「じゃあ、あの……。今日の放課後、5時からのアンサンブル練習、よろしくお願いします」

 このコンサートのために、と、ライブライアンの役を買って出てくれた冬海ちゃんが清書してくれた楽譜。
 各パートごとに色分けされている注意書きは、冬海ちゃんがどれだけ『スケーターズ・ワルツ』を……。
 クリスマスコンサートで演奏する、この曲を大切に思っているかを伝えてくる。
 夜遅くまで頑張ってくれたのだろう。今朝見た冬海ちゃんは少しだけ目の端を朱くして笑ってたっけ。

「……この俺を呼び出すんだ。Vnパートの練習はできてるんだろうね?」
「は、はい! なんとか」

 柚木先輩は口の端をあげて、皮肉そうに笑う。
 私も、今朝この楽譜をもらって。
 頑張らなくちゃ、って、今日の授業のウチ、2時間は譜読みをすることができたもん。

 今は、3時。
 これから1時間、1人練習を頑張って。そのあとは1時間、土浦くんと2人練習をして。
 そのあとの、アンサンブル練習だもの。
 昨日より、は、ちょっとだけ、は、上達してるハズ。……うう、……上達、してるといいな……。

 柚木先輩は、そんな私の様子を面白そうに見つめたあと、ふと真顔に戻って尋ねてくる。

「ねえ、お前、放課後の練習が終わったあとは、どうしてるの?」
「はい?」
「なにか用事があるのか、って聞いてるんだけど」

 慌てて頭の中でカレンダーをめくる。
 最近の私は実際の日付よりも、クリスマスコンサートまでのカウントダウンの数字が浮かんでくる。
 えっと、今日はコンサートまであと5日。
 最後の週末の金曜日だ。

「えっと、用事は特にない、です」

 そうだ。クリスマス前、最後の週末だからって、須弥ちゃんたちに遊びに行く誘いを受けたんだっけ。
 かなり気持ちは揺らいだけれど……。
 今度のコンサートに対して真摯に取り組んでいる月森くんや土浦くんを思い出して、私はかぶりを振った。
 みんなに付いていくのがやっとの私が、今、風邪なんか引いたら、申し訳なさ過ぎるもの。

 私の返事に柚木先輩は小さく微笑むと、耳元でささやいた。


「だったら……。今日は遅くなると家に連絡しておけ」  
*...*...* Star 2 (Yunoki Ver.) *...*...*
 すっかり暗くなった街並みを、黒い車はしなやかに車線を替えながら進む。
 この街は、海も、山も。市街地もすぐのところにある。
 生まれ育ったこの環境を、今までは当たり前のものって考えてたところがあったけれど。
 こうして時々柚木先輩と行く場所は、私の中で特別な場所に生まれ変わっていく気がする。

「ここは……?」

 ボゥ、と柔らかく耳を撫でていく汽笛と、目の前に広がる海。目の前には大きなクルージング用の船が停まっている。

「お前、今日がどんな日だか知ってるか?」
「はい! あのね……。クリスマスコンサート5日前です」

 自信たっぷりに返事をすると、柚木先輩はこらえきれなくなったのか声を上げて笑った。

「ま、それもあるけどね。今夜は流星群がよく見えるんだよ」
「流星群……」

 そういえば、今日の昼休み、加地くんが言ってたっけ。
 僕の住んでいるマンションは最上階から星がよく見えるんだよ、って。
 あのときは譜読みに必死で、すごく簡単な相づちだけを返した気がする。
 ……今日、だったんだ。流星群。
 そっか、灯りの少ない海辺で見たら、星もたくさん見えるかな。
 だから柚木先輩は港まで連れ出してくれたんだ。

「ほら、おいで」
「えっと……。どこに、でしょう?」
「今からあの船に乗るんだよ。これから、海の上で流れ星を眺めるナイトクルーズの船が出る」
「は、はい!? ナイトクルーズ……?」

 ナイトクルーズって、私のイメージの中では、ドレスを着た女の人が熱帯魚みたいにひらひら看板の上を歩いてて。
 男の人はみんな、タキシードで。お酒がいっぱい出て。あ、そうだ、ボーイさんもいっぱいいて。
 その、柚木先輩はともかく、私みたいな子どもが行ってもいいのかな……。

 柚木先輩は私の屈託にかまうことなく私の手を引くと、船に乗り、人混みを縫いながら看板に出る。
 汽笛が陸との別れを惜しむかのように、大きく白い煙を吐いた。

 陸地よりも少し冷たい風が吹く。
 柚木先輩は空を見上げ、そして私の方を振り返ると、ふと首元を見つめて、自分のマフラーをほどいていく。

「風邪でも引かせたんじゃ寝覚めが悪い。ま、船の上ではこれでも巻いておいで」
「待ってください! それじゃ、柚木先輩が……」
「おや? 受験生に風邪でも引かせちゃ目覚めが悪いって?」
「はい! そのとおりです」

 先輩が手にしたマフラーを押し戻しながら、ブンブンと首を縦に振る。
 そ、そう。ほら、バカはなんとか、って言うもの。
 その摂理に従うなら、風邪引くのは絶対私じゃなくて柚木先輩になる。

「馬鹿。……俺が困るの」
「わ……っ、あ、あの、ありがとう、ございます……」

 手と手の押し問答に、柚木先輩は呆れたように手を伸ばすと強引にグルグルとマフラーを巻く。
 パープルの、柔らかいマフラー。
 少しだけ、柚木先輩の香りがする。


 どうしよう。このままじゃ、勘違いしてしまいたくなる。
 ──── 私が、この人を想うのと同じくらい、もしかしたら、この人も私のことを、って……。


 柚木先輩は手すりに手をかけると、大きく空を振り仰ぐ。
 満天の星空は、文字通り星が降るように多くて。
 あまりの数の多さに、日頃見慣れているオリオン座さえ かすむ気がする。

