*...*...* 桜湯  *...*...*
「どうだった? 初めての茶の湯は?」
「あ、足が……っ。すごくジンジンして痛いです」
「おや? 痺れたの?」
「はい。あまり正座をしないからかな。思ったより、身体って重いんですね」
「コツがあるんだよ。途中でそっとつま先の上下を入れ替えるんだ」
「そ、そうなんですか」

*...*...*
 香穂子のピアノのレッスンを見るという名目で、香穂子を俺の家に呼んで。
 有益な時間の過ごし方をしたあと、俺はふと茶席に香穂子を誘った。
 昨日ちょうど到来物の和菓子が届いたことが1つ。
 それに、ピアノの部屋から見える中庭の桜がいい風情だったからだ。

「今日は、いつもとは違うお点前でしたね。驚きました」
「そうだね。いつもお抹茶というのも、お前もつまらないかと思って」

 春の茶の湯。季節を重んじる華道、茶道は、ちょっとしたところで遊び心を出すのが面白い。
 そう考えている俺は、香穂子に出した薄茶とは別に、別の椀で桜湯を出した。
 毎年、梅が散り、桜が咲き始める頃、愛しげに幹に触れながら、母は桜の塩漬けを作っている。

『五分咲きで摘んでしまうのも可哀想ね』

 流水で洗い、がくの部分を丁寧に取り除き、梅酢と塩で漬け込む。
 そんな日の母の指先は、ほのかに桜の色がついていて、俺は自分に似た手の形に改めて見入ったりもした。

 ── 摘んでしまうのが可哀想、か。

 だとしたら、先日香穂子を手折った俺は、さながら花盗人、とも言えるのかもしれない。
 だけど、想像以上に愛らしい香穂子の身体を知ることができたという喜びは、俺の中にどんな呼び名も許せる余裕を生んでいた。

「わ、可愛い……」
「季節をいとおしむ気持ちを持っている、というのは大切なことだよ。
 細やかなことに気づくという感性は、必ず音にも反映させられるものだから」

 蓋を取るまでなにが入っているのか不安だったのだろう。
 おそるおそる茶托を取り上げ、上蓋を取った香穂子は、桜が椀の中を泳いでいる様子を見て嬉しそうに顔を上げた。

「どうぞ。お好きに」
「あ、は、はい! いただきます」

 さっき出したお点前が本茶だとすれば、今回の桜湯は略茶とでもいうのか。
 お遊び的な位置づけに、普段の礼法よりやや軽めに頭を下げると香穂子もつられるように一礼し、桜湯を口に含む。

「不思議な味ですね……。ちょっと塩気があるというか。良い香りがします」
「そう?」

 独特な味に驚いたのだろう。
 香穂子は一瞬不思議そうに首を傾げた後、再び口をつけて飲み干した。

 俺は正客に向かって一礼すると、立ち上がって柔らかな光が差し込んでいる障子に歩み寄った。

 こうして、2人でいることで、2人で共有する時間を増やす。
 共有した時間というのは目には見えない。今まで俺は、目に見えないモノを信じていなかった。
 もっと分かりやすいもの。
 点数、だとか成績、だとか。入賞、入選。人から評価される存在をとても価値あるモノと思っていたのに。

 香穂子に会ってからは、逆に、目に見えないものの方が大切なのでは、と思うようになった。
 香穂子と過ごす、一瞬一瞬を繋げていけば、それは未来に繋がって。
 もっと繋げれば、香穂子との絆になると、今は素直に信じられる自分がいる。

 ── まったく。おかしなものだよ。

 ようやく脚のしびれが落ち着いたのだろう。
 香穂子はほっとした様子で立ち上がると、恥ずかしそうに俺の横に立つ。
 柔らかな桜湯の香りが、香穂子の身体にまとわりついている。
 咲き初めた桜のような頬を見つめていると、その頬の持ち主は不満げに唇を尖らせた。

「柚木先輩はずるい」
「は?」
「弱点、っていうのかな。弱味、っていうのかな。そういうのが柚木先輩には、なに1つないんだもの!」
「おやおや。いきなり なにを言うかと思えば」

 香穂子を知ってから少なくない時間が流れているというのに。
 目の前の少女は、ときどき俺の想像の範囲外の反応を返したりするから、見ていて見飽きるということがない。
 俺は小さく微笑むと、香穂子の髪をかき上げた。

