえて離さないなにかがあったんだ。
 忘れてた、忘れようとしていた熱い感情を掘り起こす、うー、なんていうんだろうな。
 『強さ』とでもいうのか。

 こいつと一緒なら、俺ももう一度俺本来の声を取り戻せるんじゃないか。
 俺は俺自身をやりなおすことができるに違いない、なんて青臭いことを考えた。

 目的が決まれば、そこまで行き着く手段はシンプルだ。
 ということで、俺は明日から1週間、アメリカで専門医の診断を受けることになっている。

 あいつの魅力は、ヴァイオリンの音色だけじゃない。
 表情や仕草。愛しそうにヴァイオリンを撫でる様子でさえも俺は目を奪われた。
 若さ、ともいえるのかもしれないが、あいつはどんなときも前向きでひたむきだ。
 そんなあいつに感化された、ってところか。

 罪だ、罰だ、ってわかっていても、俺は何度でもあいつの身体に俺自身を埋めることを止めなかっただろう、と思えてくる。

 真面目すぎるほど真面目な香穂のただ1つ不真面目なこと。
 それは、こうして時折教師である俺と会って、不健全な行為を繰り返すことだ、とも言えるかもしれない。
 教師と生徒という間柄が背徳という名の媚薬にさえなっている気がする。

「ったく、この俺も困ったもんよ。なあ、ウメさんよ」

 俺は目の前に被さってくる睡魔をそのままに、ウメさんと一緒にうとうととしていると、ふと肩を揺する気配に気づいた。
 ……誰だ? ウメさんの子どもたちが、エサ目当てにネコパンチでもしてるのか。

「あん? もうエサはないぞー?」
「……金澤先生、やっと見つけた。こんなところで寝ていると風邪引きますよ?」
「おう。なんだ、お前さんか」
「はい! 私です」

 もやもやとした白い視界の中、ようやく焦点を合わせると、そこには、満面の笑みを浮かべた香穂の顔があった。

 香穂はいつも、俺の姿を認めると一瞬大きく目を見開く。
 そして、次の瞬間には思い切り目尻を下げて笑う。
 何遍見ても見飽きることがない、って感じるのは、まー、その、なんだ? 惚れた弱みか。
 どの生徒よりも、こいつの笑った顔は俺の目の中に1番に飛び込んで来るんだよな。

「って、お前さん……」

 ふいに俺は間近にある、無防備な香穂の唇に目を奪われる。
 特に人工的な色を乗せなくても、香穂のそこは、艶やかな、血の色が透けて見えるような淡い色をしている。
 何色にも染まっていない唇は、見るからに柔らかそうで美味そうだ。
 そしてこの味を知っているのは、俺だけ、ってことか。

 って、いかんいかん。なによこしまなこと考えてるんだ。俺は。
 香穂は、いや、日野は、まだ今後1年、俺の生徒で。俺は教師だ。
 そういう……、そのなんだ。色気のある、というか。
 オンナにむかうような気持ちで、せめて学院にいる間中は、見ちゃいかんだろ、ってことだ。

「金澤先生?」
「お、お前さん、今日も練習か? 張り切ってるな」
「いえ……。私の家、防音設備がないんですね。だから、つい気楽に弾ける学院に来るんです。
 学院と家が近くて良かったです」
「そうか」
「……こうして、金澤先生ともお話できるし」

 香穂は恥ずかしそうに目を逸らしてつぶやくと、『お休みのところごめんなさい』と言って立ち上がった。

 実際、もっと練習をしたかったから、かもしれない。
 気ままに寝ている俺が風邪でも引いたら大変だ、と気を遣ってくれたのかもしれない。
 いや、割り込んで悪かったという気持ちもあったのか。

