*...*...* 桜月  *...*...*
 無邪気に笑う香穂ちゃんを見て、いつも思う。
 周囲がどんなに変わったとしてもおれ自身は変わらないし、そして香穂ちゃんも変わらない。
 それが事実なら、おれと香穂ちゃんを繋ぐ線は、いつも等距離にある、ってことなんじゃないかな、って。

 あまり深く考えたことがないけど、おれは今まで甘える、ってことをしてこなかったタイプの人間なのだろう、と最近考える。
 元々甘えるってことさえ、なんのことだか良くわからなかった。
 ヴァイオリン教室に通っていた小学生の頃だって、どういうワケか中学生の女の子に調弦のやり方を請われるまま伝えたりした。
 家でも、年の離れた弟が2人いたせいか、頼るより頼られることの方が遙かに多かったしね。

「王崎先輩! 今日のボランティアも無事終了、です!」
「香穂ちゃんありがとう。どうだった? 今日の首尾は」
「お祖母ちゃんたち、すごく喜んでくれました。ヴァイオリンで演歌を弾くって、初めての経験でした」
「あはは。そうなんだ」

 ボランティア会場の近くの喫茶店。
 香穂ちゃんは予定の時間より20分くらい遅れたことを必死に詫びると、今日の出来事を話してくれる。
 元々ボランティアって時間があってないようなものだ、っていうのはこのおれが1番良く知ってるから、
 おれはそんなことは気にしないんだけど。
 香穂ちゃんとしては、先輩を待たせていた、という事実に申し訳なさがいっぱいだったのだろう。
 オーダーした紅茶がやってくるまで申し訳なさそうに何度も謝っていた。

 自分とは違う場所で自分の虚像が一人歩きする。
 そんな状況になかなか馴染めなかったおれは、CDが発売された当初は、ひどく自分の場所が窮屈に感じた。

 音楽を通じて、音楽を好きな人を増やしたい。
 おれのヴァイオリンで、みんなの幸せそうな顔が見たい。
 そんなささやかな理由で始めたボランティアは、今は虚像が巨像になって、まったく参加できないでいる。

『あの、私ができることなら、お手伝いします』

 そんなとき香穂ちゃんは、コンサートの準備で忙しいにもかかわらず、真面目な口調でおれに申し出てくれた。
 きっとおれは自分でも見たことがないような不安げな顔をしてたんだろうな、なんて、香穂ちゃんの泣きそうな表情を見て、悟る。
 必死におれを取りなすように微笑んでいる彼女の表情は、多分おれの顔そのものだっただろうから。

 クリスマスのとき、おれの腕の中に飛び込んできた彼女を抱いたときには気づいてなかったけど。
 おれは、ずっと後輩だって思ってたこの子に、少しずつ頼り出していることに、やっと気づいたんだ。

 春の穏やかな1日が名残惜しそうに終わっていく。
 おれは窓の外の柔らかな夕焼けを見ながら、ふとあることを思い出していた。

「お祖母ちゃん、っていうと、おれね、自分のお祖母ちゃんを思い出すよ。
 おれのウチね、おれがまだ小学生の頃、お祖母ちゃんが亡くなったんだ。ちょうどこの時期だったかな」
「王崎先輩……?」
「子ども心にも優しい人でね。働いていた母に代わって、ずいぶんとおれのお世話をしてくれたっけ。
 幼稚園の先生だったのよ、なんていって、ピアノの引き語りを何度もしてくれたよ」

 香穂ちゃんはおれの言葉を何度も頷いている。
 アンサンブルのときも、そして、オーケストラのときにも思ってたけど、香穂ちゃんってすごく聞き上手な子なんじゃないか、って思ってしまう。
 話してると、自分の中が整理される。
 もっと続きを話したくなる。
 そして、話していることで、再び自分に、新しい元気が沸いてくるのを感じるんだ。

「そうだ。香穂ちゃん。きみって、大学の桜、見たことある?」
「大学、ですか?」
「うん。そう。ここ星奏の、附属大の桜のこと」
「いえ……。そういえば、王崎先輩に会いに、大学に何度か行ったことはあるけど、知らないです」
「星奏学院の森の広場よりもちょっと小さいけど、良いところだよ。行ってみる?」
「はい!」

 おれは伝票を手に立ち上がる。
 そして人が少ないのをいいことに香穂ちゃんの手を取ると、ゆっくり大学までの道を歩き続けた。
 昨日までの厳しい寒さはどこか緩んでいる。
 香穂ちゃんも一瞬コートを羽織ろうとして、必要がないと思ったのか、そっとヴァイオリンケースを持つ腕にかけた。

「おれね。もっときみといろいろなところへ行きたいって思うよ。
 ブラームスやモーツァルトが歩いたウィーンの小径とか。夕焼けの綺麗な教会とか。
 きっと美しい経験をするたびに、きみの音色は変わっていく気がする」

