*...*...*  Star 2  (Eto)  *...*...*
 少しでもヒアリングの足しになるかと思ってつけっぱなしにしているテレビが、新発売のスナック菓子のCMを流している。
 日本のお菓子は、ヤケに弟にウケがいい。
 ま、パッケージもこじんまりしてて友だちにもシェアしやすいし、なにより、美味しい。
 またコンビニで良さそうなものを見繕って、あいつに送ってやるか、なんて兄貴じみたことを考えたりする。

『衛藤くん! これ、絶対弟クン、喜ぶよ?』
『って、あんた、自分の基準で選んでないか?』
『えへへ。バレちゃった。だけどね、本当に美味しいんだよ? あとで衛藤くん、一緒に食べよう?』

 そうだ、5月頃、1度弟に菓子を送るときは香穂子に付き合ってもらったんだったな。
 あいつ、自分には妹や弟がいないから、ってすごく喜んで。
 自分の好きな菓子を山盛りカゴに入れては、俺に叱られてたっけ。

「そうだ、香穂子……」

 携帯を取り上げた手は、ピッと香穂子のアドレスを表示したまま止まる。
 そういえば、あいつとはあれきり、ロクに話ができてない。
 いつもだったら、軽く2人で夕食を取って。
 2人の気分が盛り上がれば、そのまま近くの街頭でデュオ、って流れになったのに。

『アメリカへ帰国するのも悪くないかな』
 
 あのときの、香穂子の傷ついた顔が忘れられない。
 なんて。どうして俺はこう、言わなくていいことを言ってしまうんだろう。

 おれはそのCMから逃げるように、日頃つけたことない国営放送……こっちで言えばNHKか。それにチャンネルを合わせる。

 そうだ。別に香穂子とケンカした、ってワケじゃない。
 俺からいつもみたいに電話して。メールすれば、あいつだっていつもどおり俺に笑ってくれるだろう。

 だけど、今は、香穂子を傷つけた自分自身が1番許せないって感情が強い。
 いや、もっと言えば。正直に言えば。
 俺が帰国するって言って、あいつがあんなに傷ついた表情をするなんて思わなかった、というのが正しいのか。

 自己嫌悪でペシャンコになっている上に、さらに山内先生の言葉もリフレイン。
 昨日、今日とまったく手にしてないヴァイオリンまでも、恨めしげにこっちを見てくる。

(香穂子……)

 テレビを見れば、あいつが頭に浮かんでくるし。
 ヴァイオリンを見ればあいつを思い出すし、弟だ、コンビニだ、って言ってもあいつを思い出す。

「うん……? この曲?」

 日本の国営放送は、ノンキにN響のクラッシックを流している。
 目よりも正確に、耳はかすかな旋律を追いかけ始めた。

 ──── これは。

「はい〜。これは、ヴィヴァルディの『春』ですね。こう重厚感がある仕上がりになっているというのか」
「ええ。ヴィヴァルディは『春』が有名ですが、春以外にも『夏』、『秋』、『冬』と4つの楽章からなる組曲なんです。
 ここでは、春の優美さを表現するために、『冬』の触りから音を持ってもっていっていますね。つまり……」

 ヴィヴァルディの『春』は、高3の香穂子がこの春、高1の俺たちの入学式に演奏した曲。
 初めはなんでこんなありふれた音を出す演奏者が、星奏の代表に選ばれたのだろう、と思った。
 満足そうな笑みを浮かべた暁彦さんの横顔を思い出す。
 その答えは香穂子の演奏が終わったときにわかった。
 柔らかな旋律の中にある思い。
 それは、香穂子の、新入生に対する祝福の感情だったんだってことに。

「あーー! もう!!」

 なんだ、こういう状態って確かあいつから聞いたことある。確か、数字を使う言い方で。
 ──── そうだ、『八方ふさがり』って言うんだった。

 こうなったら、とテレビの電源を落とそうとした瞬間、番組が変わる。
 今度は、『正しい日本語について』
 なんなんだ。日本って、こういう教養番組ばかり流すのか。
 ゴシップがメインのABC放送とはエラい違いだな。

「では、今日のレッスン。同音異義語について。今日は『聞く』と『聴く』について勉強しましょう」

 そのフレーズに俺の手が止まった。
*...*...*
 今、あいつはどこにいるんだろう。
 ケータイに連絡をしてみたけれど、出たくないのか出るヒマがないのか、香穂子のケータイは無機質な留守番電話に代わった。

 俺は、ケータイとヴァイオリンケースだけを手に、真っ直ぐ学院に向かう。
 学院と香穂子の家は近い。
 もし学院で香穂子を探していないなら、直接自宅に行けばいい。
 別にセンサーが付いているわけじゃないけど、俺は香穂子に関しては妙に勘が冴えるから。
 多分、あいつは、学院。
 ケイイチだかカホコだか、すっかり仔猫とはいえないくらい大きな猫たち相手に、ヴァイオリンを鳴らしてる。
 その情景が、昨日見た映画みたいに頭の中でリピートする。

