*...*...* 桜貝  *...*...*
 俺は部屋の片隅にうず高く積み上げられてある荷物を見て、1日に数え切れないほどのため息をつく。
 一体なにを俺は迷っているのか。

 俺の選択に過ちはない。

 俺は今までの俺の17年を振り返る。
 両親が楽しそうに音楽に触れている背中を見て、ヴァイオリンを始めたのが3歳の頃。
 そして小中学生の間中、ヴァイオリンのレッスンを生活の中心に置いた生活をしてきた。
 そして第一志望の星奏学院に入学。在学中にヴァイオリンの研鑽を積み留学。できればウィーンへ。
 そして叶うことなら父が師事した先生を俺も師事する。

 しかし、俺の選択の正しさを思えば思うほど、浮かんでくる悲しみにも似た感情はなんなのだろう。
 ── 俺はどうすれば良かったのだろうか。

 そこまで考えて目に浮かぶのは、たった1人の人間。
 彼女は華奢な背中のラインを逸らして、ヴァイオリンと戯れている。
*...*...*
 香穂子に留学することを告げてから、俺と香穂子は、会える時間すべてを自分たちのためだけに注ぎ込んでいた。
 俺と香穂子とを繋げているものはやっぱり音楽だ。
 そう考えていた俺は不器用にも、学院が休日で会えない日も、学院を待ち合わせ場所にして会っていた。
 休みの日は、なんとなく物足りなさそうな顔をしている練習室に2人で入り、あらゆる曲を共に弾く。
 弾くたびに音色は変わり、俺は香穂子にますます得難い資質を感じ取っていた。

 そんなある日、午前中いっぱいヴァイオリンを奏でていた俺たちは、昼休みにカフェテリアへと向かった。
 休みにもやってくる生徒と職員のためか、休みの日のカフェテリアは規模を縮小して、簡単な軽食を出してくれる。
 楽器に触れる人間は、食べ過ぎてもいけないし、食べなさすぎてもいけない。
 俺たちはメニューを見比べ、2人が食べられそうな料理を分け合って食事を取った。

「……そうだ。あのね。月森くん。これ、受け取ってくれるかな?」

 食事を終えると、香穂子は、そっと制服のポケットの中からなにかを取り出した。
 向かい合わせに座るのではなく、お互いの隣りに座る。
 そんなささやかな彼女の気遣いが、また俺を喜ばせたりもする。
 遅めに着いたカフェテリアは俺たち以外に人影もなく、春の木々が芽吹く音さえ聞こえてきそうな穏やかな静けさが漂っている。

「なんだろうか?」
「笑われちゃうかも、だけど」

 はにかみながら香穂子がポケットから出したものは、小さな2つのガラス瓶だった。
 その中に目を凝らしてみると、桃色の輝く破片が何枚か入っている。
 中に入っている淡い色の桜貝は、揺れるたび乾いた音を立てて、俺に話しかけてくる。

「これを?」
「うん……。私もほら、半分ずつ、して」
「これは?」
「……うん。私、1人で取ってきちゃった。ダメだよ、って月森くんに言われてたのに」

 以前2人で海辺に出掛けたとき、香穂子は砂の中に埋もれていた桜貝を取ろうとしたことがあった。

 香穂子は、例外的とも言えるような理由でヴァイオリンを弾き始めた。
 始めた時期も遅い。だからだろうか?
 ごく普通のヴァイオリニストがするであろう配慮がまったくできていないと感じることが多々ある。

 この桜貝も、もしかして、彼女自身が?
 疑うような俺の視線に気づいたのだろう。
 香穂子は首を振ると、包み込むような優しい顔で俺のことを見つめていた。
 なんの迷いもないような、安らかな表情に俺は母の面影を見る。

(母さん……)

 母の手の内側の、白く腫れあがった傷跡。
 身内にはわかる、傷をかばうような音色が思い浮かぶ。

「えっと……。あ、あのね。これはね。ちゃんと手袋を着けて取ったの。本当だよ?」

 香穂子は、俺が黙りこくったことに不安を覚えたのだろう。
 早口で言い募ると、手にしているガラス瓶を握り締めた。

「いや。こういうときは素直に礼を言うべきなのだろう。── ありがとう」

 俺は香穂子の手ごと、身体を引き寄せると、そのまま香穂子の頭を自分の胸に押しつけた。

「指には嫌な思い出がある。聞いてくれるだろうか?」

 何度も音を合わせていて。
 同じ時を共有していてもなお、俺がこうして香穂子の身体に触れること、というのに、彼女はまったく慣れていない。
 俺自身もそれほど器用な方ではない、となると、触れ合ったところから伝わる香穂子の体温だけが頼りだったりする。

