香穂はまるで赤ん坊でも抱くかのように、愛しげにヴァイオリンを持ち上げると、そっと肩に載せた。
 季節は春。
 早咲きの桜が、散ることを楽しんでいるかのように香穂のまわりで追いかけっこをしている。

(香穂……)

 幼い頃の憧憬のような。昔見た絵本の中の挿絵のような。
 優しい色に染まった景色を、俺はただ見守る。

 ──── やっぱりこいつは、音と戯れているときが1番満足そうな顔をする。  
*...*...* Star α (金澤) *...*...*
 あの日。そうだ、無理矢理抱いて香穂を泣かせたあの日だ。
 俺たちは吉羅に促されるがままに3人で食事に出かけた。

『日野君。私にはいつでも君を受け入れる準備ができているのでね』

 なんて、こいつのフザけた発言の本意も聞きたかったし。
 正直、目を赤くした香穂をそのまま帰すのも不憫だった。
 少しでもいい。こいつの気分転換になればそれでいい、って考えた部分もある。
 それに……。
 少しだけ覚束ない歩き方の香穂に対する。懺悔の気持ちもあったとも思う。

 しかし、だ。

 吉羅は香穂を口説くワケでもなく、また俺がせっせと撒き続ける疑似餌にも食いつくこともなく。
 淡々と出された食事を平らげていく。
 つまんねえな。
 釣りやってるときもそうだけど。
 エサ撒いてさ、少しでも反応があると『待つ』時間ってのは俄然楽しくなるんだが。

 吉羅は俺の思惑に気づいてないのか、気づいてて気づかないフリをしているのか。
 机の上に桃のコンポートがサーブされたとき、吉羅は香穂にタクシーチケットを手渡した。

「お? なんだ。もう、こいつを帰すのか?」
「未成年の彼女を夜遅くまで引っ張り回すことが、それほど得策とは思えませんからね。……日野君」
「は、はい!!」
「君の恋人には私からよく話をしておこう。今日はこのまま、まっすぐ家に帰りたまえ」
「はい……。金澤先生?」

 香穂は強ばらせていた肩をほっと緩めると、俺の方を見る。
 そして俺が黙って頷くと、膝に載せていたナフキンを丁寧にたたんでテーブルに置いた。
 って、大学の合格祝い。だから少しばかり豪勢に、ってのはわかるんだが。
 いきなりこんな隠れ家のような店でフルコースのフレンチとは考えてなかったぜ。

 吉羅は、キレイにたたまれたナフキンの端を見て口の端を上げた。

「君の食事の際の所作はなかなか美しい。見ていて気持ちがよかったよ」
「……ありがとうございます。私、食いしん坊なんです」

 珍しく吉羅が白い歯を見せたことで香穂も安心したのだろう。
 ようやく笑顔を見せると、俺たちに頭を下げた。

「あっと、香穂。店の外まで送ってくぜ」
「……金澤先輩にはアルコールを頼んでおきましたよ。先に始めててください。日野君は私が」
「っておい、吉羅」
「お客さま、お待たせしました。ティスティングの方をお願いします」
「お? ああ……」
「さあ、行こう。日野君」

 目の前には磨き立てられた3つのグラス。それに、赤、白、ロゼの3種類のワインが並ぶ。
 最近は楽しむために飲むというよりむしろ、酔うために飲む、って飲み方ばかりしているから、
 酔いの回るのが遅いワインを手にすることはなかったが。
 3つの色が並ぶさまは、純粋に美しい。
 こういうのを香穂に見せたら、どんな顔をするだろう。
 目、輝かせて、笑って。俺を手を引っ張って、笑って。

 未成年だから、と、アルコールを飲ませたことはなかったが。
 あいつが飲んだら、あの白い身体をどんな風にくねらせて、俺の愛撫に応えるのだろう。

 ──── あいつはどんなときも笑っていた方が可愛い、よな。

 ティスティングもしないでぼんやりとグラスを眺めている俺に、店員は感じることがあったのだろう。
 なにも言わず壁際で声をかけられるのを待っている。

(香穂……)

 足音もざわめきも消えたような空間で、黒い影が差す。
 顔を上げると、そこには吉羅の広い背中があった。

「彼女を無事、タクシーに乗せてきましたよ」
「おう。お疲れさん。なぁ、吉羅よ、あいつを襲ったりしなかっただろうな」
「襲いはしませんでしたよ。襲われはしましたが」
「は!?」
「冗談ですよ。しっかりクギは刺されてきましたがね」
「クギ?」
「ええ。『……あまり金澤先生をいじめないでくださいね』とね」

 吉羅は慣れた様子でロゼを選ぶと、店員に合図をし、他のグラスを下げさせる。
 そして心持ちイスを俺の方に近づけると小さな笑いを浮かべて言った。

「金澤先輩。彼女はあなたにとって最後のゼンダかもしれませんよ?」
「って、お前さん、いきなりなに言うんだか。ゼンダは最初から1人だ。最初も最後もありゃしねえっての」
「彼女を逃したら、あなたはこれからずっと『さまよえる人』になってしまう。そんな気がしましてね」

