演奏会の合間を縫って帰国した母と、仕事の隙間を見つけて帰国した父。
 ごく一般的な家族の形態になることの方が珍しいこの家で、2人は楽しそうに談笑を繰り返す。
 俺は2人の会話に割り込むようにして口を挟んだ。
 
「じゃあ、俺は練習があるので失礼します」
「あら? もう少しくらい、いいじゃない。久しぶりなんですもの」
「ですが……」
「まあ、蓮にには蓮のスケジュールがあるのだろう。君も無理を言うものじゃない」
 
 母の甘えにも似た誘いに対して、父は俺の肩を持つ。
 母は少しがっかりしたように目線をテーブルに落としたが、次の瞬間、パッと目を輝かせた。
 
「じゃあ、3人で久しぶりに合奏してみない?
 あなた、確か、ヨゼフ・ロレンツのヴァイオリンをお試しにって貸与されたっておっしゃってたわよね。
 私、まだしっかりあのメーカーのヴァイオリンは聴いたことがないの」
 
 珍しく母は子どものように言い募る。
 幼い頃は、ごく普通の家庭にあるような母親という存在がこの家にないことに不安を感じたことはあったが。
 今は、むしろ音楽家として確固たる地位を築いている母に尊敬にも似た思いが浮かぶ。
 そのせいなのか。
 こうして自宅のリビングで笑っている母よりも、ライトと拍手を浴びながら壇上で微笑んでいる母を美しく思う。
 
「調弦をするのに、四半時くらい時間が必要だ。できたら声をかけるとしよう。
 いいから蓮は部屋に上がりなさい」
「はい。……では失礼します」
 
 父の目配せに頷きながら、俺はリビングからすり抜ける。
 
 日曜日の、午後、か。
 
 香穂子は今、なにをしているだろう。
 防音設備がないからと、今日も学院に行って練習するという彼女に、今日くらいは休むように勧めたのは俺だ。
 香穂子はちょっと不満げに俺と譜面を見比べていたが、俺の意志が固いことを悟ったのだろう。
 
『じゃあ、家で、イメージトレーニングする。月森くんの演奏を思い出しながらやれば、効果、あるよね!』
 
 明るい口調で笑っていたが……。どうだろうな。
 あとで電話をしてみるのもいいかもしれない。
 
 春の4回のコンクールがなかったら、決して会えなかった人。
 同じ音を奏で。近づいて、触れて。少しずつ彼女に慣れていく俺がいる。
 ──── もっと深く知りたい、とさえ思う。

 だが、俺にはその為の時間が残されていない。
 その事実を知ったなら、彼女はどんな態度を見せるのだろう。
 
(大丈夫だよ。月森くん。きっとやれる。……私たちは、きっと頑張れる)
 
 俺が思い浮かべる彼女は、弱いのに、強くて。優しいのに、負けず嫌いだ。
 
 彼女が今、ここにいてくれたら。
 俺は今感じているような閉塞感を味わうことはなかったのかもしれない。  
*...*...* Star 2 (Tsukimori Ver.) *...*...*
「……違う。そうじゃない」
「ご、ごめんなさい! もう1回行きます!」
 
 最近は香穂子と2人で使うようになった放課後の練習室。
 俺は肩に乗せていたヴァイオリンを下ろすと、指揮棒で香穂子の楽譜を指し示した。
 
「君の解釈は少し乱暴だ。ここは丁寧なピチカートが求められる。
 志水くんは確実に正確に練習してくるだろう。加地のヴィオラも。
 そこで主旋律になるヴァイオリンが乱れたら、まとまるモノさえ まとまらない」
 
 香穂子は頷くと、朱のフェルトペンでコリコリとコメントを書き入れる。
 
「手本を見せよう」
 
 本来、音楽科の人間というのは、本を読むように楽譜が読める。
 だが、彼女はそうではない。
 ごく小さい頃、ピアノのレッスンに通っていたという話から、まったく譜読みの素養がないワケではないのだが、
 どうにも譜面から旋律を想像するのは少し時間が必要なタイプのようだ。
 
 ならば、彼女の得意な方法で音楽を身につければいい。
 そう思って始めた練習方法。それは、彼女が解釈に詰まるところを、俺が複数の解釈で演奏すること。
 何度か聴かせ、何度か、話し合いを繰り返す。
 音の感受性に卓越した才能があるのだろう。
 その後の彼女は、俺の手本以上の豊かな音色を広げる。
 
「……ブラボー。1時間前に比べてかなり聞きやすい表現になった」
「本当?」
「ああ。これなら、明日のアンサンブル練習になんとか間に合う」
「よかったー。ありがとう。もう1回練習してみる! 急いで頭の中に刷り込まなきゃ」
 
 香穂子はそう言って、複雑なフレーズを2度、3度繰り返すと、安心したかのように俺を見上げて笑った。
 
「……誰かが、これからも君のヴァイオリンを気にかけてくれればいいんだが」
「ん? 月森くん、なにか、言った?」
「いや。なんでもない」
 
 俺はため息をつきながら考える。
 彼女は普通科の人間だ。
 普通科の人間が親しくしている音楽科の人間と言ったら誰になるのか。
 それは多分、今回のコンクールで知り合った俺たちアンサンブルメンバーの仲間、ということになるだろう。
 
