「い、いやぁ。じゃあ、お2人さま、これからも、お、お幸せに〜! 失礼します!!」

 チャラチャラとアクセサリーをつけた男は、俺の顔を見るやいなや、急に丁重なあいさつをして雑踏に消えていく。
 香穂に一体なにをしたのか、問い正そうと思ったが、今は香穂の方が気になる。
 俺は男が消えていった暗闇を一睨みすると、改めて香穂を見つめた。

「ったく。なんなんだよ、あいつは」
「土浦くん……」

 香穂は半ベソをかいて俺を見つめ返す。

 その顔を見たときの、俺の気持ちっていうのは、こうして自宅に帰ってきた今でもわからない。
 明るい笑顔で、コンサートメンバーを調整する香穂。
 弾くと決めた曲に対して、俺が驚くくらいの根性を見せる香穂。
 俺から見た香穂って、さばさばとした明るい、しっかり者、っていう印象だったのに。
 なんか、あんな顔を見たあとは、こう、普段俺が使ったことのない部分が、ギリギリと歯ぎしりをしたり悲鳴を上げたりしているのを感じる。

 ──── 俺は、香穂のなにをわかったつもりでいたんだろう、ってな。  
*...*...*  Star 2  (Tsuchiura) *...*...*
「大丈夫だったか?」
「う、うん! もう、大丈夫。そうだ、土浦くんは、用事、終わった? 遅かったね」

 香穂はベンチに座ったまま、くぐもった声で返事を返す。
 西の空には宵の明星が輝いている。
 街のネオンからやや離れたところにあるこのベンチでは、香穂の細かな表情までは読み取れない。

「ほら、もっと顔見せろって」

 俺は、香穂と視線を合わせるべく腰をかがめると、香穂のあごに手をかける。
 香穂は俺のなすがまま素直に顔を上げた。
 さらりと、香穂の髪が俺の手首を撫でていく。

 ちょこんと俺の手の上に顔を預ける香穂は、普段よりもずっと小さく儚げで。
 その途端、どきりと俺の胸は制御不能な音を立て始めた。

「香穂……」

 普段、合奏の時、なにげなく身体がすれ違うことは、それこそ数え切れないほどあったというのに。
 今日の俺は、本当におかしい。
 どうして俺、こんなに緊張しているんだ?
 それこそ、耳のすぐ近くで鼓動が聞こえるほどに。

「やっぱり、全然違う……。土浦くんなら怖くない」
「は?」
「──── 触れられても、怖くない」

 香穂は緊張がほどけきったような優しい顔になると、譜読みしていたであろう楽譜をカバンにしまい込んだ。

 『怖くない』? 触れられても? 俺に……?

「香穂、それって……」
「待たせちゃってごめんね。そろそろ行こうか」
「お、おう! そうだな」

 香穂の言った言葉の意味を繰り返す。
 なんか、分かるような分からないようなヘンな気分だ。

 もう少し真意を聞こうとは思ったが、今は、俺が手にしているピンク色の紙袋が、存在を主張しているのを感じる。
 香穂を家まで送ってから、と思わないではなかったが、どうにも俺とこういう可愛いモノとの取り合わせは不釣り合いだ。
 こういうときはさっさと渡してしまった方がいいに決まってる。
 俺は、おもむろに香穂の鼻先へ紙袋を突き出した。

「香穂。これ」
「はい? これって……」
「いいから開けてみろって」

 あ−、もう。
 自分でも思うさ。どうしてこんな脈絡もない、しかも突拍子もない渡し方してるんだか、ってさ。
 こういうとき、その口から生まれたんじゃないか、っていうほど流ちょうな言葉を操る、
 加地やら柚木先輩なら、もっと気の利いたこと言えるんじゃないか、とか。
 いや、それよりも、今、俺の前にピアノがあったらいい。
 そうしたら、言葉よりも雄弁に鍵盤を叩くこともできるのに。

 やれやれ。今の俺は、本当に情けないぜ。
 口も、手も、まるで役に立ってない。
 かすかに熱を持ち出した頬が、俺の身体の中で一番正直な部位なのかもしれない。

 香穂は戸惑ったように、小さな包みを受け取る。
 そして、『ごめんね』と小声で俺に断って、大げさなリボンをほどいていった。

 俺もバカだよな。店員に、こんな大仰なラッピングなんて止めてくれ、って言えばよかった。
 言っていたら、もう少し、店を出るのも早くなったハズで。
 そうしたら、香穂だって、あんなヘンなオトコに出くわさなくてすんだかもしれないのに。

(香穂……)

 目の下に見える香穂は、この包みを開くのを、中身を知るまでの時間をとても大切なモノのように感じているらしい。
 きらきらとした瞳で、一生懸命ラッピングをほどいていく。
 なるほどな。
 やけに強くリボンの結び目を結ぶ店員を、おかしなものだと思って見ていたけれど。
 あの店員は、香穂がプレゼントを開くまでの時間を、そして、俺がそんな香穂を見る時間を、少し長くしてくれたのかもしれない。

「土浦くん、これ……?」
「ああ、お前、まるで猛禽類みたいな目でそれ見てただろ?」
「も、猛禽類って……。その、タカとか、ワシとかの、猛禽類?」
「ああ。なんか、あんな顔見てたらさ、そのネックレス、お前にプレゼントしたくなった」
「あはは! なんだか、その、お礼を言うタイミングがわからなくなっちゃったよー」

 笑ったことで、さっきまで香穂の中にあった不安な思いが小さくなっていったのだろう。
 いつもと変わらない屈託のない顔で笑うと、手にしたネックレスをまじまじと見つめている。

「……すごく、嬉しい。ありがとうね。大切にする」
「いや、もうそれはお前のものだから、お前の好きにしてくれて構わないぜ」
「うん……」
「だが、大切にすると言われれば悪い気はしないな。……そうだ」
「なあに?」
「ほら、今、つけてやるよ」

 俺は香穂の手の中から星と月のネックレスをつまみ上げる。
 華奢な造りの星と月が寄り添っているようなモチーフは、仲のよい2人が寄り添っているような、優しい雰囲気を醸し出している。



 俺も香穂も。

 4月から、ともに過ごしてきた日々。
 夏休みを経て、3回のコンサート。そして、来月のクリスマスにある4回目のコンサートを経て。
 それから先、卒業まで、音楽と香穂とともに過ごせば。

 ──── この、星と月のように、ともに在るのが当然な存在になれるだろうか?


「じゃあ、その……。お願いします」
「おう。任せておけって」

 香穂はさんざん照れながらも、俺の気持ちが固いことを悟ったのだろう。
 肩下の髪を片方に寄せると、俺の目の前にほっそりとした首を出す。



 思わず触れて感触を確かめたくなるような白いうなじに、俺の胸はまたドキリと不自然な音を立てた。
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