 ゼンダ。オペラ、『さまよえるオランダ人』のヒロインだ。
 彼女の愛を受けなければ、幽霊船の船長であるオランダ人は生きることも死ぬことも許されず、永遠に海をさまようこととなる。
 人生のイタズラで、誤解を受けたゼンダは死をもってして、オランダ人の魂を救う。
 2人の死を悼んだ神は、2人を天国で再会させる。そんなあらすじだ。

「一体彼女のなにが不満だというんです?」
「は? 別に不満なんてねえよ」
「では、もう少し優しくしてあげてはどうですか?」
「してるしてる。これ以上できねえ、ってくらいにさ」
「では、どうして泣かすんです?」
「あ? 泣いてない、ってあいつ、言ってただろ?」
「……私の目が節穴だったらよかったんですがね」

 言外にバッサリと俺の言うことを否定し、冷静にたたみ込んでくる様子は、数年前、底辺の生活をしていた俺を星奏の教師に引き上げてくれた頃の鋭さにも似ている。
 俺はふて腐れたように目の前のワインを一気に飲み込んだ。
 とたん、視界の端にいた店員が驚いたように目を見張る。
 吉羅は目を細めて俺の様子を眺め、そして、空になった俺のグラスに勢いよく朱い液体を注いだ。


「今日はお付き合いしますよ。金澤先輩」
「おう! ……なあ、吉羅よ」
「なんですか?」
「……あいつはいいヤツだよ。いささか俺にはよすぎるくらいにな」  
*...*...*
「ブラボー。可愛い演奏だったわ」
「そうそう。この娘、最近よくここに来てるよね」
「おねえちゃん、じょうず、じょうず」

 香穂の演奏を周囲で見守っていた人たちが、パチパチと温かい拍手を降り注ぐ。
 4、5歳くらいの男の子。歩くのもやっとな感じのばあさんも。
 小さな手やシワの寄った手が拍手する。
 いつまで経っても拍手に慣れることのない女の子は、みんなの中心で顔を赤らめて笑っている。
 中年の品のいい女性が、香穂に向かって話しかけた。

「お嬢さん、何時まで演奏してるの?」
「えーっと、……今からちょっとお昼を食べて……。多分、夕方までやってると思います」
「そう。わたくし、あなたのヴァイオリンが気に入ったわ。またあとで聴かせてくださる?」
「あ……。ありがとうございます。ぜひ!」

 日本の春、っていうのは、どっかこうラルゴのリズムに乗っている、といえばいいのか。
 どんなヤツも晴れやかな顔をして笑っている。
 リリじゃないけど、こんな気持ちいい季節になら、どこかに音楽の神サマも隠れてるかもしれない。

 音楽の神サマ、か……。
 以前は信じてたこともあったが、激しく裏切られたこともあったから、今はどうかな。
 今の俺は、目に見えないモノを信じるには歳を取り過ぎているかもしれない。
 だが、そんなあてどもないモノさえも、お前さんのためなら信じてやりたい。
 なんて、青臭いことを思っちまうんだよな。お前さんに関するすべてのことにな。

 少し離れたベンチから立ち上がると、俺はパンパンと3回手を叩きながら恋人に近づく。

「ブラボー、ブラボー。香穂、なかなかだったぜ?」
「あ、紘人さん! ありがとう。聴いててくれたんですね」

 香穂が学院を卒業して1ヶ月。
 俺を見上げる笑顔も変わらない。2人の距離も変わらない。
 なのに、呼び方1つ変わっただけで、こんなに愛しさが増すなんて、な。

「なあ、第2楽章の入りは、こんな風にしたらどうだ?」

 俺は小さな声で口ずさむ。
 香穂はヴァイオリンを胸に抱きながら、真剣な顔で聴いている。
 そして何度か頷くと、再びヴァイオリンを肩に乗せた。

「こんな感じ? 紘人さん」
「ああ。……ただ、楽譜どおりに弾くだけが音楽じゃない。ここはヴァイオリンをどのように歌わせるかにかかってるんだ」
「はい。……こう、かな?」

 香穂のヴァイオリンに乗せて、俺のかすれた声が旋律を作る。
 一旦歩き出した人たちが、立ち止まり、俺たちを振り返る。
 俺たちはそんな人たちに、笑いかけ、会釈する。
 そして2人、もう一度顔を見合わせて笑った。

「よっしゃ。少し腹ごしらえでもするか」
「はい! ……ね、紘人さん」
「お?」
「──── こんな風に、ずっと一緒に音楽ができたら、いいな」
「香穂……」
「こんな風に、なにげなく過ぎていく毎日って、いい」

 演奏のあとの、2人でする軽いハグ。
 セックスの前を思わせる力強さはなく、周囲の人間も、演奏家の親愛の情と取ってくれるようなさりげないもの。




 今日も俺たちはそんな触れ合いを重ねながら1日を終える。
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