「弱点ね。普通、弱点っていうのは、人に見せる存在ではないでしょう?」
「え? 柚木先輩に、弱点ってあるんですか?」
「まあ、俺も人並みの人間だからね」

 元来、身体を動かすことは好きではなかったが。
 自分の不得手なもの、自分にふさわしいと思わないものについては、最初から競う、という努力をしてこなかった、とは思う。
 身体もそれほど丈夫ではない。
 火原や冬海さんのように、小学生の頃は皆勤賞などとは無縁だった。

『仕方のないこととはいえ、病んでいる方がいらっしゃると、家中の空気が沈み込みますね』

 俺の病気の原因が母であるような口ぶりで、母を責めていた祖母の声を思い出す。
 じわりと熱を帯びた身体を、どこかに捨ててしまって、感情だけはしがらみに囚われず、空を飛べたらいいのに。
 と、幼い頃の俺はどれだけ願ったか知れない。

 今の、俺の、弱点、ね。俺は我が身を振り返る。
 ……まあ、ないわけでもない、というところか。

「おや?」

 ほころび始めた桜から香穂子に目を移すと、そこには、真剣な表情を浮かべた香穂子がいた。

「なに? 香穂子」
「柚木先輩の弱点、教えてください! 絶対」
「は?」

 思いがけず、じっと正面から見つめられて俺の苦笑も引っこむ。

「どうしても?」
「はい! どうしても、です」
「さっきも言ったでしょう? 弱点、って普通は隠す存在だ、って」

 諭すように伝えると、香穂子は一瞬だけ首をかしげて、すぐさまパッと笑顔になった。
 くるくると変わる表情に、また、こいつの好きなところが1つ増えた、と思ったりする。

「わかりました! じゃあ、私、内緒にします。
 火原先輩にも、天羽ちゃんにも、絶対誰にも言いませんから」
「そういう問題でもないだろう?」

 その場の空気を変えるために、俺は障子を開けて庭に目を遣る。
 白く霞がかった空の下、うっすらとほころび始めた桜は、まだ未熟で小さな女の子に見えてくる。

「もう……。柚木先輩?」
「やれやれ」
「どうしても、ダメですか?」

 俺は大げさにため息を1つついて、香穂子の腰を引き寄せた。

「……お前だよ」
「はい?」
「弱点は、お前。俺はいつだってお前にはかなわないよ」

 鋭いところと鈍いところが、両極端に存在している目の前の女の子は、ようやく俺の言っている意味を解すと、ほのぼのと頬を赤らめている。

「柚木先輩ったら、また、冗談言って……」
「へぇ。冗談だと思うの?」
「た、多分!」
「だったら、試してみる?」

 俺はそっと香穂子のあごを持ち上げる。
 まだ、俺の行動に慣れ切ってないのだろう。
 香穂子はぴくりと身体を強ばらせると、赤らんだ頬を隠すように顔を背けた。

「香穂子。いい子だから、身体の力を抜いてごらん?」

 背中に回した腕に力を込めると、香穂子は観念しきったようにそっと目を伏せる。
 柔らかな唇。そして、唇の中にひっそりとたたずんでいる、怯えたような舌。
 抱いたあとになっても、完全に香穂子自身を掌握できたとは言えない自分の状況に、さらに香穂子への想いが募る。
 早く俺に慣れて欲しいと思う反面、こういう初々しい香穂子を見るのも悪くない、と思えてくるから、余計、始末に負えない。

「あ……っ」

 ひんやりとした香穂子の唇が、俺と同じ温度になったのを感じた頃、俺はようやく唇を離した。
 苦しそうに香穂子は肩で息をする。
 管をやる人間はブレスの練習も勉強のうちだから、知らず呼吸法も身につくが、弦の人間はその限りではないのだろう。
 乱れた呼吸さえも愛しく感じられて、俺は香穂子の赤らんだ耳朶を甘噛みする。
 ── もっと、俺に乱されればいい。

「ねえ、俺がさっき言ったこと、お前は覚えてる?」
「な、なんでしたっけ……?」
「俺に無理矢理言わせた罰。言ったでしょう? 弱点は隠すって」
「はい……」
「── 隠すし、俺のものにする」


 静寂が支配している部屋の中、俺はボタンを外す音を満足げに耳にする。
 シャツの間から飛び出す頂きはきっと、さっき見た椀の中の桜色をしているだろうと思いながら。
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