*...*...*  Embrace 4  *...*...*
「香穂。どこだ! 香穂!」

 2段飛ばしで階段を駆け下りる。
 あたりはしんと静まりかえっているところを見れば、香穂はこの階にいるハズ。
 出遅れたのはほんの数秒だ、っていうのに、見渡した廊下に人影はない。
 そんな俺をあざ笑うかのように、オレンジ色の夕焼けの中、細かいホコリが舞い上がっては落ちていく。

 あいつの脚じゃ、それほど遠くまで行けない。
 だとしたら、このフロアにある5つの教室の中のどこかにいるはずだ。
 廊下から見る教室はどれも無機質で無表情だ。
 俺は1つ1つすべての教室のドアを開け、香穂の名前を呼び続けた。
 4つ目の教室。5つ目の教室。すべての教室にアイツはいない。
 香穂は今、何を考えてる? 何を思ってる?

「香穂?」

 この階にいる。俺の直感を信じて、俺は再び西の端の教室を覗き込む。
 すると香穂は、教室の一番後ろの窓側で、俺を含む何もかもを拒絶するかのように背中を見せてしゃがみ込んでいた。

「香穂……。探したぜ。心配した」

 俺の声に驚いたのだろう。香穂はピクリと肩を震わせたモノの、振り返ることも立ち上がることもしない。

「話そう。お前も、聞きたいことあるだろ? 俺も話したいこと、ある」

 早足で香穂に近づく。
 そして目線を合わせるために、しゃがみ、肩を持ってこちらを向かせようとしたら、悲鳴のような小さな叫び声がした。

「見ないで! 私、醜い顔してる」
「香穂。何言ってるんだ。顔、見せてみろ」
「いや」
「香穂」

 香穂の小さな背中が、小刻みに震えながら泣いていた。

「私はもう、土浦くんが好きになってくれたときの私じゃない!
 いろいろなこと、言い出せなくて。一生懸命伝えても、伝わらなくて。自分の中で言葉ばかり探してる」
「落ち着けって、少し」

 背中越しに抱きかかえると、香穂は腕の中でずっともがき続けている。
 そうすることで自分の中のよりどころを探しているみたいだ。
 俺は腕をゆるめることなく、ずっと香穂の頭のつむじの部分に口づけていた。

 よくわからないが……。

 日頃、穏やかな香穂がこんな態度を俺に見せるのは初めてで。
 そして、もっと言えば。
 香穂をこんな風にさせる原因を作ったのも、多分、俺だ。
 さっきの井上とかいうヘンな後輩のこともそう。
 そして、香穂はまだ、それ以外に俺に、言い出そうとして言い出せなかったことがいっぱいあるんじゃないか?
 そんな気がしてくる。

 俺は教室の床に あぐらをかくと、脚の間に香穂を座らせた。
 なんか、幼い女の子とその親父、みたいな風景だが、体格が違う以上しょうがない、ってもんだ。
 香穂のなめらかな曲線は、ダイレクトに俺の一部分を勢いづかせる。
 それに気づいた香穂は怯えたように身体を反らせたが、俺はかまわず抱き続けた。

「俺……、さ。知ってるだろ? 俺の中学の話」

 香穂は顔を上げようとしない。
 泣き顔が恥ずかしいから、なんて理由ならこの場合は嬉しいが、聞きたくない、ってことなら絶望的だ。
 だけど、ちゃんと伝えなきゃ、なんだって始まらない。男と女の間はなおさらだ。
 中学のときの女は、そんな教訓を俺に教えてくれた。
 イヤな記憶ってモノも、案外、これからの俺の味方になってくれるのかもしれない。

「俺さ、自分ではしっかりしてるつもりなんだ。事実、男のヤツらとは上手く行ってる。そんなにトラブルもないんだ。
 唯一、気に入らなかったのは月森だったが……。それでも今になってみれば、あいつと俺はちゃんと繋がってる、と思ってる」

 汗か涙か。シャツの中、生暖かい雫が伝っていく。
 どちらにしても、声を殺して泣いている香穂に、俺はどうしようもない愛しさを感じた。
 少しずつ抵抗が弱まってきたことをいいことに、俺は香穂に回していた腕をゆるめて、乱れている香穂の髪をなで続けた。
 なにがこんなにコイツを苦しめてるのか。
 さっきのバカな女の話か。それ以外にも何かあるのか。
 俺は上唇を舐めながら口を開いた。

「俺……。もう、言葉が足りないことで、お前を失うのはいやなんだ。
 ずっとそばにいて欲しい。……お前以外は考えられない」

 香穂は疲れ切ったのか、ぐったりしたように俺に身体を預けている。
 香穂の目の色が見たくて、俺はあごに手をあて、そっと香穂の顔を持ち上げた。
 熱で潤んだ目が、これ以上の涙をこぼさないようにと必死に堪えている。

 ──── 口でなかなか言い出さないヤツだから。
 いや、それは正しくない。
 もしかしたら、俺が、香穂が言い出せない空気を作っていたのか?
 俺と付き合い出してから、こいつはこんな風に、俺の知らないところで泣いてたのだろうかと考えて、胸の奥が焼けるような気がした。
*...*...*
 西の空で虚勢を張っていた太陽は、やがて夜の重みに耐えられなくなったかのようにビルの間に消えていった。

「おーい。お前さんたち、みんな帰ったかーー? なに? 『帰ったーー』ってか? そりゃ上等上等。
 この金やんがどんどんカギ、閉めていくぞー。はははのはーーっだ」

 今日は金やんが下校確認係だったのだろう。
 のんきな歌声を響かせながら、教室に鍵をかけていくのがわかった。
 ちょうど死角になっていた俺たちは、息を潜めて金やんが1階に行くのを待った。

