*...*...* 桜色  *...*...*
 香穂先輩が高3に、僕が高2になる直前の春休み。
 僕は香穂先輩を誘って、僕の実家まで脚を伸ばした。
 香穂先輩に、僕の育った街を見て欲しい、って思ったから。
 だけどそれ以外にも、僕には理由があった。
 音楽以外に、香穂先輩と僕が一緒に笑い会えるものを少しでも増やしたい、ってそう思ったのだと思う。

 去年の秋、僕の提案で月森先輩と香穂先輩、それと僕の3人でコンサートを聴きにいったときのことを思い出す。
 大した話をしたわけではないのに、同じ時間を共有した僕たちは以前よりもより深く分かり合えた気がした。

 それに僕の叔母さんが香穂先輩のことを姉さんに告げたのだろう。
 このお正月あたりから姉さんの寄越す手紙の中に、香穂先輩のことを尋ねる文章が増えてきていた。

『桂一がお世話になっているのだから、わたしもなにか香穂さんのお手伝いができたらいいなと思います。
 香穂さんは、どんな色が好きで、どんな服が好きですか?
 わたし、桂一の衣装ばかりを作っていて、女の子のドレスを作ったことがありません。
 一度作らせて欲しいから、よかったら、今度の春休み、一緒にお連れしてください。
 採寸もして、香穂さんにピッタリのドレスを作ってみたいの』

 姉さんのこと僕はまだ香穂先輩には言ってない。
 こんなこと言ったら、香穂先輩、驚くかな。恥ずかしがるかな。どうだろう。よくわからないけど。

 だけど、僕は香穂先輩が大好きで。
 そして、姉さんも大好きだから。大好きな2人が仲良くしてくれたら、僕はもっと2人のことが好きになれるから。
 ……だから、仲良くしてくれたらいいな、と思ってしまう。

 香穂先輩は、電車を降りてすぐの桜並木に驚いたように目を見張っている。

「すごく暖かくて、素敵なところだね。志水くん」
「……そうですか? ありがとうございます」
「なんだか、志水くんに似てる。のんびりとしてて、優しい感じ」

 新幹線と電車を乗り継いで、2時間と少し。
 気持ちいいこの場所を少しでも香穂先輩に気持ちいいって感じて欲しくて、僕はここ1週間夕焼けの空に翌日の晴天を祈ってた。
 金星と木星が仲良く僕の方を見てくれていれば、晴れ、そうでなければ、曇り。
 雨なんて考えてもいけない。
 そう思って迎えた今日は、この1週間の中で1番良い天気に恵まれていた。

 桜前線は例年になく早く僕の街を駆け抜けたらしい。
 周囲は雪のような桜吹雪でいっぱいだった。

「桜は風土の影響を強く受ける、っていいます」
「そうなんだ」
「南の国では猛々しく、北の国では儚げな立ち姿になるといいます。学院の桜とはちょっと違いますね」

 香穂先輩は、何度も頷くようにして背の低い枝をそっと手に載せた。
 話せば話したで楽しい。話さなければ話さないで、僕たちはお互いの目を覗き込んでは沈黙と遊ぶ。
 特になにかを話さなければならない、と思わずにいられる、ということが、僕にとってはすごく気が楽だった。

 この気持ちは、一緒にデュオをやるときの気持ちと似ている。
 音楽がなくても、今の香穂先輩と僕の中には、たえずなにかしら優しい音楽が流れている気がする。

「あれ? 志水くん、なんだか眠そうだよ?」

 人気のない桜の樹の下で、香穂先輩は腰を下ろすと、恥ずかしそうに膝を指差す。
 木陰が気持ちいいベンチで僕は香穂先輩の膝を借りて横になっていると、
 香穂先輩がくすくす笑いながら優しい声で話をする。
 ときどき香穂先輩の細い指が僕の髪の毛を優しくかき上げるから、僕の目はますます細くなる。

「そうかも、しれません。どうしてだろう。香穂先輩といると安心して眠くなる」
「そうなの? いいよ。ちょっとだけ寝る?」

 旋律が浮かんでは消えていく。
 僕の一度枯れ果てたと思っていた音楽の泉が、今、こんこんと溢れ出すのを感じる。
 いつもなら五線紙を、と慌てる僕が、今日はこんな風に睡眠を貪ってるなんておかしいけど。
 だけど、今日は不思議な感覚に襲われている。

