*...*...* Toe (Shimizu) *...*...*
「ありがとう、志水くん。すごくキレイ……」
「……自分でも、紅茶を淹れるの、だいぶん上手くなった気がします」
「ね。ミントの葉っぱ、こうやって載せると可愛い!」
「はい。参考にしたレシピ本に載せるように書いてあったので」
 
 僕は香穂先輩の前に慎重にグラスを置くと、ほぅ、と詰めていた息を吐く。
 高校最後の夏休み。
 学院があってもなくても僕のしていることといえば、チェロ。譜読み。それに音楽の本を読むこと。
 やってることは変わらない、とは思うけど、やっぱり登下校の時間を練習に割けるのは嬉しいかな。
 
「うん、美味しい! これ、オレンジペコかな? すっきりしてる」
「はい。……香穂先輩がこの前好きだと言っていたから、叔母に頼んで買ってきてもらいました」
「そうなの? ……じゃあ、叔母さんにもお礼、言いたいな。……叔母さんは?」
「今、でかけています」
 
 黒い影が我が物顔で闊歩する季節。
 こう暑くては外での練習もままならない。
 そう思った僕は、今日は久しぶりに自宅に香穂先輩を誘った。
 夏休み前に図書館から借りた本がとてもわかりやすかったこともあって、この本を見せたい、という気持ちもあった。
 
 だけど、香穂先輩が大学生になってから、というもの、会えるのは週に一度。
 今回に限っていえば、……先週も会えなくて、その前も会えなかったから。
 こうして香穂先輩と向き合うのは3週間ぶりになる。
 なんでも先週は、ゼミの合宿。先々週は、サークルのみんなとの合同練習、だったかな。
 
 学院を卒業する前から。いや、卒業してからもなお。
 ヴァイオリンにのめり込んでいる香穂先輩を見ることは、同じ音楽の道を目指す僕としてはとても嬉しいことなのに。
 その反面、痛いほどの焦燥感に駆られるのも事実だったりする。
 
 ──── たった、1つの年の差。
 記憶のない小さい頃は別として、1番年齢差を感じる時期っていうのは、
 高校生である僕と大学生である香穂先輩の、今、この時期なんだろうか。
 それとも、僕が学生、香穂先輩が社会人になった頃?
 
 どちらにしても、僕の中にできた小さなわだかまりは ともすれば少し僕を不機嫌にする。
 今、テーブルの向こうに香穂先輩は、やけに遠くてやけに綺麗だ。
 横座りになって投げ出された つま先には、薄い桜貝のような爪が光っている。
 
「香穂先輩、……それ」
「え? ……マニキュアのこと? ん……。本当は手にも塗ってみたいんだけど。
 手の指はヴァイオリンの練習もあって、爪があまり伸ばせないから。だから、その」
 
 僕から注意を受けていると感じたのだろう。
 香穂先輩は身体を小さくすると、言い訳っぽく早口で言う。
 
「香穂先輩、僕が怒っていると思ったんですか?」
「え? あ、あれ? 違うの?」
「……可愛いな、って思っただけです」
「……なっ……」
 
 香穂先輩は僕の視線を避けるように目を伏せると、オレンジ色の液体を飲み込んだ。
 細いのどが2度3度、慌てたように波打つ。
 華奢な鎖骨。服の上からじゃわからない豊かな胸。少年のような腰。
 滑らかな肌の先に続く、香穂先輩を形作るいろいろな部位が、チカチカと頭をよぎっていく。
 
 香穂先輩は ほっと表情を和らげて僕を見上げた。
 
「よかった……。志水くん、もしかして機嫌が悪い? って思ってたから、勝手にドキドキしてた」
「やっぱりわかりますか?」
「はい?」
「でも、その理由はわからない。……そうですね?」
 
 僕は香穂先輩と自分とを隔てているテーブルを脇に追いやると、香穂先輩に手を伸ばす。
 
 
 
 
「……僕が不機嫌なのは、香穂先輩が足りないからです」
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