「香穂。もう、落ち着いたか?」
「うん……。あの、ごめん」
「いいって。気にするなよ」
「……優しいんだ。土浦くん」
「お前限定だけどな」

 俺の言葉に香穂は、ようやく笑顔になると、そっと俺に顔を寄せる。
 こいつからのキスは珍しいよな、と頬を近づけると、香穂は子どものような仕草でそっと自分の頬を頬に押し当ててきた。
 その仕草はひどく愛らしくて、俺はココが教室じゃなければ、と一瞬歯ぎしりをする。

 そのとき思った。
 香穂は面と向かってNoとは言わなかったけど、最近は2人きりになればいつも大した話もしないまま、抱き合っていた。
 いや、抱き合っていたというのは不正確で。
 待てよ。そうじゃない。
 もっと はっきり言えば、……俺は俺の欲望だけを香穂に押しつけていた?

「香穂……。さっきの女のこと、気になるか?」
「うーん……。負けそう、っていうか、負けっ放しだなあ。私」
「は?」
「だって、あの子まだ高1なのに、すごく大人っぽいんだもの。色っぽい、っていうのかな」
「そうなのか? 俺は全く興味がないから」
「うん……」
「俺はお前がいればいい」

 すっかり朱くなった鼻が可愛くて、俺はぱくりと噛みついた。
 こういうことをするから、話がなかなか進まないことは自分でもよくわかってるんだが……。
 何しろ俺の豹変ぶりには俺が一番驚いてるんだから、仕方ない。

 くすくすと笑い出す香穂の目尻に涙が溜まっている。
 泣いていたことを少しでも遠くにしたくて、俺は舌を尖らせて滴を舐め取った。
 ダメだ。香穂といると抑えが効かない。いつもそうだ。

 自分の中の高ぶりを1度空に放り出さないことには始まらないんだ。
 俺は飽きることなくいろいろな愛撫を繰り返しながら、香穂が口を開くのを待った。
 ときどき何度か携帯がメールと着信を知らせたが、そんなことはどうでも良かった。
 香穂はやがて深いため息を1つつくと、ぼそりと小さな声でつぶやいた。

「あのね……。土浦くん。私、今から憶測で酷いこと言う。もし、本当のことだったら、私、ちょっと考える時間が欲しい」
「は? なんだよ。いきなり」
「土浦くん、……都築さんが、好き?」
「は??」

 香穂は早口になって言い足した。

「その……。都築さんがつけている香水、素敵だよね。私も以前聞いたことがあったの。どんな香水なんですか? って。
 背伸びしたかったの。都築さんの香水を私がつけたら、都築さんみたいになれるかな、って」

 都築さん? 香水?
 いきなりの話で面食らった俺は相づちも打てずに、黙って香穂の話すのを待っていた。

「そしたらね。『これは専門家の方に作ってもらったオリジナルブランドよ』って」
「それがなんなんだ? 一体」
「──── ときどきね、土浦くんの身体から、都築さんと同じ匂いがするの。だから……。
 辛かった、かな。そんなとき、土浦くんに抱かれるの」

 そのときのことを思い出したのだろう。
 1度せき止めていた香穂の涙は、また はらはらと溢れ出てきた。

「お前、俺がときどき大学の図書館行ってるの、知ってるだろ?」
「ん……」
「都築さん、指揮科だろ? 何度か読んでる本についてレクチャー受けることがあったんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「じゃあ、じゃあ、どうして話してくれなかったの? たくさん私、心配して……」

 香穂の問いに、俺は改めて今までの行動を振り返る。
 どうして話さなかったか? どうして俺は香穂に伝えなかったのだろう。
 別に報告しろ、っていうワケじゃない。それはわかってる。
 だけど、香穂も都築さんも知らない間柄じゃない。
 もっと雑談レベルで、香穂に伝えてもよかった、のだろうか?

 だが……。俺と香穂の間には、音楽の話。クラスメイトの話。普通科のヤツらの話。
 それ以上に、確かに手段は問われるかもしれないが、『好きだ』という気持ちを伝えることに時間を取られて、
 都築さんの話は後回しになっていた、といってもいい。

 それにしても、『匂い』、か。
 都築さんの香水は確かに、その手のことに疎い俺でもわかるくらい強い香り、だった。
 一方の香穂の香りは、といえば無色透明。
 たまに感じる甘い香りは、香穂本人の匂いだろう。

 もしかして、この前抱いたときに見た香穂の涙は、コレが原因だったのか?
 それに引き替え、俺はどうだ。
 もし、香穂が無理矢理にでも他のヤツらに抱かれてしまったら。
 俺は別の男の匂いがするこいつを抱くことができるだろうか?
 嫉妬に狂って、香穂が壊れるまで何日でも自身を香穂の中に放ち続けるだろう。

「ごめんね。私、落ち込みそうだよ。こんな自分、大嫌いだ」
「なあ。この答え、さっきの答えと同じでいいか?」
「同じ??」
「──── 俺は、お前がいれば、それでいいんだ」

 制服の上から香穂の胸のふくらみに手をやる。
 ちらりとさっき見たバカな女のふくらみを思い出したが、俺の手に納まるコイツの胸は俺にしっくりする。
 やや上気した顔を見せながらも、感じることを抑えているような声に、俺は抑えが効かなくなってくる。

「香穂……。頼みがあるんだ」
「なあに?」




「……こんな風に溜め込む前に、言ってくれ。どんなことでも話を聞くから」
↑Top