 泣いて、ないだろうか。
 俺の不用意な言葉で、悲しんで、ないだろうか。

 俺の思い過ごしなら、いい。

 だけど、2人の関係が1歩前進した今、もし俺が香穂子からそんなことを言われたらどうだろう。
 俺は、かなり傷つくだろう。
 それも、俺が自分で感じている以上に、傷つくだろう。

 そんな言葉を、不本意にも俺はあいつにぶつけてしまったワケで。

「香穂子……」

 夏の日差しを一身に浴びて、眩しそうに眼を細めているファータ像を横目に見ながら、俺はまっすぐ森の広場へ向かった。

 ──── そうか。これが山内先生の言っていた『恋』なのだろうか?
 恋愛の楽しいところ、嬉しいところばかり見ている恋は、実は恋なんかじゃなくて。
 こいつの悲しそうな顔を見たくない。傷つけたくない。
 そう願うのも、恋の本質なんじゃないか、って。

 ひょうたん池の最奥。ここだけは、真夏のこの季節でも、どこか肌寒い。
 ほっそりとした赤毛の女の子が1人で、ヴァイオリンを鳴らしている。
 いや、1人っていうのは違うかな。
 近づくと、香穂子の足元には、2匹の猫が旋律に合わせてのんびりしっぽを振っている。
 俺は香穂子の演奏が一区切りつくころ、そっと背後から抱きしめた。

「……つかまえた」
「わ!! え、衛藤くん!?」
「分かれよ。俺がこんなことするのは、あんただけなんだから」
「どうしたの? 突然……」
「突然? ああ、あんたにとっては突然かもな。でも俺はずっとあんたのこと考えてたから、全然突然って感じがしないよ」

 香穂子は、そうなの? と小さく笑うと、俺の方を振り向こうとする。

「ちょっと恥ずかしいから、このまま黙って俺の話聞いて。……俺、今、テレビで、『聞く』と『聴く』について1つ勉強してきた」
「はい? キクとキク?」

 話しながら香穂子の首筋に顔を埋める。
 優しい、香り。ずっと抱いていたくなる柔らかな香りが鼻先に広がる。
 ──── 女、って、どうしてこんなに小さくて可愛くて愛おしいんだろう。

「英語ってさ、良くも悪くもシンプルなんだ。一人称なんて、"I"しかないし。
 俺だって、私だって、ワシだって。ワタクシだって、僕だって、全部、"I"なんだ」

 香穂子と2人きりのとき、俺は1人でガンガンしゃべりまくる。
 そんな俺のクセをこの半年で知ったのだろう。
 香穂子は、首を傾けながら俺の声を聞いている。

「『聞く』って動詞だって同じだよ。音楽を聞くのは、"Listen to the music" だ。
 人の声だって同じ、"Listen to me" なんだよ。
 ま、厳密にいえば、"hear" も、"mind" って単語もあるにはあるんだけど……。
 だから、驚いた。日本語の『聞く』と『聴く』の漢字の違いとか、成り立ちの意味に」

 香穂子はそこでようやく納得が行ったのだろう。
 うんうん、と頷くと、俺の手に手を重ねた。

「衛藤くんは漢字の話をしてたんだね。そうだよね。ちょっと大変だけど面白いよね、日本語って」
「『聴く』ってさ、耳を使って十四の心を持って聞くってことなんだってさ。
 俺、あんたの言葉をちゃんと聞いてなかったよ。ちゃんとわかってなかった。
 俺が、アメリカに帰るって言ったら、どんな気持ちがするかってわかってなかった」

 重なり合ってた香穂子の指が、俺の指をきゅっと握った。
 何度も口に含んだことのある指先は、透き通った桜色をしている。

「俺、ついあんたには思ったことが口に出るし、あまり後先考えないし。
 聞いたとき、あんたがどんな気持ちがするとか、考えないで話すけど……。
 だけど、俺、あんたの傷ついたような顔は見たくないんだよ。だから、ごめん。俺が悪かったよ」
「ううん? ……私、考えてたんだよ? もし、衛藤くんがアメリカに帰っちゃうなら、帰っちゃえ、って」
「は? って、あんた……」

 あまりに明るい香穂子の口調に面食らう。
 って、香穂子は俺が帰国する、って言ってもそんなにショックじゃなかったってことなのか?
 俺が、傷つけたかも、って感じていたのはタダの勘違い?

 腕の中にいる香穂子の身体を自分に向ける。
 強がりでもない代わりに、香穂子の笑顔はその口ぶり同様、まぶしく輝いている。





「──── そしたら、今度は私が衛藤くんを追いかけてアメリカに行くから」
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