前日の夜、ひどく冷え込んだからだろう。
 僕は僕と香穂先輩が北風に乗って、僕たちの住む街に雪を降らす夢を見た。
 僕たちは高く低く、自由気ままに空に舞い、粉雪を飛ばす。
 僕の横、香穂先輩は目を輝かせて白い雪を見ている。

 もし夢に見た雪が積もっているなら、真っ先に香穂先輩にメールする。
 いや、声が聞きたいから電話する。
 朝、起きると同時にそんな期待を込めてカーテンの外を見る。  
*...*...* Star 2 (shimizu) *...*...*
「……やっぱり、夢、か」

 カーテンの向こうには冬枯れの、乾いたいつもの街並みが広がっている。
 今日はヴァレンタイン。

 僕は香穂先輩との約束の場所に向かおうとして、ケータイの画面が点滅しているのに気がついた。
 送信者に香穂先輩の名前がある。
 あわてて内容を見るとそこには、体調が優れないこと、今日の練習はまた別の機会にしたいことが、書かれていた。
 普段なら、こちらが何度も読み返したくなるほど明るい文面なのに。
 よほど身体が辛かったのだろう。このメールは文字ばかりのシンプルな内容だ。

「もしもし、香穂先輩ですか?」

 リダイアルで香穂先輩に電話する。
 耳に飛び込んできたのは、香穂先輩によく似た女の人の声だった。

『志水くん、よね?』
「……はい、志水です」
『私、香穂子の母親です。いつも娘がお世話になって』

 なんて返事をしていいのかわからないまま、ずっとケータイを耳に押しつけていると、
 香穂先輩のお母さんは、申し訳なさそうに話し続けた。

『ごめんなさいね。香穂子、夜中から急に熱が出たの。
 今日会う約束をしていたんですって? 何度も志水くんに謝っていたわ。本当にごめんなさい』
「いえ。それで……。香穂先輩の様子は?」
『ちょっと熱が高くて。今から病院に向かうところなの。また状態が落ち着いたら、お話してやってくださいね』

 お母さんは何度も僕に謝ると、静かに電話を切った。
 香穂先輩に似た声は、香穂先輩の面影を連れてくる。
 まるで先輩本人に謝られたみたいに、僕の方まで優しい気持ちになる。
 先輩は謝る必要なんてない。
 そう言って、何度も口づけて。腕の中にかかえこみたくなるほどに。

「……作曲の続きでもしようかな」

 僕は雑念を払うように、1度大きく頭を振ると、手にしていたコートとマフラーをハンガーに戻した。

 香穂先輩に聞いた、ヴァレンタインの話。
 あのあと、加地先輩に少しだけ話をして、ヴァレンタインにはお返しというのが必要だ、って知った。
 女性からチョコをもらった男性は、それに見合う何かを贈らなくてはいけない、と。

『お返しって、なにがいいんでしょう?』
『それは人それぞれだと思うよ。クッキーとかキャンディとか? 心がこもっていればなんでもいいんじゃないかな?』
『心……』
『ふふっ。いいなあ、志水くん。君の悩みが羨ましいよ』

 加地先輩の最後の言葉はよくわからなかったけど。
 心。……心、か。

 よく、先生たちも『心』って言う。『感情』とも。『パッション』だとか『エモーション』と表現する先生もいる。
 だけど、『心』ってなんだろう。
 音の強弱や速さみたいに、目には見えないもの。
 いわゆる音楽でいう『表現』に近い存在のもの。

 今の僕の香穂先輩への思いは、誰よりも強い。
 誰にだって胸を張ってそう言える。

「そうだ。この気持ちを……」

 僕はこの五線に表現できたらいい。

 生きているモノはみな、自分の音楽を持っている。
 僕の音楽もきっとどこかにある。

 僕は五線譜を食い入るように見つめると、そこから浮かび上がる旋律を凝視した。
*...*...*
 僕は午前中に完成したヴァイオリン譜を手に、香穂先輩の自宅に向かった。
 途中であの人が好きそうな、木イチゴのババロア、それにキャラメルのプリンを買う。
 これなら、熱があっても食べやすいかもしれない。

「はい……。どちらさまでしょう?」
「志水です。……香穂先輩のお見舞いに来ました」
「あ、あら? 志水くん? 来てくださったの? どうぞお入りになって」

 香穂先輩の家に着くと、意外にも香穂先輩のお母さんはコートを羽織り、手には大きめの紙袋を持っていた。
 今、まさに出かけようとしている人の格好だ。

「すみません。僕、また別の日にします」
「いえ。せっかく来てくださったんですもの。……ふふ、ちょうどよかった、と言ったら失礼かしら?」

 香穂先輩のお母さんは寒そうに肩をすくめると、2階を指さした。

「私、祖母が入院している病院から急に連絡が入って。今、香穂子には書き置きを残しておいたの。
 志水くんさえよければ、今から1時間くらい香穂子を看ててやってくれますか?
 多分薬が効いているだろうから、香穂子、ずっと寝ていると思うの」
「はい。……わかりました。僕でよかったら」
「本当にごめんなさいね。この階段を上がったすぐ左側のドアが香穂子の部屋よ?
 なにもおかまいはできないけれど、どうぞごゆっくりしていって。
 私が帰ったら、3人で一緒にお茶でもしましょう?」

