*...*...* Star 2 (Kira) *...*...*
ホテルを出て以来、香穂子は、私の顔を見ようとしない。だからといって、私を拒否するわけでもないらしい。
愛車のギアを持つ私の手は、香穂子の手を握ることと、ギアを操作すること。
その両方を器用にこなす。
香穂子の、許すでもなく拒むでもない、なよやかな態度は、私の中の不安を一人歩きさせる。
不安にさせ、さらに劣情を加速させる。
──── やれやれ、私もとんだ俗物だったというわけだ。
「香穂子。そろそろ機嫌を直してもらいたいものだが」
週末の首都高は、トラックの行き来が凄まじい。
私は深く息を吐くと、思い切りアクセルを踏み込む。
そして相棒に対し、最近香穂子と仕事にばかりかまけていたことを心の中で謝ると、加速度を増して走らせる。
春を過ぎる頃、香穂子の家では、娘に付き合っている相手がいるらしい、ということを把握したらしい。
黙認という形で、私と香穂子を見守っていてくれるのか、前より香穂子が門限のことを気にすることはなくなった。
だが、いくら了承してもらっているとはいえ、香穂子は未成年であり学生の立場だ。
いつまでも引っ張り回して良いというものでもない。
スピードメーターの横にあるデジタル時計に目をやる。
21時、か。せいぜいあと残されている時間は1時間、というところか。
「着いたよ。降りたまえ」
香穂子は私の呼びかけに不安そうな顔を見せる。
吹きすさぶ風。間に聞こえる波の音が、暗闇の中のせいか、やけに猛々しく聞こえる。
私は上着を脱いで香穂子の肩に乗せると、彼女の手を引いて春の夜の海岸を歩き始めた。
「……私のとっておきの場所だ」
星がよく見える季節とはいえ、夜風は冷たい。
南の空にはスピカが青白い光を放って、私たちを見守っている。
「さっきはすまなかった。素直に感じている君に、抑えが利かなくなった」
「……ううん、怒ってるんじゃないんです」
彼女がようやく口を開いたことに安堵する。
まったく私は……。
付き合うまでは、寝るまでは。
こんな風に1人の少女に拘束されることなど、頭の隅にも考えがなかったというのに。
香穂子の小さな手が小刻みに震えている。
寒さからか、それとも、私に怯えているのか?
わからないままに、私は香穂子を胸に抱きかかえると、彼女のあごを持ち上げた。
「言うまで待つ。今の気持ちを、君の言葉で言ってほしい」
「あの、あのね……。怖かったんです」
「怖かった? 私のことが怖かったのだろうか?」
男女という違いに加えて、年の差も、経験の差もある私たちだ。
私に挑まれては、香穂子も逃げ場がなかったのだろう。
ましてやあのとき、香穂子は私に貫かれて手足の自由も利かなかっただろう。
『すまなかった』と、再び謝ろうとしたその時、香穂子はかぶりを振った。
「気持ちよくて……。自分の身体なのに、自分の思いどおりにならないのが、怖かったんです」
「香穂子」
「……だけど、気持ちいいって思う自分が、間違っている気がして、恥ずかしくて」
香穂子の目を覗き込む。
熱を帯びた輝きを持った瞳からは羞恥が溢れそうになっている。
彼女のこんな瞬間を垣間見ることができた喜びに、胸が掴まれたように痛くなる。
「……まったく、君は可愛い」
「そ、そんなこと、ないです! なかなかちゃんとお話できなくて……。ごめんなさい」
「私をそんなに有頂天にさせて、どうするつもりなのかが聞きたいね」
愛しい存在を抱きしめ、ふと南の空を見上げると、ここ数日晴天が続いていたからだろう。
見覚えのある星座が一面に散らばっている。
──── 確か、あれは……。
私の口は、今週やったプレゼンのように流暢に、香穂子に説明を始めた。
「あそこに並んでいる星が見えるだろうか? 乙女座の中の一等星だ。よく見ると2つの星が寄り添っているのがわかる」
「はい。私、視力はいいんです」
「全天で、うみへび座に次いで2番目に広く、2つの連星からなる星の1つで。スピカという呼び名が有名だ」
「スピカ……。可愛い名前ですね」
あの頃。そう、姉が入院していた頃。
四角い病室の窓からは、無数の星が見えた。
本を持つことも大変になった姉への不憫さもあったのだろう。
両親は最上階の病室に姉を入院させていた。
『ねえ、暁彦。星って毎日見ていると面白いのよ? 毎日少しずつ見える角度が変わってくるの』
『地球の自転と公転の関係がそうさせるのだろう。確か地学で習ったかと思いますが』
『まったく同じ時間に同じ方角の星を見ようと思ったら、1年きっかり待たなくちゃいけないのよ?』
『国が変われば、見える位置も変わる。ウィーンに留学すれば日本では見えない角度で見えますよ』
見舞いにきたというのに、励ますでもなければ気の利いた返事を返すでもない私に姉は力なく微笑んだ。
あの時の姉の意図。
今ならはっきりとその答えがわかる。
姉はわかっていたのだ。
両親が言葉を尽くして励ましていることも。
ヴァイオリンの恩師が、病気で逃してしまった留学先の代わりにと、次の留学先の案内を持って来たことも。
すべて来年、自分はこの世界にいないことをわかってなお、すべてを受け入れて逝ったのだろう。
思いは巡る。
──── この子は今、私といて幸せなのだろうか?
私は、その責任を果たせているだろうか?
香穂子は、急に黙りこくった私の髪に手を添えて、微笑んでいる。
彼女のその笑顔が、私の問いかけへの答えのような気がして、私は一人安堵する。
「すまないね。自分の中の感情に酔っていたようだ」
「ううん? 私、さっき吉羅さんが教えてくれた『スピカ』のことを考えてました。
2つある星を、1つの名前で呼ぶなんて素敵ですね」
「……できれば私たちもそうでありたいものだが」
香穂子は嬉しそうな顔をして何度も頷くと、ふっと顔を赤らめた。
「……また、その……」
「なんだね?」
そして、言いたいことがあるのだろう、何度もそこでためらっている。
私は香穂子の頬に口づけ、鼻に口づけ、そして耳に口づける。
彼女の沈黙が長く続けばいい。
そうすれば、彼女の顔中に私の印をつけることができる。
何分か、キスだけの会話が続いたあと、香穂子は私の耳元でささやいた。
「……私のこと、抱いてくれますか?」
私は香穂子を思い切り胸の中に抱え込む。
「……君がそれを望む限りね。約束しよう」