 管の火原先輩や柚木先輩では、弦を教えるのには限界がある。
 弦の人間と言ったら、志水くんと加地、か。
 志水くんは自分のことで精一杯だろうし。
 加地はといえば、どこか弦に対して、突き放したような投げやりな態度が気にかかる。
 
 俺と同等の適任者といえば、王崎先輩が相応しいだろうが、王崎先輩も、ヨーロッパと日本を行き来する生活だ。
 今の俺ほど、彼女のヴァイオリンを気にしてはいられない。
 
 再び俺は考え込む。
 ──── 俺がいなくなったら、誰が香穂子のヴァイオリンを見ていくのだろう。
 
「月森くん? どうかした?」
「いや。そうだ、良い機会だから聞いておこう。……君はどこか学院以外で……。
 そうだな、どこかのヴァイオリン教室で、個人レッスンは受けているのだろうか?」
「ヴァイオリンの個人レッスン?」
「そうだ。いや、もっと突っ込んだ話をしよう。君はこれからも……。
 高校を卒業してからも、ヴァイオリンとともに生きていこうと考えているのだろうか?」
 
 冬の太陽は、ビルの間に吸い込まれるようにして小さくなる。
 6時を過ぎたからだろう、練習室の空調は切れ、急に冷え込んでくる。
 他の部屋から響いていた楽器の音は、パタパタとした足音とともに消えていった。
 
「君の考えを聞かせてくれないだろうか?」
「あ、あの! えっとね、……その、今は、毎日が楽しくて、その、月森くんと一緒に練習することが楽しくて!
 このままずっと、こんな毎日が続けばいいな、って思ってるのは本当なの。だけど……」
「だけど?」 
 
 香穂子は強くヴァイオリンを胸に抱く。
 まるで、その存在が無くなったら溺れてしまう人のように抱きかかえている。
 
「……いつ、なの?」
「香穂子」
「……私、知ってるよ。月森くんが留学するの」
*...*...*
 押さえていた感情がほどけてしまったのだろう。
 香穂子は目を潤ませて俺を見上げた。
 普段だったら、近さに戸惑う距離。
 なのに、今の俺にはそのことを感じる余裕さえなかった。
 
「最初はね、……まだ暑い頃かな。志水くんが教えてくれたの。
 月森先輩が留学の準備をしているようです、って。
 この前、金澤先生と月森くんが住む場所がどう、って話してたのも、聞いたかな……。
 だけど、ずっと、月森くんには聞けなかった。聞くのが、こわかったの」
「香穂子」
「だ、だけどね! アンサンブルの練習をしてて、その、アンサンブルメンバーに月森くんが入ってくれている間は、
 その、留学もまだ先だよね、って思うことができたの。
 ……だけど、今度の4回目のアンサンブルで、はっきり決まるよね。星奏が1つになるか、ならないかって」
 
 俺は頷く。
 確かに吉羅理事長は今度のクリスマスコンサートで、理事たちの心が動かせたなら、
 星奏を分割するという案を撤回すると言っていた。
 よくも悪くも、これが、最後。
 これから俺はソリストを目指し、留学の準備を始めることになるだろう。
 
「ね、知ってた? 月森くん」
 
 香穂子は明るい声を立てながら話し続ける。
 声とうらはらに泣きそうに寄せられた眉毛が、少しずつ俺を落ち着かなくさせ、苦しくさせていく。
 
「こうして一緒にいてもね、ときどき月森くん、辛そうな顔、するの。
 前もね、すごく大切にしてたヴァイオリンの教則本、私にくれたでしょ?
 そのときも、さっきと同じこと、言ってたの。
 『誰かが、君のヴァイオリンを気にかけてくれればいいんだが』って」
 
 ごく普通のカップルが、どんな話をし、どんな風に親しくなっているのか知る術もないが。
 俺が香穂子に向ける言葉は、注意ばかりだったことに胸が痛くなる。
 
「……すまなかった」
「どうして謝るの? 私、平気だよ?」
 
 香穂子はたしなめるように早口で俺の言葉を打ち消すと、鋭いまなざしで俺を見た。
 
「私がずっとずっとヴァイオリンを続けていたら……。もっともっと練習して、もっともっと上手くなったら。
 いつか、この先ね、音楽を通して、月森くんと出会えるよね?」
 
 君への想い。音楽への想い。
 音楽とともに生きる生き方しか知らない俺には、音楽を諦めて彼女の近くにいるという選択肢はなかった。
 俺が唯一考えた願いにも似た想い。
 それは彼女が俺と同じ音楽の世界に生きて、その先に交わる1点があると信じることだった。
 
 
 俺の思いそのままの考えを告げてくれた彼女に、どうしたら今の俺の気持ちが伝わるのか。
 俺は腕を伸ばすと、胸の中に香穂子を抱き寄せた。
 
 
 
 
 
 
「……今、俺がどれだけ喜んでいるか、きっと君にはわからないだろうな」
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