 急ぎの用なのだろう。
 お母さんは僕に頭を下げると小走りで、門を飛び出して行く。

 香穂先輩に会えるか、会えないか。
 どちらでも構わない。そう思っていたけれど、本当のことを言えば会える方がいいに決まってる。
 僕は音を立てないように階段をのぼり、ノックしようとして手を止める。
 どうか、香穂先輩が起きませんように。

 部屋の主がいないかのように静まり返った部屋の中、香穂先輩はぐっすりと眠り込んでいた。
 この世のすべてのものが動くのを止めた世界で、かすかに布団だけが上下している。
 柔らかな朱い髪は、小さな三つ編みになって首筋に寄り添っていた。

「よかった……」

 思ったより顔色も悪くないし、呼吸も荒くない。
 この調子なら、しばらくすればまた元気になれるし、一緒に練習もできる。
 額にかかっていた香穂先輩の髪の毛をかき上げる。
 さらさらと頼りない髪はすぐ元の場所に戻りたがる。
 僕は飽きずに何度も同じことを繰り返した。

「あ、そうだ」

 僕は香穂先輩の部屋を見回すと、机の上に置かれているヴァイオリンのケースを開けた。
 きちんと教則本通りの手入れをしているのだろう。
 香穂先輩のヴァイオリンは、持ち主と同じ清潔感があった。

 香穂先輩を抱くようにそっとヴァイオリンを肩に載せる。
 そして、小さな音で作りたての旋律を音にしていく。
 不思議だな。
 僕は、音楽が好きで。チェロを弾くことが好きで。香穂先輩と合奏することが好きで。
 これ以上音楽のことを好きになんてなれない。そう思っていたけれど。
 ──── ただ、あなたのために弾くことが、こんな幸せを連れてくるなんて。

「志水、くん……?」
「すみません。起こしてしまいましたか?」
「ううん? 素敵な、メロディだなあ、って思ったら、目が、さめちゃった」

 のどが痛いのだろう。
 香穂先輩はかすれた声でつぶやくと、僕の顔を見て小さく笑った。

「僕の新しい曲です。香穂先輩に弾いてもらいたくてヴァイオリン譜にしました。
 まだ途中なんです。春の季節をイメージした曲で。本当は、3月のホワイトデーに贈ろうと思ってました。
 これを弾いた先輩が、明るく幸せな気持ちになれるように」
「……ありがとう」

 香穂先輩は半身を起こすと、枕元にたたんであったカーディガンを肩に羽織った。
 薄手の白いパジャマ。
 細い手首が見え隠れしている。
 少しだけ病みやつれた様子は、今まで見たどんな先輩よりも儚げで美しい。
 僕はベッドに腰掛けると、香穂先輩の手を取った。

「香穂先輩は、僕のことが好きですか?」
「は、はい……?」
「どうですか?」
「い、いきなりなんだもの。なんて言ったらいいのか……。余計に、熱が、上がりそう」

 顔のすぐ近くには僕の顔。背中にはベッドのフレーム。
 香穂先輩は困り切ったような表情を浮かべている。
 でも、どうだろう。
 あなたのそんな顔も可愛い、と言ったら、今度は布団の中に潜り込んでしまうかな。

 僕は香穂先輩の上半身を胸の中に抱きかかえると、そっと背中に手をあてた。
 柔らかな、温かさ。
 体調の悪い今日は抱くことができないけれど。
 先輩が元気になったらまたそのときは、この可愛い人の甘い声が聞きたい。

「今日はヴァレンタインだし、僕はただ、あなたの言葉が聞きたかっただけです」
「ん……」
「ああ、言葉で表現するのが難しいなら、態度で示してくれてもいいです」
「え……? そっちの方が、難易度、高いと思う……」
「ダメですか?」
「だ、ダメじゃない、けど……、でも、その! あまり近づくと、風邪、うつっちゃうよ?」
「時間切れです」
「は、はい?」
「……いいですよ。僕の方からしますから」





 僕は香穂先輩の頭を引き寄せると、淡い色の唇を何度も味わう。
 ──── 僕の中に、作曲をしているときと同じ、歓喜に似た想いがこみ上げてくる。
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