*...*...* 桜人  *...*...*
 つややかに磨かれた数本のナイフ。
 さりげなく目を落とすと、そこには仏頂面をした私の顔が映っている。

 そうか。
 最近は、こういうフォーマルな席、となると、香穂子がいつも私の近くにいて、日常の事細かなことを歌うように話してくれていたから。
 今のように沈黙が支配するということはなかった、というわけか。
 今の事象を納得できるだけの根拠を見つけたことに私は内心納得し、安堵する。
 どんな微細なことであれ、常時的確に説明できるように、と気を回すようになったのは、思えば理事に就任してから、なのかもしれない。
 なるほど。
 職業が人格を創る、というのは的はずれではない人生の教訓、といったところか。

 学院近くのマンションで気ままな独り暮らしをしている私が、どういう理由か、実家に来るようにと父から連絡があった。
 4人がゆったりと座れるテーブルに、夫婦と、そして私1人。
 主を持たない1脚の椅子は、所在なさげにひっそりと私たちを見守っている。

「ねえ、あなた。このお料理、暁彦の口に合うかしら?」
「ああ。いいんじゃないか? なあ、暁彦?」
「はい。美味しくいただいていますよ」
「わたしね、今日1日、このスープに かかりきりだったのよ?」

 元々寡黙な父は、黙々と肉を切り刻んでは口に運ぶ。
 母は、といえば、あの時以来 年を忘れたような過ごし方をしているせいだろう。
 少女のような初々しさで、父に言葉をねだっている。
 息子である私よりも夫をより近しいと思い、頼りにしているのだろう。
 私への問いかけをも、必ず父を通す母を私は痛ましく感じていた。

 ふと、思う。
 娘と息子、どちらを連れ去ろうか? と、もし神に問われたなら。
 父も母も、姉を残しておきたかったのではないだろうか、と。

 父は早々に食事を終えると、グラスにワインを勢いよく満たした。

「新しい仕事を始めて半年か。調子はどうだ? 暁彦?」
「別に。特に問題はありませんよ」
「……そうか。それは良かった。係累が経営する企業というのもやっかいだ。
 ときに言いたいことが言えなかったりもする」
「私がそのような人間だとお考えですか?」
「そうだな。暁彦なら大丈夫だろうが」
「あ、そうだ。そろそろデザートが美味しくできてる頃かしら?」

 母は、料理にはほとんど口をつけないまま、弾むように席を立つとキッチンへ向かった。
 母の愛情に今更この年になって手向かう、という気はさらさらないが。
 母の関心は私の空になった皿にあったのだろう。
 少しでも私を引き留めたいのだ、という思いを強く感じて、私は窓から見える庭に目をやった。

 南面に面した母の1番お気に入りの場所に、今までに見たこともない若木が植わっている。
 根元の赤土が掘り返され、同心円状に白い肥料の跡がある。
 父は私の訝しげな視線の先を追ったらしい。横で1人頷いている。

「父さん、あれは?」
「ああ。母さんに植えてくれと頼まれてね。桜の若木だよ。
 庭木に桜は好ましくないって、出入りの植木屋は渋い顔をしていたがね」
「ほう」
「……桜みたいだった、と言ってね。あの子のことを」

 キッチンから母の尋ねる声がする。

「あなた。チョコレートムースにはどんな飲み物が合うかしら?」
「いいよ。君の好きなもので。私たちは君に合わせる」
「そう?」

 すっかり細くなった母は、私を育てた頃の母とは違う人格が生まれたように、ただ、幼くあどけない。

 姉が亡くなった当初は、どうして神さまは私ではなくあの子の命を奪っていったのだろう、と泣き崩れて。
 やがてその感情は、残された父と私へと向かった。
 そして私が独立した今は、父1人が受け止めている。

 いつ帰るのか。元気で帰るのか。事故はしないか。
 幼女のようにまとわりつく母を、父は噛んで含めるような物言いで守っている。

「父さん。母さんの具合は?」

 小声で尋ねると、父は気難しそうな顔を向けた。

「一進一退、というところかな。彼女の心の一部は、15年前から時間が止まっているのだろう。
 今は桜の若木を見て暮らしている」
「桜、ですか?」
「まあそうだろう。……あの子は1番惜しまれる時期に、1番美しい瞬間で散っていったからね」

*...*...*
 春休みのある日。
 自宅では練習する場所がないからといって、香穂子は毎日のように学院に通っては半日、または1日中ヴァイオリンに取り組んでいる。

