「香穂子。少し休息を取ってはどうだろうか?」
 
 俺は、大きなトレイを手に香穂子に声をかけた。
 特に好きとも嫌いとも思ったことはなかったが、今日の紅茶は温かそうな色をしている。
 ちょっと不便な左手は、無意識に傷を守ろうとしているのか、トレイはやや左に傾いでいる。
 
「あ、ありがとう。……月森くんが淹れてくれたの?」
 
 香穂子は笑いながらうなずくと、俺の近くに駆け寄ってくる。
 2月下旬の太陽は あっという間に姿を消して、自宅の練習室の窓からは、街灯が点々と1本の線を作った。  
*...*...* Palm (Tukimori) *...*...*
「月森くん、本当にありがとうね。最近はなかなか練習室も取れないし、
 外で練習するのも寒くて、すぐ指が動かなくなって困ってたの」
「別に、君さえよければ、俺は構わない」
 
 俺は慎重にトレイを置くと、香穂子の横に座った。
 日頃うちにはよく到来物だといってケーキが並んだが、最近はほとんど見ることがない。
 多分、俺があまり好物ではないことを知って、祖母はお手伝いさんにすぐ渡してしまうのだろう。
 ケーキを見て、パッと顔を輝かしている香穂子を見ると、とたんにこの甘い物が美味しそうに見えてくるのが可笑しい。
 
「あ、そうだ。月森くん、指は? もう大丈夫?」
「ああ。すまない。君には申し訳ないことをした」
「ううん? 申し訳ないことなんて全然ないよ? でも、ちょっと痛々しいかも」
 
 香穂子は紅茶のカップをソーサーに置くと、心配そうに眉根を寄せる。
 俺は、5センチ大の絆創膏が貼り付けられている左手を見て苦笑した。
 
 幼い頃から。
 鉄棒はおろか、跳び箱や球技など、指に負担がかかりそうなスポーツはすべて不参加を決め込んでいた。
 学校は俺の両親を意識したのだろう。特に注意を受けたことはなかった。
 そうして星奏学院へ進み。
 さすがに音楽科では指には気を遣う人間が多かったし、それほど目立つ存在ではなくなったのだが、
 今回の教訓は、家庭科でも指を怪我する場合をある、ということだろうか?
 
「ごめんね、私の渡した布、ちょっと分厚すぎたかな?」
「いや。君が謝ることはなにもない」
「5時間目が終わったころかな? 内田くんが私の教室まで来てくれたの。『月森がケガをした』って」
 
 巾着袋、というのだろうか。
 今回の家庭科は、小物を入れる袋を作る裁縫の授業だった。
 布の選び方も、いや、布がどこに売っているのかさえ知らなかった俺に、
 香穂子は私と一緒でよかったら、と空色の布を分けてくれた。
 型紙、というのを布にあて、チャコペンシル? とかいう文具のようなもので印を付け。
 もう少しで切り終わる。その時、俺は裁ちばさみの先で、布に添えていた左手と布を裁断した。
 ……というところか。
 
 幸いなことに、はさみは親指の付け根部分を少し傷つけただけだったし、
 その日の午後も、問題なく練習はできた。
 
 だが、俺の演奏している様子を見たあとも、そして今も。
 香穂子の顔色は、保健室に飛び込んできたときのままだ。
 
「しかし、すまない。……血で布が汚れてしまった。これはどうしたらいいのだろうか?」
「じゃあ、私の布と交換しよう? 私、もう、布は裁ってあるし。私が月森くんの布で作るから」
「それでは、君が」
「……よかった」
「は?」
「……大きなケガじゃなくて、本当によかった」
 
 香穂子は、俺の左手を壊れ物のように持ち上げると、両手で包み込む。
 細い指で、爪を撫で、関節を確かめ。
 そして、記憶に留めるかのように、最後に手のひらの重さを確かめるようにゆっくりと揺すると手を離した。
 
「ま、また、1つ、月森くんとの思い出ができたね」
 
 
 ──── 留学まで、あと1ヶ月。
 止められない時間の中で、香穂子は、ある時期を過ぎたころから泣くのを止めた。
 泣く代わりに できることを探すの。
 口元では笑いながら、目は泣き出しそうになっているアンバランスさを、今の俺はどうしようもできない。
 
 俺は右手で香穂子の手を引っ張ると、そのまま怪我をしている手に乗せた。
 
 
 
「ずっと触れていてくれないだろうか?」
「はい?」
 
 
「……君が触れていてくれたら、早く治りそうな気がする」
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