「俺が幼い頃。……そうだな、俺自身の記憶もない頃だから、本当に小さい頃だろう。
 ふと母が目を離したすきに、俺はテーブルに置いてあったグラスに手を伸ばした。
 ほんの小さな赤ん坊だったから、振れば音がするとでも思ったのだろう。
 何度かグラスをテーブルに打ちつけて、グラスは割れた」
「うん……。それで?」

 続きが気になるのだろう。
 身体が触れ合っているという恥ずかしさを忘れたかのように、香穂子は俺の腕の中 まっすぐに俺を見上げた。

「それを見つけた母は、俺の手をかばうために、割れたグラスに手を伸ばした。
 そのときの傷が、まだ母の指に残っている」
「月森くん……」
「もちろんそのときの俺を母が責めたことは一度もない。
 だが、母の音色を聞くたびに、いたたまれないような、暖かいような、不思議な気持ちになる」

 母と音楽。
 母も音楽を人生の友とも師ともしてきた人間だ。
 音楽を作る自分の指の大切さは俺以上に分かっていたはずだ。

 だけど俺と指のどちらを選ぶかという状況で、ためらいもなく俺を選んでくれたことに、俺は胸奥が熱くなる気がする。
 そして今の俺は香穂子に対して、母と同じような気持ちでいることも自覚している。

 ふとシャツに湿り気を感じて、香穂子の髪をかきあげると、彼女は静かに泣いていた。
 人が泣くのをこれほど間近に見たことは初めてだったが、彼女の泣き顔は笑顔以上に綺麗で、
 俺は自分でも気づかないうちに、頬を滑り落ちる涙を吸い取っていた。

「香穂子。よく聞いてほしい」

 ── だけど、こんな簡単なことでさえ、3日後の俺にはできなくなるんだ。

「俺は君になにも残してやれない。約束も。身体も。声も。
 『近くにいる』
という恋人なら当たり前のことさえもできない」
「ううん。そんなっ。私……」
「── それでも。ただ、君を覚えている。君の音色や、後ろ姿や、笑った顔を。
 ……それだけではダメだろうか」

 人慣れしていないこんな俺の行動を、加地あたりなら、からかうかもしれない。

 香穂子について思うこと。考えること。
 それは心躍る反面、苦悩も大きくなる類のものだったと今でも思う。

 誠実であるということはなんなのだろう。
 そして音楽を極めるということはどういうことだろう。
 愛しいと思える相手と、音楽。双方を同じ位置づけで語ることができない以上、両者を比べるのは無意味だ。

 だが、香穂子が俺の目指している音楽の世界に、ともに歩んでくれるなら。
 俺と香穂子の道は、いつかまた交差する日が来るかもしれない。いや、その日が来てくれることを願っている。

「好きだ。香穂子。君が好きだ」
「月森くん……」

 この気持ちはエゴなのだろうか。不安が俺の中で溢れそうになる。
 そのとき、香穂子の明るい声が耳に届いた。
 顔を見つめると、香穂子は涙を流しながらも力強い目をして微笑んでいる。

 その光景に、記憶がよみがえる。確かあれは……。そうか、記憶は音になって溢れてくる。
 『流浪の民』だ。
 土浦とケンカをした俺を何日も必死に説得してるときの香穂子の目と一緒なんだ。

 香穂子はそっと俺のこめかみに唇を落とすと、泣き笑いの表情を浮かべて。
 一言一言自分に言い聞かせるかのように落ち着いた声で話し始めた。

「月森くん。私ね、ヴァイオリン、頑張る」
「香穂子……」
「それしか、今は、言えないよ。
 『行かないで』って言えないの、分かってる。だから……」

 嗚咽が止まらなくなったのか、香穂子の唇の端がヒクヒクと震えている。
 落ち着かせる方法もわからないまま、俺は自身の唇をそこに押しつけた。
 柔らかな彼女のそこは、怯えたように一瞬堅くなったあと、やがて俺の動きのままに形を変える。
 そんなところさえも愛しくて、俺は何度も香穂子のそこを愛撫し続けた。

「待ってて。私、ウィーンへ行く。私のヴァイオリンの先に月森くんがいてくれる、って信じてるから」

 彼女の長所を挙げろ、と言われたら、彼女のさまざまなところが浮かんで、それこそキリがないだろう。
 だけど俺が1番愛して止まない部分、それは、俺が持っていない、この未来を信じる強さだと今は思う。

 香穂子によって知り得た、仲間とのつながり。
 5人と奏でたアンサンブルは、今も、そして、これからも、俺の拠りどころになる。

 愛撫が過ぎたのだろう。腕の中の彼女は溺れかかった人間のように荒い息を繰り返している。

「……苦しいよ。月森くん」
「いや。……すまない。だが……」
「月森くん?」
「── 止められないんだ」



 俺は香穂子の存在を自分自身に知らしめるために、再び香穂子に口づける。
 また2人が出会う未来において、今のことを懐かしく思い出すために。
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