音を立てないように、走る。ひたすら、走る。
 走りながら、考える。
 氷のような白い結晶をまぶした窓ガラスからは、金星がぴったりと西の空に貼りついているのが見える。

 金星。……宵の明星。
 古代では、ヴィーナスとも、イシュタルとも呼ばれていた星。
 住むところが違えども、人はあの美しい惑星に女性の名前を付け、親しんできた。

 ──── 僕も、彼女の音に親しむだけでよかったのに。
 一介の傍観者として彼女とともにいたのなら、今、こんなに劣等感に悩まなくてもすんだのかな。  
*...*...*  Star 2  (Kaji)  *...*...*
 僕は逃げ場所を探すかのように、学院内のあちこちを走り回った。
 ときどき、存在を主張するかのように携帯が肩を揺らす。
 電話をかけているのは、香穂さんだとわかっていたけれど。
 僕は耳を塞いで走り続ける。劣等感という黒い影に飲み込まれないように。

「……ここは、……講堂?」

 走り疲れた足は知らないうちに、僕を人のいない場所へと連れていく。
 観客のいない講堂は、がらんともの悲しく、冬の夕陽の中、塵が雪のように舞っている。

 近づかない方が、僕は幸せだったのかな。
 いや、僕のことはいい。
 香穂さんは、僕なんかが近くにいて、幸せなのかな。
 さっきの土浦のピアノが僕の耳を貫いていく。
 僕は、香穂さんといて、土浦がさっきしていたような、音楽的サポートができるのだろうか。
 拙い、僕のヴィオラの音。
 僕は、彼女の足を引っ張るだけの存在だ。

 僕は手にしていたヴィオラのケースを開くと、とても愛しくてとても切ない感情を抱かせる相棒を肩に載せる。
 かじかんだ指に息を吹きかけ、ポジションに置く。
 僕の身体の一部は、素直に指慣らしのためのアリアの弦を押さえていく。
 ──── 甘い、痛み。
 彼女の音色とは、彼女を引き立てていた土浦の音とは、比べものにならない、悲しい、音。

 ふと、父の眼差しを思い出す。
 最近では、しょっちゅう『男とは』なんていう議題で酒を飲みながら、僕を見て眼を細めている。

『なあ、葵。私は最近都会の貧困問題について考えているんだ。
 負は連鎖する。富も連鎖する。格差も連鎖する。
 お前は、今のお前の立ち位置に感謝するべきだと思うが。
 いや、父である自分を肯定しろと言っているわけではないがね』

「ふふ。父さん……。人生って皮肉だよね」

 父は代議士。祖父は病院長。確かに家庭環境には恵まれていると思う。
 今まで、不自由なんて何1つ感じたことはなかったし、両親とも仲がいい。
 友だちだって相手の方から寄ってきてくれた。

 でもね、父さん。ただ1つ、たった1つだけ、僕が望んでいたもの。
 ──── 音楽の才能だけは、神さまは与えてくれなかったんだよ。
 それこそが、僕の1番欲しいモノだったのに。

 僕はヴィオラを手にしたまま、ぼんやりと講堂の舞台を見つめる。
 緩く螺旋状になっている講堂では、舞台は客席の眼下に広がる。
 以前、香穂さんと舞台で練習をしたときのことを思い出す。
 彼女はどんなときも笑顔で。
 優しく、僕のフォローをするように譜面を追っていった。

 僕は、僕が好きというだけで、あれほど才能のある女の子を1人じめしていいのかな。

「……ん?」

 小さな靴音に、どきりと大きく肩が揺れる。

 振り返るのが怖い。
 きっと今の僕は、自分が見たこともないくらい情けない顔をしている。見られたくない。
 彼女以外の人には見られたくないし、彼女本人にはもっと絶対見られたくない。

 足音は着実に近づいてくる。
 そして僕の背後でピタリと止まった。
 とすん、と背中に感じる小さな力。

 ──── 気がつくと、華奢な細い腕が僕の腰に巻き付いていた。
*...*...*
「……香穂さん、僕を探してくれたの?」
「もちろん! 遅くなってごめんね」

 背中で話している香穂さんの声が、背骨を通って、まっすぐ僕に届く。
 彼女は何度も電話をくれていて。その電話に出なかったのは僕なのに。
 香穂さんはそのことには一切触れず、壊れ物のように僕の身体を抱いている。

