「……心、ここにあらず、って感じね。今日はここでお開きにしましょ?」

 都築さんは静かに万年筆のキャップを元に戻すと、おれを見上げた。

「うん……。ごめんね。おれってこんなに弱い人間だったかなあ。参ったよ」
「……それだけ、彼女のことを大切に思っているってことなんじゃないかしら?」

 都築さんは、淡々と冷静に事実だけを告げる。
 物事を瞬時に理解し、私情を入れず、落ち着いて分析する。
 こういうところは、いかにも指揮者にピッタリな素質といえるだろう。

 香穂ちゃんと結婚して。1年をともに過ごして。
 香穂ちゃんとの繋がりは以前より強くなったって信じてる。それはおれの独りよがりの感情じゃない。そう確信してる。

 なのに、おれはどうして土浦くんと香穂ちゃんが一緒にいたことを。
 ……触れ合っているように見えた事実から、目を背けようとしてるんだろう。

 都築さんは空気の流れを止めるかのように、深みのある赤色の手帳を閉じる。

「私が想像するに」
「……え?」
「……あの2人は、ただ偶然会っただけよ。土浦くんの方は、久しぶりに会った日野さんに少しドキッとしただけ。
 あの歳の男の子にはよくある話よ」
「……そういうものかな?」
「私は日野さんのこと少なからず知っているけれど、彼女、そんなに器用な子じゃないわ。
 どちらかというと不器用で、2つのことをさらっとこなすことはできない。結婚してて、浮気も上手にできるような。……ね?」  
*...*...* Star 2 (Ouzaki Ver) *...*...*
 香穂ちゃんと土浦くんを見たのは、ほんの偶然だった。
 この日は元々、香穂ちゃんとは別行動。
 おれは、大学でお世話になった教官に帰国の挨拶、それに、コンクールの感想を話して、早々に大学を出た。
 レンガ色の校舎は春の色に染まり、大声を歩きながら歩く子は新入生かな。
 眩しいほど輝いた頬をしている。

「王崎くん!」
「あれ? やぁ、都築さん。久しぶりだね」
「そうね……。ねえ、忙しそうなあなたの時間は取らせないようにするわ。あなた、これからどこに行くの?」
「おれ?」

 都築さんは、まるで昨日別れた友人に対するかのように淡々と質問を投げかけてくる。

「ああ。今から、小さい頃から通ってたヴァイオリン教室の先生のところに行こうと思って。楽器街のすぐ近くなんだけど」
「そう。それなら私にとっても好都合よ。道々お話しましょう。コンクールのことやら、最近のオケ事情についても」
「了解。じゃあ、行こうか」

 日本を離れるとき、それほど親しくなかった知り合いが、手のひらをひっくり返したかのような親しげな挨拶をしてきたこととはウラハラに、
 彼女の態度は、すごく清々しくて、それでいて親しさは損なわれていなくて。
 おれは改めて彼女の横顔を見つめた。

 香穂ちゃんとはちょっと違う、髪の毛のかかり具合。目の位置も少し高い。
 肌色は香穂ちゃんよりも褐色で、凛々しい。
 なにしろ香穂ちゃんときたら、静かに眠っていると、本当に呼吸しているのか口元を確かめたくなるほど臈長けて白い。

 それこそ毎日のように、一緒の時間を過ごした1年。
 目を閉じれば、彼女の顔が浮かぶし、目を開ければ、彼女の姿を探す。
 もう少し、彼女への依存を少なくしないことには、彼女に呆れられてしまうかもしれない、か。

 電車を2本乗り継ぎ、春の日本を歩く。
 もともと、愛国心なんて立派なポリシーを持っていたわけではないけれど。
 生まれ育った街はやっぱりいいな、と思ってしまう。
 桜を見たい、って言ってた香穂ちゃんは、明日、どんな顔を見せてくれるかな。

 都築さんは、慣れた足取りで楽器街を歩きながら話し続けた。

「私が聞きたいのは最近のヨーロッパのオケについて。今、私のところに2件、オファーが来ていて。
 関係者からセールストークは聞いたから、王崎くんの生の声が聞きたいの」
「そうだったの? なんだ、知らせてくれればもっとあちらで情報収集しておいたのに」
「いいのよ。そういう前衛的なものを取り払った、ありのままのことを聞きたかったのだから。あ、あら? あれって……」
「うん? 都築さん、どうかした?」