 コンクールのファイナリストになったとき。
 おれには緊張、とか、不安、とか、そういった負の感情は一切浮かばなかった。
 ただ、どうして、今、おれはここにいて、こうしてヴァイオリンを奏で続けているのだろう、って思ったんだ。

 ヴァイオリン教室の恩師。
 高校時代の先生。
 いろいろな人の顔が浮かんは、おれに微笑み返していく。

 だけど、1番最後までまぶたの裏に焼きついていたのは、香穂ちゃんの顔だった。

 あのころ、香穂ちゃんは創立祭のコンサートやら、文化祭の演し物で忙しかったから。
 だから、メールだけが頼りだった。
 香穂ちゃんの顔をあまり見ることができなかったからかな。
 おれにとって香穂ちゃんといえば、顔よりも、まず、優しい文面。そして可愛い声。
 そして先に透き通るようなヴァイオリンの音色が浮かんでくる。

「そうだ。3月の別名、って香穂ちゃん知ってる?」
「はい……。あ、『弥生』でしょうか? 『弥生3月さよならの月』って言いますよね」
「うん。あたり。面白いよね。それ以外にもう1つ。『桜月』っていうんだって」
「桜月……」
「おれもウィーンに行ってた頃、いろいろな国の言葉を知ったけど。
 面白いよね。月の名前にこんなにヴァリエーションがあるのって、日本語だけだったんだよ」

 俺は手の中の香穂ちゃんの指を握りしめた。

「おれね。湿っぽい話だけど、あまり3月って好きじゃなかったんだ。
 大好きなお祖母ちゃんが亡くなったこともあったし。
 なにしろ、卒業って別れの季節でもあるでしょう?」
「はい……」

 おれは来月からまたウィーンへ旅立つことが決まっている。
 前回の国際コンクールで優勝したおれが、日本に帰国する、と告げたとき。
 ファイナリストに推してくれた音楽大学の教授は、おれの聞き慣れない言葉で、必死に説得してたっけ。

『Mr. Ouzaki! もっと君はハングリーにならないといけないよ。
 誰もが君のような強運と才能を持っているわけじゃない。わかるね? だからどうか帰らないでくれ』

 『別れ』という言葉が香穂ちゃんを不安にさせたのだろう。
 香穂ちゃんはおれの手の中、ぴくりと指を震わせて、離そうとする。

「ダメだよ。香穂ちゃん。おれが離さない」
「王崎先輩……」
「ちゃんと聞いてくれるまで、離さない」

 大切な話があると感じたのだろう。香穂ちゃんは不安げに顔を上げるとまっすぐにおれの目を見つめた。
 彼女の曲想同様に、透き通った瞳は、穏やかで、おれの決心をますます強固なものにさせていく。

「おれね、来月からまたウィーンへ行くよ。行って、自分の音楽をもっと極めたい、って思う。
 CDっていう虚構のおれよりも、生身のおれを、音楽が好きっていう気持ちを伝えにいきたいんだ」
「……はい」
「音楽って、音を楽しむもの、でしょう?
 だけど、日本に居続けたら、おれは、その基本的なことを忘れてしまいそうな気がするんだ」

 香穂ちゃんは黙ってうんうんと頷いてくれる。
 その様子は、ほんの数分前までおれの選択に後悔はない、って考えていたおれの決心を少しだけ揺るがせる。

 この子が人格を持たない小さな人形だったら。
 おれは大切にトランクケースに詰め込んで、ウィーンでもどこへでも一緒に連れて行くのに。
 だけど、香穂ちゃんは、おれの香穂ちゃんである前に、香穂ちゃんの香穂ちゃんで。
 香穂ちゃんの人生は香穂ちゃんのものだから、そんなワガママは言えないんだってことも、よくわかってる。

「香穂ちゃんと会えなくなることがおれの唯一の気がかりだけど。
 だけど、なんていうんだろう。香穂ちゃんと一緒にいると、なんていうか……。その、安心感があるんだ」
「王崎先輩……」
「この子とならやっていける。ちゃんと話せば伝わるし、この子もちゃんと受け止めてくれる……、なんてね。
 だから離れていても、大丈夫、って思う。
 ……ねえ、香穂ちゃん。うぬぼれてもいい? そう思っているのはおれだけじゃない、って」

 おそるおそる尋ねてみる。
 もしおれが香穂ちゃんだったら、1人日本に残される女の子って、彼氏さんに対してどんな気持ちを持つのだろう。
 いや、彼氏さんというのはおれの独りよがりに過ぎなくて。
 実は、ちゃんとした唇へのキスさえもしていないおれは、ただの良い先輩止まりかもしれない。

「え? なに? 香穂ちゃん」

 小さな唇が微かに動いている。耳をつけるようにして香穂ちゃんの声を聞き取る。

「……私、待ってますね」

 歌うように囁かれたメッセージは、おれの中に温かい気持ちを生んでいく。
 そしておれはこの3月の記憶が新しく塗り替えられていくのを感じる。



「ありがとうね。おれは3月がようやく好きになれた気がするよ」
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