 きっと、大丈夫だ、って、素直に思える。

 香穂先輩がこうして近くにいてくれる限り、僕の音楽はもっともっと良い形になって溢れ出る。
 これは神さまが僕にくれたご褒美だと思えるから。

「ん……」

 ふと冷たい風を感じて目が覚めると、そこには静かに文庫本に目をやっている香穂先輩があった。
 眠っていても先輩の夢を見て。目を開けたら先輩の顔がそこにあって。
 香穂先輩は、静かに僕の眠るがままに任せてくれていたらしい。

「よく、眠れた?」
「……あなたがこの桜のことを忘れてしまっても、僕は今日のことをすべて覚えています」
「どうして? どうしてそんなこと、言うの?」
「本で読みました。恋はとても儚いものだと。だから、人は懐かしがったり残念がったりするのだと」

 香穂先輩は困ったように眉根を寄せて、僕の髪を撫で続けてくれる。
 恋の不安。音楽史の中にも、オペラの世界でも、どんな音楽でも伏線には恋愛がある。
 どうして人は不幸になるために苦しい恋を選ぶのだろう、って1年前の僕にはわからなかった。

 音楽の世界もそう。まるで苦しむために、死に向かうためだけに、人は音楽にのめり込んでいく。
 だけど、今、僕は香穂先輩を得て、わかることがある。
 自分ではどうにもならない感情を『恋』っていうんだ、って。
 自分で計算したり、調節できたりするなら、誰も苦しい道へは進まない。
 苦しみの先に、こんな甘い感情が湧き出る泉があるから、人は切ないと分かっていても、先へ進んでしまうんだ。

「香穂先輩は、僕のことも忘れてしまうのでしょうか?」

 なおも言い続ける僕に、香穂先輩は優しくあやすように口を開いた。

「先のことはわからないけど……。ね、志水くん。私が忘れそうになったら、またここに連れてきてくれる?」
「香穂先輩?」
「そうしたら、私たちはまた思い出を重ねることができるでしょ?」

 桜吹雪を映した香穂先輩の目は、外国製のビー玉のようにキラリと輝いている。
 ── そうだ。僕は、香穂先輩のこの強さが好きだったんだ。
 好きで、頼りにしてて。
 だから、柚木先輩や、土浦先輩。加地先輩。どの先輩にも渡したくないって思ったんだ。

「……そうですね。僕たちの音色みたいですね」
「うん」

 僕は僕の髪に触れていた香穂先輩の指に指を絡めた。
 僕より細い、折れそうな指。
 ここから生み出される旋律を僕は誰よりも愛してる。これまでも、これからも。
 どうか香穂先輩が、幸せであるように。
 この世界に、音楽の神さまがいるのなら、僕の作曲の才能よりも、香穂先輩に音楽の祝福があるように。
 そう願わずにはいられない。

 僕は、自分の身体に香穂先輩の春物のコートが掛けられているのに気づくと、慌てて起き上がった。
 香穂先輩の身体が、夕方の春風に吹かれてすっかり冷たくなっているのに気づいて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 そして、僕は、香穂先輩がしてくれる親切を、今までどれだけを返すことができてるのかな。

 コート。
 そうだ、思い出した。姉さんが、言ってたっけ。ぜひ、実家に連れてきなさい、って。
 それで、採寸、して、仮縫い、だっけ? 
 そうだ。桂一がお世話になっている人だから、わたしもなにかしたいの、そう言っていたのを思い出す。

「香穂先輩。そろそろ行きましょう? 僕、そういえば、紹介したい人がいたんです」
「うん……。紹介したい人?」
「はい……。香穂先輩のドレスを作ってくれる人、だ、そうです」
「ドレス?」
「香穂先輩はヴァイオリニストだから。これからもたくさんの衣装が必要になると思います。
 1度採寸しておけば、あとはパターンを替えるだけだ、と聞きました」
「うん……」

 なんのことだか分からないのだろう。香穂先輩は可愛らしい表情で首を傾げている。
 僕も、姉を紹介する、といわないで、つい、ドレスを作ってくれる人だ、と紹介してしまったのがおかしくもないこともないけれど。
 きっと姉さんのことだ。洋服を作る工程で、香穂先輩から僕のことをいろいろ聞き出して、安心するんだ。
 きっと、僕が幼かった頃、僕にイジワルをした男の子たちから守るときみたいに。

『桂一。素敵な先輩が近くにいてくれてよかったね』

 僕と香穂先輩と親しくさせてくれたのは、音楽だけど。
 今の僕は音楽以外の香穂先輩にも心奪われている。
 音楽のことにはまったく疎い姉さんも、音楽以外の香穂先輩の魅力を知って単純に香穂先輩のファンになってくれると信じてる。



 素直にそう思えることが、今の僕の幸せなんだと思う。
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