*...*...* 桜雲  *...*...*
『じゃあ明日お昼に、森林公園でね』
『了解。お前、気をつけて来いよ』
『ありがとう。あ、そうだ! あのね、土浦くんは過ごしやすい格好で来て欲しいの』
『お? おう。わかった』

 俺は電話を終えてふと首をかしげた。
 動きやすい格好、か。
 今まで何度もあいつと音を合わせてきたが、こんなリクエストは初めてだ。
 折り返しもう一度電話しようかと思ったが、姉さんの、

『梁! 早くお風呂入ってよ』

 っていうクレームをまた聞くのも面倒、ってところか。
 大体女ってどうしてあんなに風呂に時間かかるんだ? 男よりも表面積小さいだろ? わかんねえよな。

 俺はあれこれと考え続け、ふと、香穂が風呂に入っている様子を思い浮かべて、頭が熱くなる。
 そ、そうか。あいつ最近、練習に精を出しているから、もしかして長い時間練習したいとかなのか?

 春とはいえ、まだ朝夕は冷え込む。
 女の服ってよくわからないが、あいついつも薄着で来ては、寒そうな顔してるからな。

 さんざん考えた挙げ句、俺は、長袖のシャツの上に薄手のパーカーを取り出した。
*...*...*

「よお。香穂」
「土浦くん!」

 待ち合わせ5分前に約束の場所に着くと、香穂は片手を上げて嬉しそうに手を振った。
 俺が体育会系の人間だからかもしれないが、香穂のこういう礼儀正しいところが、俺は結構好みだったりする。
 以前なんかの都合で天羽に無理矢理呼び出されたときは、あっちから呼び出したクセに10分も遅れて、けろっとしていやがった。
 あまり細かいことを言っても男らしくないと思って黙っていたが、俺としてはどうも腑に落ちなかったんだよな。

 それに、なんだ。
 こいつの笑った顔を見ていると、なんていうか、ほっとする。
 ……なんてことはとても照れくさくて本人には言えないが。

「それにしても、どうして動きやすい格好なんだ?」

 開口一番昨日の疑問を尋ねると、香穂は、あのね、と小さな口を開いた。

「うん……。私ね、土浦くんにリフレッシュしてほしくて」
「リフレッシュ?」
「最近、大変だったでしょ? 徹夜で総譜を読んでて。
 私になにができるかなって悩んでたときにね、ちょうど実川くんから連絡をもらったの」

 3年になったら、俺と香穂は音楽科への転科が決まっている。
 香穂は持ち前の明るさで、あっさりと新しい環境に馴染んでいけそうだが。
 俺の場合は、どうにもこの負けん気が邪魔をするだろうと思える。

 できれば。いや。音楽科のどんなヤツにも負けたくない。

 そのために、今の俺ができることは、といえば、ピアノの練習を今まで以上にこなすこと。
 その勉強と平行して、指揮科の練習と称して、有名どころの総譜を頭にたたき込むことだった。

 けど、なんだ。
 俺のそんな様子は、香穂からしてみたら、『大変』に映っていた、ということか。

 香穂は大きく頷いた。

「それでね、サプライズも兼ねて今日は土浦くんをリフレッシュをプレゼントしよう、って話になって。
 私、便乗しちゃったんだ」
「は? お前。一体なに言ってるんだよ」

 リフレッシュ? プレゼント? それに実川?
 香穂は、それ以上口にしても……、という思いがあったのだろう。
 にっこり微笑んだまま俺の手を取って森林公園のさらに奥へと脚を進めた。
 木立の中にある小さな施設は、テニスコートや小さな野球場、それにフリースペースもある。
 茂みの奥に一歩入ると、そこには見覚えのあるヤツらが所狭しと走り回っていた。

「実川、それに、長柄。どうしてお前たちがここにいるんだ?」
「おーー。土浦来たか! おーい、みんな、集合〜」

 同級生の実川が部長になったサッカー部は、以前よりは敷居が低くなったとはいえ。
 やっぱり俺は俺自身の理由から、なかなか近づけないでいた。
 今、サッカーにうつつを抜かしている時間はない。
 そんなのはサッカーにも音楽にも失礼だろう、って気持ちもあった。

 数ヶ月ぶりに見るサッカー姿の友人は、教室の中よりもずっと大きく見えてくる。
 実川は俺の屈託に気づくことなく、ひょいと俺に緑色のゼッケンを渡した。

「へっへっへ。土浦を動かしたいと思ったら、日野に頼むべし、ってか。新ルール制定、ってところか」
「えへへ。今日は土浦くんをサッカーのミニゲームにご招待、です」
「実川。香穂……」