 会話をしているときに彼女が他のモノに注意を削がれるなんて珍しい。
 おれは何気なく、彼女と同じ方向に目をやって。


 ──── そこで、おれは香穂ちゃんと土浦くんが見つめ合っているのを見たんだ。


 見つめ合っているだけなら、まだよかった。
 だけど、おれの見間違いじゃなければ、土浦くんの長い指は香穂ちゃんの唇を押さえていて。
 熱っぽい目は、おれが香穂ちゃんを性的な思いで見つめるのと同じ色をしていて。

『ま、待って、土浦くん!』

 スタスタと歩き始めた土浦くんを香穂ちゃんは小走りで追いかける。
 2人の姿はあっという間に雑踏の中に紛れていった。
*...*...*
「もうすぐ8時か……」

 おれは右手の腕時計に目をあてる。
 ケータイには、メールが1つと、電話が1回。香穂ちゃんからだ。

『帰る時間がわかったら教えてくださいね』

 なんの屈託もない、やさしいメール。
 なのにおれはどうしてあんな些細なことにこだわってるんだろう。

 また2週間後にウィーンに戻るおれたちが落ち着いた場所は、交通の便がいいウィークリーマンションだった。
 小さなキッチンと小さなベッド。
 2人で暮らすには少し狭い場所だったけれど、香穂ちゃんは狭い方がいいって笑った。

『狭い方が、信武さんがいてくれるってわかるから』

 女々しいってことはわかってる。
 多分、香穂ちゃんが土浦くんと会ったのはほんの偶然で。
 都築さんが分析したように、香穂ちゃんと土浦くんはなんでもなくて。

 おれが不快に思っている理由はなんだろう。

 ……多分、それは、今まで誰にも触れさせなかった香穂ちゃんの身体の一部に土浦くんが触れたこと。
 唇に、異性が触れた、ってことにあるのかもしれない。

「……ただいま」
「信武さん! お帰りなさい。心配しちゃった。……遅かったですね」

 在宅のときは、どんなときも鍵をかける。
 そんな暗黙のルールを日本にいるときも香穂ちゃんは律儀に守っているらしい。
 カチリとドアが開く音。それに続くおれの声を聞いて、リビングから駆け出してくる。

「あ、あれ? どうしましたか?」

 まじまじと見つめるおれに、香穂ちゃんは不思議そうに首を傾げる。
 おれはその胸元に飛び込むように頭をこすりつけた。

「……香穂ちゃんは、ここにいてくれるよね?」
「は、はい? なに、言って……?」
「土浦くんのところに飛んでいったり、しないよね?」
「え? ……あ、あの……!」
「話して、くれるよね?」

 おれは香穂ちゃんを抱きかかえると深く息を吸い込んだ。
 ──── 安心する香りが、ここにある。
 こんなことで、おれの中にあったわだかまりや不安は、少しずつ薄くなる。
 まったく……。3つも年下の子に、どこまでおれは甘えるつもりなんだろう。

「そう、その、松脂を買いに行ったあとね、ケーキを買いに行こうって思って。
 ほら、以前王崎先輩が、教えてくれたお店。まだあるかな、って」
「信武」
「あ! ごめんなさい。……えっと、信武さんが教えてくれた」

 慌てると、香穂ちゃんはつい昔の名前でおれのことを呼ぶ。
 そんなささやかなことに、しかめっ面をして訂正しているおれも、ただの小さな駄々っ子だ。

「それでね、ちょっと楽器店で私が勝手に腹を立てちゃったことがあって……。
 土浦くんが、フォローしてくれたんです。彼、またオトナっぽくなったみたい」
「……そう。そうやって彼をかばうところは、ちょっとだけ面白くないけれど」
「うう……、ごめんなさい」

 香穂ちゃんはおれの不機嫌の元を察したのか、腕の中で身体を小さくしてる。
 おれは小さなダイニングテーブルにいっぱいに並べられたご飯を見て、
 あとで香穂ちゃんに小言を言われることを想像しながら、彼女の顔を持ち上げた。

『せっかく作ったのに……。冷めたら、美味しくないですよ?』

 なんて。
 でも、おれは、今の、そのままの彼女が抱きたい。
 たとえ、2時間、食事するのが遅くなったとしても。

「ねえ。どうされたの?」
「はい?」
「彼に、どうされたの?」

 おれの問いかけに、香穂ちゃんはぐっと言葉を詰まらせる。

「べ、別に、なにも……っ。だって、お昼ですよ? 明るくて。それに外ですよ? 他の人もいっぱいいて……っ」
「言い訳は、ベッドでたっぷり聞いてあげるよ」



 おれは香穂ちゃんを抱きかかえると、灯りが消えているベッドルームへと向かった。
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