「街の灯りが遠くなって、流れ星が見え出したな。1つ……、2つ」
「ま、待って! 願いごと、言わなきゃ!! えっと、クリスマスコンサートが……。あ、消えちゃった……」
「ははっ。お前、なにムキになってるの?」
「流れ星、消えるの、早すぎです」

 尻切れトンボになった言葉の端が星空に消えていく。
 ううっ。今度こそ、リベンジ、だもんね!
 『今度のクリスマスコンサートが、絶対成功しますように』
 あれ? 『絶対』なんて、『今度』なんて入れてたら、また流れ星が消えちゃうかも。
 えっと……。『コンサート・成功!』なら、どうかな。この何文字かの願いなら、流れ星も頑張ってくれるかな?
 よし。まずは、流れ星を見落とさないようにしなきゃ。

 目を見開いて、流れ星を探す。
 頑張って何個か見つけたけれど、やっと発見、と思ったら、あっという間に消えていく。
 流れ星って、思ってた以上に、小さくて、儚いんだ……。

「あ、あれ? 柚木先輩は、願いごと、しないんですか?」
「俺?」
「はい。……あ、でも、柚木先輩なら何でも自分で叶えちゃう人かも、ですね」
「流れ星に願いごと? 俺はごめんだね」
「はい……?」

 柚木先輩は熱を帯びた目で私を覗き込む。
 これは、柚木先輩が想いを伝えようとするときの前兆。
 牧神の曲想を教えてくれたのも、フルートの歴史を聞かせてくれたときも、こういう目の色をしてたっけ……。

「一瞬で消える流れ星に、願いなんてかけられない。もし願いをかけるなら、俺はまぶしく輝く太陽に願いをかける」
「太陽? 星じゃなくて、ですか?」
「たとえば、『いつまでも変わらずにいてほしい』……、とかね」

 じっと見つめられたところが熱く自分の肌を滑っていく。

『いつまでも変わらずにいてほしい』

 そう願うこと。祈ること。
 多分、その気持ちは、柚木先輩より私の方がずっと大きいんじゃないかな。

 こうして、一緒の時間を過ごして、一緒に音楽を作って。
 ときどき、人の目を縫うようにして会う時間を作る。
 岸から離れてしまったこの船の上なら、もう、親衛隊さんに会うことは、多分なくて。
 イブニングドレスを着た女性。タキシードを着た男性が、誇らしげに看板にいざなう。
 制服姿の私たちはちょっと場違いだ。
 だけど、柚木先輩はそんなことには全然お構いないみたいに堂々としている。
 ……不思議。
 そんな柚木先輩と一緒にいると、私までこの星奏の制服が、ドレスみたいに思えてくる。

「叶うといいが……。どうだろうな」
「そ、それって……! そ、その、図々しくてごめんなさい、それって、もしかして……」
「多分お前の考えていることは当たり……、かな?」
「はい?」
「でもね、俺は意地悪だから言ってあげないよ。……お前の期待している言葉なんて」

 柚木先輩は言いたいことだけ言うと、茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。
 その様子は女の私から見ても可愛くて、キレイで。
 夜目に艶の増した長い髪。白い面輪は、楽しそうに輝いている。
 男の人だ、って分かってるのに、女の子以上な美しさは、見ているこっちまで照り返しが来るようで。

 寒さで感覚のなくなっていた耳が、かぁ、っと火をともしたみたいに熱くなった。
*...*...*
 家には1番小さい玄関の灯りがついている。
 今日の昼休みにあらかじめ帰る時間は言っておいたから、お母さんももうとっくに休んでるかなと思ったけれど。
 どうやら起きているみたい。
 ……心配、かけちゃったかも。
 私は音を立てないようにそっと門扉を開いた。

「あの船が出るのは今日だけだ。少しは面白かっただろう?」
「いえ、あの……。『少し』じゃなくて『すごく』楽しかったです! 本当にありがとうございます」
「……お前って……」
「はい?」
「いや、いい。今夜は暖かくして休めよ?」

 さらりと髪の毛を撫でられる。
 今日借りたマフラーの力で、少しだけ私のクセ毛も柚木先輩みたいに真っ直ぐになればいいのに。

「あ、あの! どうして?」

 私は車に乗り込もうとする背中に話しかけた。

「あの……。今日はどうして、その、私を誘ってくれたんですか?」

 もう少しで日付が変わる。
 こんな時間に、長引かせちゃ悪い、ってわかってる。
 だけど、目の前のこの人は、どうしてこんなに、意地悪で優しくて切なくて愛しいんだろう。
 また会いたい、って思うんだろう。変わらずにいて欲しいって願ってしまうんだろう。

 線の細い背中は一瞬だけ静止する。
 そして小さくため息をついた後、再び門扉に近づいてきた。

「言ったでしょう? お前の期待する言葉なんて言ってあげないって」
「はい……」
「ああ、そうだ。この前、3人で帰ったでしょう?」
「はい。あの、火原先輩と、柚木先輩の3人で帰った日のことですね」

 疲れてる様子だった柚木先輩を心配して、火原先輩は強引に彼を学院近くのラーメン屋に誘った。
 柚木先輩とラーメンって、月森くんとファーストフードみたいにしっくりこない感じだったけれど、
 意外にも柚木先輩は火原先輩のレクチャーの元、キレイな箸使いで出されたモノを食べていたっけ。


 門扉に乗せていた手に手が重なる。





「……俺はね、いつまでも3人でいるつもりはないってこと。わかった?」
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