「加地くん。……私ね、加地くんが好きだよ?」
「香穂さん……」
「えっと……。初めはね、加地くんの言ってることが信じられなくて」

 講堂から見える西の空に、濃いあかね色の夕闇が迫る。
 そんな中、宵の明星はベルベッドの上のダイヤのような燦然とした輝きを放っていた。

 香穂さんはベッドの中で絵本を読むような、小さな声で話し続けた。

「だって、勉強もスポーツもできて、周囲からも人気のある人が、突然私のこと好き、って言っても、実感がわかなくて」
「ふふ。ひどいな、香穂さん」
「ごめんね。だけど、本当のことだもん」

 香穂さんが話すたび、笑うたび、彼女が作る振動が、少しずつ僕に伝わる。
 それは、今まで経験したことがない不思議な感覚だった。
 僕は彼女と繋がっている。彼女を、感じる。
 とろり、と、身体中が香穂さんで満たされていく。

 僕は身体の向きを変えると、香穂さんを抱きかかえた。

「僕ね、自分が君を好きなことには自信があったんだけど。君も僕のことが好きってことを、考慮に入れるのを忘れてたよ」
「そうだったの?」
「ねえ、今、君にキスしていいかな?」
「な……。か、加地くん、その……っ!」
「ああ、ごめん。どんな答えが君から返ってきてもキスするって決めたから、返事は要らないかな」

 僕は目の前にある朱い唇を舌でつつく。
 彼女の香りが少しずつ僕をおかしくさせて、気がつけば僕は強引に自分の唇を押し当てていた。

 もっと……。そうだ。
 女の子の好きなキスは、もっと柔らかくて、優しい触れ合いのような軽いタッチのモノなのに。
 相手をじらすように、ゆっくり。そのうち、女の子の方から、そのじれったさに耐えきれなくなって、懇願してくる。
 そのときになって口内を蹂躙するようなキスをすればいい。
 そんな手管くらい知ってるのに。

 今の僕は計算ができない。

 香穂さんの柔らかな唇に翻弄されている。

「か、加地くん……っ。ちょっと、苦しい……」
「ごめんね。ずっと辛抱してたからかな。止められないみたいだ」
「ん……っ」
「君のここは、僕の想像よりも甘かったよ。……ね、舌を出してみて?」
「え? 舌……? ど、どうして?」

 香穂さんは面食らったように僕の顔を見上げる。
 言葉を告げるのも億劫そうな唇は、少しだけ普段より赤らんでいる。

「もっと君を感じたい、ってこと」

 僕は香穂さんの後頭部を優しく抱きかかえると、再び彼女に口づけた。






「ああ、そうだ」
「ん? 加地くん、なあに?」
「さっきね、講堂に入ってきたとき、香穂さん、どうして僕のこと後ろからハグしたの?」

 不思議に思って問いかける。

 普段なら、香穂さんは僕を見つけるとまず真っ先に笑顔になる。
 そして必ず、『加地くん!』って声をかけてくれるのに。
 どうしてあのとき、彼女は一言も告げることなく、僕を抱きかかえたのだろう、って。

 香穂さんは一瞬言葉に詰まったのか、視線を空にさまよわせる。
 噛みしめた唇が、すっと血の気を失っていった。

「香穂さん?」
「……その、ね。顔を、ね、私に見られたくないのかなあ、って思ったの」
「香穂さん……」
「背中が、少し……」
「背中?」
「……泣いてるみたいだなあ、って思ったの。だから」

 香穂さんはやや早口でそう言い募ると、照れたように笑った。

「だ、だけどね、加地くんの背中、大きかった! 全然手が届かないんだよ?
 励まし作戦、大失敗、って感じで……。突然、ごめんね。ビックリしたでしょう?」






 ……このとき、僕の胸に去来した想い。
 それは、これからの僕の存在を許してくれる力になるような気がした。
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