 佐々木は、うんうんと調子よく何度も頷くと、香穂と楽しそうに話をしている。

「日野に頼まれたら、イヤって言えないよな。なんてったって、星奏学院を分割しないでくれた立役者だからな」
「そ、そんなたいそうなことじゃないよ。私……」
「香穂。いったいどういうことなんだ?」

 ワケがわからなくて、実川と香穂の顔を交互に見つめていると、香穂は俺が手にしていた楽譜をそっと抱き寄せた。

「土浦くん、いってらっしゃい」
「おい、お前、これって……」
「土浦、行こうぜ?」

 振り返ると、グラウンドには、サッカー部のみんなが立っている。
 本格的に対戦するつもりなのか、緑と黄色、二種類のゼッケンがはためいている。
 ざっと見て、10人くらいか。ミニゲームをやるつもりなのだろうか。

「あのね、話の続き。私がなにができるだろう、って考えてたときに、ちょうど実川くんも同じこと、思ってたんだって。
 それで、なにかできないかな、って話をしていたら、『やっぱり土浦にはサッカーだろ?』っていう話になって」
「香穂……」
「今日は私、サッカーをしてる土浦くんを応援してる。頑張って!」
「おーい。つっちうらー! 早くやるぞーー! 日野に格好いいとこ、見せてやれよ」
「なんだよそれ。了解。今、行く!」

 早速パーカーを脱いで駆け出さんばかりの俺に、香穂は一言、心配そうに声をかけた。

「ケガだけはしないでね」
*...*...*
 久しぶりにやるサッカーは、遠慮なく俺の今の身体の状態を伝えてくる。
 運動不足だとは思っていたが、ここ最近の俺は、身体を動かすことよりも、音楽にだけ関心が向かっていたからな。
 自分の身体の声なんて聞く余裕もなかった。

 気持ちのよい風が俺の身体の横を通り抜けていく。
 仲間が挙げる歓声。追いかけるボールの色。
 時折、自分の鼓動と息づかいに混じって、香穂の奏でるヴァイオリンの音がする。

「よぉ。土浦。今日はリフレッシュできたかー?」
「実川。……サンキュ」
「俺たちはともかくさ。身体動かしてない日野はかなり寒いんじゃないか?
 そろそろボールも見えなくなってきたし、今日はこれで終わろうぜ?」
「了解。この借りはまた今度返す」
「いんや。音楽科に行っても頑張ってくれよ。今日のゲームは俺からのはなむけ? なーんちゃって!」

 屈託のない実川の顔は晴れやかで、俺の気づかないうちにサッカー部の部長としての風格を漂わせている気がした。

 そうか。
 俺が音楽の世界で、この季節の木々のように枝を広げている間に、
 実川は実川で、サッカーの世界で技術を磨き、後輩を育ててここまできたんだ。

 みんな、自分の持ち場でやれるだけのことしている。
 大学へ進んだ2人の先輩も。
 ウィーンへ飛び出していった月森も。
 って、先輩たちはともかく、月森はなにかと気にかかる存在でもある。
 あいつ、生活の基本である、食べることはなんとかなっているのか?

「香穂! 悪い! 待たせたな」
「ううん? 土浦くん、楽しかった?」
「当たり前だろ?」

 息を切らせて最後のダッシュだ、と言わんばかりに一気に香穂のいる場所まで走っていくと、
 香穂は晴れやかな顔をして俺を見上げた。

「なんだ、お前、寒そうな顔して」

 俺がいない間に使うことに遠慮があったのだろう。
 俺のパーカーはキチンと畳まれたまま、ベンチの一角を守っている。
 俺はそれを手に取るとふわりと香穂の肩にかけた。
 だけどそれだけでは、気持ちが収まらなくて、そのまま香穂を胸の中に抱きかかえる。

 ── こいつがいてくれて、良かった。

 香穂と。気の合う仲間と。そして、音楽と。
 今、俺の周りにはかけがえのないものがある。

「土浦くん。明日も晴れそうだね」

 香穂は俺の胸に頭を預けたまま、嬉しそうに一番星の出ている西の空を指差した。
 夕焼けなんてそれこそ何十回と見ているはずなのに、香穂の指し示す天空は、桜のような優しい色をして、俺に迫ってくる。

「ねえ、知ってる? この季節の夕焼けの空をね、『桜雲』って言うんだって」
「香穂……」
「……土浦くんと一緒に見ることができてよかったな」

 ぽつりとつぶやく香穂の横顔が、ただ言いようもなく美しくて。

 さっき香穂が奏でていた旋律を思い出す。
 笑い合った実川の顔も。長柄の大声も。
 俺を支えてくれるこいつらの気持ちに、なにかできたらいい。

 俺1人ができることは限りがある。だったら、1番俺の好きなことで返していくしかないだろう。



 ── 今、俺の中に新たな旋律が生まれる。