 人目の少ないことをいいことに、私と香穂子はよく食事を共にした。
 聴き手がよいから、だろうか。家族の中では口数の少ない私が、香穂子の前では、饒舌になる。
 きっと同じレストランのフロアで背中合わせになっていたとしても、父はきっと多弁な息子の声を聞き間違えるに違いない。

 私は今日も香穂子を隣りに乗せ、この子と初めて行ったレストランへと向かっていた。
 車はするすると、周囲の人波を1本の線にして追い越していく。

「あ、あの今日は行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
「君がそう言うことは珍しい。どこだろうか?」
「はい! えっと……。ごめんなさい。ちょっと遠いんですけど」
「別に構わない。今日は金曜だ。君さえ良ければ」
「ありがとうございます! 私、もう、この1週間、ずっと天気予報をチェックしてたんですよ?」

 私は注意深くハンドルを切ると、徐々にアクセルを深く踏む。
 車体と私を包む空間が、一体になる瞬間。この一瞬を求めて、私はこの車の購入を決めたと断言してもいい。

「天気予報を?」
「はい。正確に言えば、桜前線、かな? あ、あと、雨が降らないように、ってお願いもしてました。── あ、ここです!」

 高速を飛ばせばあっという間の距離であっても、希望を告げるということは、香穂子にとって一大事だったのだろう。
 香穂子は思いの外早く着いたことに歓声を上げると、嬉しそうにドアから飛び出してきた。

「こっち、です」

 香穂子は恥ずかしそうに私の手を引くと、桜の木の下に立つ。
 日頃、香穂子の方から私に触れるということがなかった。
 そのせいか、ひんやりとした小さい手は初めて恋をしたときのように私の胸を高鳴らせる。

「嬉しい……。ちょうど、間に合いました。サクラ吹雪、です!」

 香穂子は背伸びすると、ようやく手が届いた枝をそっと撫でた。その瞬間、桜はハラハラと自身を降り注いでいく。

「……ほう。桜かね。このように儚いものに浮かれている君を見ると若さというものを改めて考えるよ」
「吉羅さん」
「咲き急ぎ、散り急ぐ。── もう少し、私を待っていてくれてもいいものを」

 実家の桜を思い出す。頼りないほどひょろりとした立ち姿は、目の前の桜と違う。

(母さん……)

 母の愛しげに枝振りを撫でる姿を思う。
 そして、自宅の桜がしっかりと根づいて、母の悲しみが和らぐことを心から願う。

「……おや?」

 私が咲きこぼれる桜の花びらを目で追っていると、香穂子のしょんぼりした顔にぶつかった。

「なにか問題でも?」
「えーっと。できれば一緒に楽しんでくれたら、って思うんですけど」
「は?」
「う……。ごめんなさい」

 振り返った私の視線を避けるかのように、香穂子は肩を落としている。
 私はこれでも結構楽しんでいるつもりでいるのだが。
 なかなか素直に自分の気持ちを出せないことに腹立たしさも感じながらも、
 この子に向かってなにか告げることが、ひどく言い訳じみているような気がして私はむっつりと黙り込んだ。

「桜人、か」
「はい?」
「サクラビト。桜を待つ人のことをいうらしい」
「はい……」
「君みたいな人間がいるから、桜も嬉しくて咲くのだろう」

 あの人は恋も知らず、幸せだったのだろうか、と考えて、思うことがある。
 あれほど繊細な音を奏でることができた姉なら。
 恋も知らず亡くなった、というのはむしろ私の思い過ごしで。
 姉は姉の人生の中で、実は、聴いて欲しい、見て欲しいと願う異性がいたのかもしれない。
 いたからこそ、あれほどの音を奏でたのだ。

 そうだ。今度、森の広場で猫と戯れている金澤さんを見かけたら、私の方から姉についての話を振ってみるのもいい。
 金澤さんは姉と3年間同じクラスだった。
 だったら私の知らない姉の話もなにか知っているだろう。

 姉のことを思い出す。懐かしむ。
 桜を愛でる気持ちで、姉のことを考える。
 そんな私を、あの人は純粋に喜んでくれるかもしれない。

「吉羅さん?」
「いや。なんでも」

 不思議そうに首を傾げる香穂子を胸に抱きかかえる。



 香穂子の中に見る姉の幻影。
 ── 私の想像が、事実であって欲しいという願いを込めて。
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