 来て、話して、すぐ帰って行く、というあまりにあっさりとした香穂の態度に今度は俺の方が慌てる。
 俺は急いで口を開いた。

「あー。なんだ。明日から俺はしばらく学院には来ないから。お前さん、俺が無事帰るまでいい子で待ってろよ」

 俺を見下ろしながら話をするのが悪いと思ったのか、日野はふたたび俺の横に腰を下ろすと、きゅっと口元を引き締めた。

「はい……。1週間、でしたっけ? 帰ってくるまで」
「まあ、そうだな。あとはプラスマイナス時差、くらいだ」
「……桜、保つかな……」
「桜、か」

 香穂はふと顔を上げると遠くに見える淡い色合いに目をやった。
 俺には春なんて似つかわしくない、なんて思い込んで。
 この森の広場は、紅葉を愛でるためだけに足を伸ばしていたところがあったから。
 俺は、香穂と同じ目線に立つことで初めて、この森の広場の奥に小さな桜並木があることに気づいた。

 儚げな淡い色は、香穂の唇の色と重なる。
 ── 俺はふいにその唇が欲しくなる。

「なあ、お前さん、知ってるか? このウメさん、実はとても口が堅いってこと」
「堅い、って……」
「つまりだ。お前さんと俺がこんなことをしてても、内緒にしててくれる、ってことだ」

 俺はやや強引に香穂を引き寄せると、目的の場所に口づける。
 外、というシチュエーションが、香穂を不安にさせたのだろう。
 必死に拒絶するように、手の平で俺の胸を押しやっている。
 って、そんな力じゃ、今の俺を抑えることなんて不可能。
 むしろそんなとこさえも可愛いって思ってしまうんだから情けない。

「や……。止めてください。こわいです。誰か来たら、って思うと」
「そんときは、このウメさんが知らせてくれるハズだ。ニャーンってな」
「本当、ですか……?」
「ほら、いい子だから集中しなさいって」

 柔らかな色の唇を舌でゆっくりと押し広げていくと、香穂は小さな抗い声を上げる。
 その声が艶っぽくなるように、と俺は可愛らしい舌を俺のそれに絡めると優しく吸い上げる。
 そのたびに香穂の身体の力が徐々に抜けていくのを感じて、俺は心穏やかではなくなっていく。

 こんな風に、香穂は、他の男の手の中でもたやすく とろけてしまうのだろうか。
 可愛らしい嬌声を上げて、快感に震えるのだろうか。
 ピクリと揺れる、感度の良い身体が、愛らしいと思うと同時に恨めしくなる。

「……まったく、お前さんは可愛いよ」
「は、恥ずかしいばっかりで、私……。どうしていいのかわからない」

 可愛がりすぎたせいだろう。普段よりやや舌足らずになっている香穂が新鮮に映る。

「いい気なもんだ。……時が来たらいつでも羽ばたいていけよ、なんて言いながら、この俺には逃がす気がないんだからなー」

 俺は独り言をつぶやくと、ふたたび香穂の顔中に口づける。
 俺の愛撫が少しでもお前さんの痕跡になるように、なんて祈りながら。
 そして、もし他の男と過ちを起こしても、他の男じゃ足りない、って再び戻ってくる場所になれるように。
 なんて、余計なことまで考えちまう。

 まあ、香穂の場合、そういう心配はしなくていいかもしれないが。
 1度この身体を知った男は、やすやすとこの身体を手放すことはしないだろう。
 何度も壊して、こいつの身体の中に自分の性を注ぎ込みたいと思うに違いない。
 昨夜切なそうに泣き声を上げていた様子を思い出して、俺は下半身が熱くなるのを感じた。

「やれやれ。この俺にまだこんな若気の至りが残っていたとはね」

 俺は白衣を脱ぐと、その上に香穂を横たわらせる。
 そして、スカートの下の、昨日も可愛がった場所へとそっと指を滑り込ませた。



 桜唇、か。
 きっとここも、香穂子の唇と同じ、いや、それ以上の淡い色と熱で俺を招き入れてくれるだろう。
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